梅棹忠夫著「山をたのしむ」(山と渓谷社)に
小山修三氏について、梅棹氏が紹介している箇所がありました。
小山氏とは、どんな方なのか。
「吹田市立博物館長の小山修三氏は、国立民族学博物館(民博)の名誉教授でもある。ときどき民博へ来てはしらべものをし、わたしのところにも顔をみせおしゃべりをしてゆく。わたしも、やりのこしている仕事や編集中のほんのことなどを話題にしていた。
昨年六月にひらかれたわたしの米寿記念のあつまりには、かれは準備段階から参画し、半年間わたしのところにかよって週に一度のインタビューをつづけ、わたしの体調と気分を引っぱりあげてくれた。シンポジュウム当日は、コーディネーターとして、わたしや発言者たちの話をうまくつなぎ、その内容を一冊の本にまとめるときも、編者のひとりとして本の完成を最後まで指揮した。
このほど・・・・小山氏と習慣のようになった対話を再開した。話は梅棹アーカイブズのなかから、中学時代の山ゆきのノートや、それをまとめた山岳誌など、なまの資料を手にしてすすんだ。おかげで、本書に収録した各論稿を再確認し、あらためて、わたしの行きかたをふりかえることができた。つぎにかかげるのがその対話のまとめである。(2009年・・)」
こうして「山をたのしむ」の最後は、小山氏との対話が掲載されておりました。
そのなかに、あれ、と思った箇所。
小山】 日本独特のものはないのでしょうか。山伏とか、坊さんとか。
梅棹】 そっちも流れている。明らかに、大きな文化の流れや。
大衆登山というか、宗教登山やな。立山の剱岳の頂上で錫杖の頭が見つかったというから、平安時代まで遡る。わたしも、子どもの時から、その洗礼を受けています。うちの親父が修験道の先達(せんだち)でした。先達というのは山ゆきのリーダーで、二、三派があるけれど、親父は聖護院派でした。うちの玄関を入ったところの上に、先達の菅笠と錫杖が飾ってあった。親父は大峰山へせっせと行っていました。
小山】 お父さんから、山登りの話を聞いていましたか。
梅棹】 聞いています。誰もそうは思ってないだろうけれど、わたしにはそういう『血統』があるな。
小山】 ああ、そうか、山伏の養分も入っているのか(笑)。 (p317)
そして、学生時代の山登りの様子が語られております。
小山】 でも、落第した。学校へ行かんと山ばかり行ってたからですか。
梅棹】 まあねえ。三高山岳部の部屋に、大きな方眼紙が貼ってあって、左はしに部員の名前が書いてある。山へ行った日数を棒グラフで伸ばしていくのです。もっとも、土曜日のお昼に授業が終わったらすぐに山へ出かけて、これで一日になる。月曜日の授業にとにかく間に合えばいいから、月曜日も一日に勘定できる。それで土曜日から三日。わたしの登山日数は毎年トップで、100日をこえた年もあった。そら、落第もするわいな(笑)。一年の三分の一を山についやしていたんやから。
小山】 半分以上じゃないですか(笑)。授業もまじめに聞いてなかったんでしょう。
(p325)
という、引用するなら、ずらずらと全部引用したくなる対話となっております。
その対話の題が「山と探検と学問と」。
小山修三氏について、梅棹氏が紹介している箇所がありました。
小山氏とは、どんな方なのか。
「吹田市立博物館長の小山修三氏は、国立民族学博物館(民博)の名誉教授でもある。ときどき民博へ来てはしらべものをし、わたしのところにも顔をみせおしゃべりをしてゆく。わたしも、やりのこしている仕事や編集中のほんのことなどを話題にしていた。
昨年六月にひらかれたわたしの米寿記念のあつまりには、かれは準備段階から参画し、半年間わたしのところにかよって週に一度のインタビューをつづけ、わたしの体調と気分を引っぱりあげてくれた。シンポジュウム当日は、コーディネーターとして、わたしや発言者たちの話をうまくつなぎ、その内容を一冊の本にまとめるときも、編者のひとりとして本の完成を最後まで指揮した。
このほど・・・・小山氏と習慣のようになった対話を再開した。話は梅棹アーカイブズのなかから、中学時代の山ゆきのノートや、それをまとめた山岳誌など、なまの資料を手にしてすすんだ。おかげで、本書に収録した各論稿を再確認し、あらためて、わたしの行きかたをふりかえることができた。つぎにかかげるのがその対話のまとめである。(2009年・・)」
こうして「山をたのしむ」の最後は、小山氏との対話が掲載されておりました。
そのなかに、あれ、と思った箇所。
小山】 日本独特のものはないのでしょうか。山伏とか、坊さんとか。
梅棹】 そっちも流れている。明らかに、大きな文化の流れや。
大衆登山というか、宗教登山やな。立山の剱岳の頂上で錫杖の頭が見つかったというから、平安時代まで遡る。わたしも、子どもの時から、その洗礼を受けています。うちの親父が修験道の先達(せんだち)でした。先達というのは山ゆきのリーダーで、二、三派があるけれど、親父は聖護院派でした。うちの玄関を入ったところの上に、先達の菅笠と錫杖が飾ってあった。親父は大峰山へせっせと行っていました。
小山】 お父さんから、山登りの話を聞いていましたか。
梅棹】 聞いています。誰もそうは思ってないだろうけれど、わたしにはそういう『血統』があるな。
小山】 ああ、そうか、山伏の養分も入っているのか(笑)。 (p317)
そして、学生時代の山登りの様子が語られております。
小山】 でも、落第した。学校へ行かんと山ばかり行ってたからですか。
梅棹】 まあねえ。三高山岳部の部屋に、大きな方眼紙が貼ってあって、左はしに部員の名前が書いてある。山へ行った日数を棒グラフで伸ばしていくのです。もっとも、土曜日のお昼に授業が終わったらすぐに山へ出かけて、これで一日になる。月曜日の授業にとにかく間に合えばいいから、月曜日も一日に勘定できる。それで土曜日から三日。わたしの登山日数は毎年トップで、100日をこえた年もあった。そら、落第もするわいな(笑)。一年の三分の一を山についやしていたんやから。
小山】 半分以上じゃないですか(笑)。授業もまじめに聞いてなかったんでしょう。
(p325)
という、引用するなら、ずらずらと全部引用したくなる対話となっております。
その対話の題が「山と探検と学問と」。
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