和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

でんでんむし でむし。

2020-01-26 | 古典
「四季の京わらべ歌 あんなのかぼちゃ」(京都新聞社)
で、高橋美智子さんは、小学唱歌のかたつむりを引用し
そのあとに、こう記しておりました。

「この歌の通り、触覚の先の目玉をちょんとさわると、
すーっと殻の中へ入ってしまうのが面白くて、
でんでん虫には迷惑ないたずらをよくしたものです。

でんでん虫という名も、殻の中にひっこむと
なかなか出てこないから名づけられた、
と考えられています。

この『つの出せやり出せ』の歌の類例は、
日本各地にあるばかりでなく、中国や
ヨーロッパ諸国に及んでいます。
殻の中へ閉じこもってしまったでんでん虫に、
なんとかその角を出させようとうたうわけですが、

おどかす歌と、ごほうびをあげるという歌
との二通りがみられます。
マザアグウスに、『パンとおむぎをそれあげよ』
とあるのはごほうびの例でしょう。」(p74~75)

うん。二通り以外にもと、
ついつい、私は連想をひろげます。
思い浮かぶのは、新美南吉「デンデンムシノ カナシミ」。
それを読んだ美智子さまは
「子供時代の読書の思い出 橋をかける」(すえもりブックス)
に、その思い出を記しておられます。
その美智子さまの文から、引用

それを聞かせてもらったのは

「あの頃、私は幾つくらいだったのでしょう。
母や、母の父である祖父、叔父や叔母たちが
本を読んだりお話をしてくれたのは、
私が小学校の二年くらいまででしたから、
四歳から七歳くらいまでの間であったと思います。」

と、聞いた年代を思いだしております。
では、美智子さまが紹介している箇所。


「新美南吉の『でんでん虫のかなしみ』に
そってお話いたします。そのでんでん虫は、
ある日突然、自分の背中の殻に、
悲しみが一杯つまっていることに気付き、
友達を訪ね、もう生きていけないのではないか、
と自分の背負っている不幸を話します。

友達のでんでん虫は、それはあなただけではない、
私の背中の殻にも、悲しみは一杯つまっている、
と答えます。

小さなでんでん虫は、別の友達、又別の友達と
訪ねて行き、同じことを話すのですが、
どの友達からも返って来る答えは同じでした。

そして、でんでん虫はやっと、悲しみは誰でも
持っているのだ、ということに気付きます。

自分だけではないのだ。私は、私の悲しみを
こらえていかなければならない。

この話は、このでんでん虫が、もうなげくのを
やめたところで終っています。」


こうして、美智子さまは語ります。

「この話は、その後何度となく、
思いがけない時に私の記憶に甦って来ました。
殻一杯になる程の悲しみということと、
ある日突然そのことに気付き、
もう生きていけないと思ったでんでん虫の不安とが、
私の記憶に刻みこまれていたのでしょう。

少し大きくなると、はじめて聞いた時のように、
『ああよかった』だけでは済まされなくなりました。
生きていくということは、楽なことではないのだという、
何とはない不安を感じることもありました。

それでも、私は、この話が決して嫌いでは
ありませんでした。」


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