外山滋比古著「俳句的」(みすず書房)を
あちこち、めくり読み(笑)。
うん。おもしろかった。
そういえば、と
丸谷才一著「挨拶はたいへんだ」(朝日新聞社)を
とりだしてくる。その対談にこんな箇所
丸谷】 ・・・詩人たちの会というのは長いのよねえ。
井上】 普段、短く書いているからでしょう(笑)。
丸谷】 高見順賞のパーティなんて長い。
それから、受賞者の挨拶というので、だれそれに感謝します。
だれそれに感謝しますっていうのを、はじめから終りまで
しゃべる人がいるでしょう。二十人も三十人もに対して
感謝する。それで終りなのね。
井上】 ハハハハハ。
丸谷】 感謝される対象と感謝する人との共同体だけの
問題ですよね。
丸谷】 ・・・だから、ああいうの困るんだなあ。
外山滋比古著「俳句的」には
「かねてから、俳人の書く散文が一般に
どうしてあんなに味気なくなるのか、
不思議に思っていた私は・・・」(p57)
という箇所があったのでした。
それで、「挨拶はたいへんだ」の詩人たちの会
へと連想がひろがりました(笑)。
ちなみに、外山さんの
この言葉は「エディターシップ」という題する文
にありました。その文のはじまりは
「車谷弘『わが俳句交遊記』をおいしい菓子を
すこしずつ味わうようにして読み上げた。
久しぶりに心ゆく読書をしたという感じである。」
「かねてから、俳人の書く散文が一般にどうして
あんなに味気なくなるのか、不思議に思っていた私は、
車谷さんの滋味深い文章にとりわけの感銘を受けた。」
「『わが俳句交遊記』を深いものにしているのは、
著者の心のあたたかさだと思う。その目くばりによって、
思いがけない人と人、人ともの、ものとものとが結びつけ
られる。その独創が読むものにしばしば息を呑ませる。
車谷さんは長年、編集者であったが、ここで編集者は
詩人であることを身をもって示しているように思われる。」
はい、このあとが面白いのですが、それはそうと、
さっそく、古本をネット注文することに(笑)。
ちなみに、俳句と本という取り合わせで、
最近印象に残っている句がありました。
宿狭く炭によごれし著聞集 成美
「家が狭いので、炭の粉が本にかかつた、
といふので、其本は古今著聞集である。
炭によごれるといふ事に何となく
著聞集が調和するのである。
謡本は春雨の枕にふさはしく、
朗詠集は七夕頃の机にふさはしい。
源氏物語のある所は上品な家らしく、
徒然草のある所は洒落な庵らしい。
さういふ風に自ら書籍に特殊の趣がある。
書名を句に詠込むといふことは
一種面白いことである。・・・」
(沼波瓊音著「俳句講話」p214)
はい。新聞の新刊書評欄を読まなくなりました。
毎日新聞の今週の本棚を購読するのをやめました。
本を読んでいると、そのなかに本が
さりげなく紹介されていて、
それをすくいあげては、ネット古本へと
注文する楽しみで、私は十分(笑)。
それはそうと、
「俳句的」という本では、
「放つ」と題した文が印象的。
その文の最後の頁のはじまりは
「座談会のおもしろさは論理を散らすおもしろさである。
散らしながら全体としてどこかつながっていないこともない。
豆腐の論理であり、俳諧の美学である。それが一般読者に
人気があるのは、多くの日本人に俳諧の心がある証左である。」
そして、その頁のおわりは、こうでした。
「言語表現においても、がっちり組み立てるのではなく、
豆腐のような言葉を切って水に放つようなところに
おもしろさを見出した。俳諧から座談会記事まで、
日本の言語文化は放つ美学、逆エディターシップの
おもしろさを追求してきた軌跡であると
言ってもよいのではあるまいか。」(p102)
はい。「豆腐のような言葉を切って水に放つような」。
豆腐の論理・俳諧の美学。
このテーマに遊ぶ楽しさ(笑)。
あちこち、めくり読み(笑)。
うん。おもしろかった。
そういえば、と
丸谷才一著「挨拶はたいへんだ」(朝日新聞社)を
とりだしてくる。その対談にこんな箇所
丸谷】 ・・・詩人たちの会というのは長いのよねえ。
井上】 普段、短く書いているからでしょう(笑)。
丸谷】 高見順賞のパーティなんて長い。
それから、受賞者の挨拶というので、だれそれに感謝します。
だれそれに感謝しますっていうのを、はじめから終りまで
しゃべる人がいるでしょう。二十人も三十人もに対して
感謝する。それで終りなのね。
井上】 ハハハハハ。
丸谷】 感謝される対象と感謝する人との共同体だけの
問題ですよね。
丸谷】 ・・・だから、ああいうの困るんだなあ。
外山滋比古著「俳句的」には
「かねてから、俳人の書く散文が一般に
どうしてあんなに味気なくなるのか、
不思議に思っていた私は・・・」(p57)
という箇所があったのでした。
それで、「挨拶はたいへんだ」の詩人たちの会
へと連想がひろがりました(笑)。
ちなみに、外山さんの
この言葉は「エディターシップ」という題する文
にありました。その文のはじまりは
「車谷弘『わが俳句交遊記』をおいしい菓子を
すこしずつ味わうようにして読み上げた。
久しぶりに心ゆく読書をしたという感じである。」
「かねてから、俳人の書く散文が一般にどうして
あんなに味気なくなるのか、不思議に思っていた私は、
車谷さんの滋味深い文章にとりわけの感銘を受けた。」
「『わが俳句交遊記』を深いものにしているのは、
著者の心のあたたかさだと思う。その目くばりによって、
思いがけない人と人、人ともの、ものとものとが結びつけ
られる。その独創が読むものにしばしば息を呑ませる。
車谷さんは長年、編集者であったが、ここで編集者は
詩人であることを身をもって示しているように思われる。」
はい、このあとが面白いのですが、それはそうと、
さっそく、古本をネット注文することに(笑)。
ちなみに、俳句と本という取り合わせで、
最近印象に残っている句がありました。
宿狭く炭によごれし著聞集 成美
「家が狭いので、炭の粉が本にかかつた、
といふので、其本は古今著聞集である。
炭によごれるといふ事に何となく
著聞集が調和するのである。
謡本は春雨の枕にふさはしく、
朗詠集は七夕頃の机にふさはしい。
源氏物語のある所は上品な家らしく、
徒然草のある所は洒落な庵らしい。
さういふ風に自ら書籍に特殊の趣がある。
書名を句に詠込むといふことは
一種面白いことである。・・・」
(沼波瓊音著「俳句講話」p214)
はい。新聞の新刊書評欄を読まなくなりました。
毎日新聞の今週の本棚を購読するのをやめました。
本を読んでいると、そのなかに本が
さりげなく紹介されていて、
それをすくいあげては、ネット古本へと
注文する楽しみで、私は十分(笑)。
それはそうと、
「俳句的」という本では、
「放つ」と題した文が印象的。
その文の最後の頁のはじまりは
「座談会のおもしろさは論理を散らすおもしろさである。
散らしながら全体としてどこかつながっていないこともない。
豆腐の論理であり、俳諧の美学である。それが一般読者に
人気があるのは、多くの日本人に俳諧の心がある証左である。」
そして、その頁のおわりは、こうでした。
「言語表現においても、がっちり組み立てるのではなく、
豆腐のような言葉を切って水に放つようなところに
おもしろさを見出した。俳諧から座談会記事まで、
日本の言語文化は放つ美学、逆エディターシップの
おもしろさを追求してきた軌跡であると
言ってもよいのではあるまいか。」(p102)
はい。「豆腐のような言葉を切って水に放つような」。
豆腐の論理・俳諧の美学。
このテーマに遊ぶ楽しさ(笑)。
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