町田嘉章・浅野建二編「日本民謡集」(岩波文庫)の
最後にある解説をめくったら、上田敏の名前が出ておりました。
そこを引用。
「・・上田敏が明治37年1月発行の『帝国文学』に掲載した
『楽話』(「文芸講話」所収)という文章の中で
『 一体、私は我邦音楽界の急務として、
なるべく早く実行したいと思ふ事業がある。
それは民謡楽の蒐集である。
文明の普及と共に、山間僻地も自ら都会の俗悪なる諸分子を吸収して、
醇朴なる気風の消滅すると共に、古来より歌ひ伝へたる民謡も
全然滅亡しそうであるから、今のうち早く蒐めて保存することは、
歴史家其他の人の急務であるが、私の目的は左様いふ考古学上の
事に止まらず、実は他日国民音楽を大成する時に、
一種の尚ぶべき材料と成るであろうといふ考だ云々 』
と述べているのが早い。わが国の文学界にこの語が
頻出するようになったのもこの頃から以後のことらしく・・・」(p402)
そういえば、永瀬清子著「すぎ去ればすべてなつかしい日々」(福武書店)
をひらいていたら、そこにも上田敏の名前が登場しておりました。
3ページほどの短文の題は『 詩を書き始めたころ 』とあります。
はじまりは
「 大正11年の秋、名古屋の電気局へ父の転任が決まり、一家
(父母、私をかしらに3人の娘、4人目に初めて生れた男の子の誠一・・)
が金沢を発つ事になった。・・・・・ 」(p52)
それから真中を端折って後半を引用しておきます。
「 大正12年の2月半ばごろ、末の妹が激しい大腸カタルで入院し、
私はつきそって1ヵ月ほど看病した。 ・・・・
父母は私の親身の看病を感謝してくれて、
何でも好きなものを買ってあげようと言ってくれた。
その時私は新聞で『 上田敏詩集 』の広告を見ていたので
躊躇なく『 この本を買って下さい 』と言った。
そのころ、女の人はほとんど詩を書いてはいなかったし、
まともな女性には用のないものだとも思われていた。
男でも家や身を省みぬ道楽者、或は無頼の人間の仕事と
思われていたので、父や母にはやや心配だったと思う。
しかし私は今まで何一つほしがったり無理を言った事はなかったし、
父母もいったん何でも買ってやると言った以上、嘘はつけぬと考え、
『うつのみや』に注文し病室に早速とどけてくれた。
早春の光のさしそめた妹の枕辺で、
私はくり返しその本を読みふけり、
私も詩人になるほかないと心に決めたのであった。
それが私の詩の道に入る最初のきっかけとなったのであった。 」(~p54)
はい。ここで上田敏へと寄り道していると先にすすめそうもないので、
ここでは、民謡・上田敏・詩・永瀬清子の組み合わせのチェックのみ。
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