7月17日に神輿(みこし)渡御。
晴れるといいなあ。
役員なので、当日の会計さんや接待さん交通さんへの依頼にまわりました。
これは、神輿のあとについて寄付を受け取ったり、飲み物をふるまったりする役で、
直接には神輿をかつぎません。そのかたがたに役をお願いにまわる。
もう、年だから勘弁してくださいというのが、あります。
親族が亡くなって49日前だから、一年たたないから。というのもあります。
もう30分も歩けないよ。というのもあります。
まあ、高齢化でいろいろあります。
さて、神輿の歌の最初の練習も、この10日にありました。
年齢層が幅広いのですが、そのままに高齢化の波がじわじわ。
ということで、疲れるという話題になったりします。
すると、定年をむかえてもう何年かたっておられる方が、そりゃ
年々疲れが増すのは、年のせいだよ。と教えてくれます。
まあ、そういう話をしているわけです。
そして、ビールや酒を飲んで、神輿の歌を唄って解散。
さてっと、窪田空穂全集月報の話。
月報28に角川源義氏が「完結にあたり」という文を書いておりました。
そこに井上靖氏が登場しておりました。
文壇のゴルフ大会の話からはじまっておりました。
「・・珍しく井上靖さんが見えていた。井上さんは癌の疑いで、年の暮に入院されていた。せっかく来たのだから、雨のあがるのを待ってやろうということになり、癌の疑いから解放された井上さんが晴々しい顔付きで、死を意識した心境を話されていた。・・・・その話のついでに、とつぜん井上さんは、日本経済新聞から正月元旦の原稿を頼まれて書いたのだが、元日になってみると、自分の原稿がはずされていた話をされはじめた。内心面白くなかったので、どんな原稿が自分のかわりに入っているのか読んでみる気になったというのである。窪田空穂さんの『九十歳賀すべし』が予定のページを飾っていた。読むうちにすっかり感動し、自分が編集者であったら、どんな有名人の原稿でも、はずして掲載する決意をしただろうと、爽やかに話されていた。」
そこで、全集別冊の「窪田空穂資料」をひらくと、そこにありました。
ということで、「九十歳賀すべし」を途中からすこし引用。
「・・・九十歳になって顧みると、最も切実に老を感じさせられたのは五十台であった。四十台には菲才(ひさい)の私も、今が年盛りだと思えた。私が母校の一講師にされたのは四十台にはいってで、何事も立ち遅れている、今から勉強して、取り返しをつけようと思った年台であった。私は老学生の気になって、むきに勉強した。勉強していると十年は短かった。しかし根気の衰えを感じさせられる場合が多く、事毎に若い頃と比較して嘆息させられた。六十台になると、五十台は良かったなあと思った。七十台になると、六十台は良かったなあという嘆息は出たが、同時に諦めもついて来た。人間の定命(じょうみょう)には限度がある。七十台は植物でいうと、花が咲いて散り、実となる時だ。どんな農夫でも、また植木屋でも、その時になって肥料をほどこす者は無い。無能は無能なりに、相応した収穫をすべき時だと諦めがついて来たのである。八十台はその延長であった。人間七十台までだな、としみじみ思わせられた。私などのして来たような事でも、がまんと無理をしなくては何も出来ない。何をしてもすぐ疲れる。厭になる。結局、何も出来ないのである。」
そして最後は、
「・・・寿命など、我が物に似ているが、結局わが物ではなく、手のつけられない物である。言いつづけると愚痴めくから止める。九十歳賀すべしである。(昭和41年1月1日「日本経済新聞」)」
晴れるといいなあ。
役員なので、当日の会計さんや接待さん交通さんへの依頼にまわりました。
これは、神輿のあとについて寄付を受け取ったり、飲み物をふるまったりする役で、
直接には神輿をかつぎません。そのかたがたに役をお願いにまわる。
もう、年だから勘弁してくださいというのが、あります。
親族が亡くなって49日前だから、一年たたないから。というのもあります。
もう30分も歩けないよ。というのもあります。
まあ、高齢化でいろいろあります。
さて、神輿の歌の最初の練習も、この10日にありました。
年齢層が幅広いのですが、そのままに高齢化の波がじわじわ。
ということで、疲れるという話題になったりします。
すると、定年をむかえてもう何年かたっておられる方が、そりゃ
年々疲れが増すのは、年のせいだよ。と教えてくれます。
まあ、そういう話をしているわけです。
そして、ビールや酒を飲んで、神輿の歌を唄って解散。
さてっと、窪田空穂全集月報の話。
月報28に角川源義氏が「完結にあたり」という文を書いておりました。
そこに井上靖氏が登場しておりました。
文壇のゴルフ大会の話からはじまっておりました。
「・・珍しく井上靖さんが見えていた。井上さんは癌の疑いで、年の暮に入院されていた。せっかく来たのだから、雨のあがるのを待ってやろうということになり、癌の疑いから解放された井上さんが晴々しい顔付きで、死を意識した心境を話されていた。・・・・その話のついでに、とつぜん井上さんは、日本経済新聞から正月元旦の原稿を頼まれて書いたのだが、元日になってみると、自分の原稿がはずされていた話をされはじめた。内心面白くなかったので、どんな原稿が自分のかわりに入っているのか読んでみる気になったというのである。窪田空穂さんの『九十歳賀すべし』が予定のページを飾っていた。読むうちにすっかり感動し、自分が編集者であったら、どんな有名人の原稿でも、はずして掲載する決意をしただろうと、爽やかに話されていた。」
そこで、全集別冊の「窪田空穂資料」をひらくと、そこにありました。
ということで、「九十歳賀すべし」を途中からすこし引用。
「・・・九十歳になって顧みると、最も切実に老を感じさせられたのは五十台であった。四十台には菲才(ひさい)の私も、今が年盛りだと思えた。私が母校の一講師にされたのは四十台にはいってで、何事も立ち遅れている、今から勉強して、取り返しをつけようと思った年台であった。私は老学生の気になって、むきに勉強した。勉強していると十年は短かった。しかし根気の衰えを感じさせられる場合が多く、事毎に若い頃と比較して嘆息させられた。六十台になると、五十台は良かったなあと思った。七十台になると、六十台は良かったなあという嘆息は出たが、同時に諦めもついて来た。人間の定命(じょうみょう)には限度がある。七十台は植物でいうと、花が咲いて散り、実となる時だ。どんな農夫でも、また植木屋でも、その時になって肥料をほどこす者は無い。無能は無能なりに、相応した収穫をすべき時だと諦めがついて来たのである。八十台はその延長であった。人間七十台までだな、としみじみ思わせられた。私などのして来たような事でも、がまんと無理をしなくては何も出来ない。何をしてもすぐ疲れる。厭になる。結局、何も出来ないのである。」
そして最後は、
「・・・寿命など、我が物に似ているが、結局わが物ではなく、手のつけられない物である。言いつづけると愚痴めくから止める。九十歳賀すべしである。(昭和41年1月1日「日本経済新聞」)」
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