司馬遼太郎・福島靖夫往復手紙
「もうひとつの『風塵抄』」(中央公論新社)を
読んだ時に、印象に残っていた箇所。
そこに、風塵抄44「日本的感性」を
めぐる手紙のやりとりがありました。
最後に司馬さんがこう書いております。
「よく読みこんでくださってありがとう。・・・
ホンダのオートバイや小型車が、性能以上に
デザインで世界文化に貢献していると思うのです。
小説・詩といった文学の分野は、言語の問題があります
から、基本的には、その国々の国内的なものです。
ただ、俳句の『形式』が、世界の詩型に貢献しています。
・・・料理、服装デザインもいいですね。
ただ、すべてにおいてダイナミズムに欠けます。
これは、『欠ける』という短所を長所にしてしまったほうが
いいと思うのです。東山魁夷さんの杉の山の絵を、
装飾的、平面的、非人間的ながら、
これこそ絵画だという美学的創見が必要なのです。
そういう評論家がいないというのが問題ですが。」(p64)
うん。東山魁夷ですか。
30年以上前なのですが、山種美術館かどこかで、
土手に日が射しているだけの日本画を見たことがあります。
そこだけクローズアップされた絵だったのですが、印象深かった。
それは東山魁夷とは、別の方の日本画でした。
さてっと、
この頃俳句への興味が持続しています(笑)。
高浜虚子の俳句に
遠山に日の当りたる枯野かな
というのがありました。
それについて大岡信氏は、こう書いておりました。
「・・・たぶん、
虚子はこの句を何気なく作ったのでしょう。
でも、あっと思ったにちがいありません。
これはおもしろい句だなと思ったでしょう。
なんでもないものがおもしろいというのは、
いつまでもいつまでも同じおもしろさが残るからです。
そういう逆説的なおもしろさということが
俳句にはとくにあるのです。」
「俳句にはとくにあるのです」
というのが、日本画にもあって、
東山魁夷の外国の風景にも、それはあてはまりそうです。
そうおもいながら、大岡信氏の言葉を反芻したくなります。
「なんでもないものがおもしろいというのは、
いつまでもいつまでも同じおもしろさが残る・・」
ということで、俳句と美学的創見。
「もうひとつの『風塵抄』」(中央公論新社)を
読んだ時に、印象に残っていた箇所。
そこに、風塵抄44「日本的感性」を
めぐる手紙のやりとりがありました。
最後に司馬さんがこう書いております。
「よく読みこんでくださってありがとう。・・・
ホンダのオートバイや小型車が、性能以上に
デザインで世界文化に貢献していると思うのです。
小説・詩といった文学の分野は、言語の問題があります
から、基本的には、その国々の国内的なものです。
ただ、俳句の『形式』が、世界の詩型に貢献しています。
・・・料理、服装デザインもいいですね。
ただ、すべてにおいてダイナミズムに欠けます。
これは、『欠ける』という短所を長所にしてしまったほうが
いいと思うのです。東山魁夷さんの杉の山の絵を、
装飾的、平面的、非人間的ながら、
これこそ絵画だという美学的創見が必要なのです。
そういう評論家がいないというのが問題ですが。」(p64)
うん。東山魁夷ですか。
30年以上前なのですが、山種美術館かどこかで、
土手に日が射しているだけの日本画を見たことがあります。
そこだけクローズアップされた絵だったのですが、印象深かった。
それは東山魁夷とは、別の方の日本画でした。
さてっと、
この頃俳句への興味が持続しています(笑)。
高浜虚子の俳句に
遠山に日の当りたる枯野かな
というのがありました。
それについて大岡信氏は、こう書いておりました。
「・・・たぶん、
虚子はこの句を何気なく作ったのでしょう。
でも、あっと思ったにちがいありません。
これはおもしろい句だなと思ったでしょう。
なんでもないものがおもしろいというのは、
いつまでもいつまでも同じおもしろさが残るからです。
そういう逆説的なおもしろさということが
俳句にはとくにあるのです。」
「俳句にはとくにあるのです」
というのが、日本画にもあって、
東山魁夷の外国の風景にも、それはあてはまりそうです。
そうおもいながら、大岡信氏の言葉を反芻したくなります。
「なんでもないものがおもしろいというのは、
いつまでもいつまでも同じおもしろさが残る・・」
ということで、俳句と美学的創見。
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