和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

京都に熱波がくるとね。

2019-07-31 | 本棚並べ
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)で、
一か所、多田道太郎さんのお名前が登場しておりました。
その個所が面白いのでつい引用。

「・・研究会がある月曜日は、いつも静かな研究所の廊下が、
お昼すぎから人の足音でざわめきはじめる。
研究会は一時半からとなっているが、十二時半ごろから
研究室にメンバーの先生が寄ってこられ、ここでちょっと
お茶をのんで、会がはじまるまで、おしゃべりをしていかれる。

時間がきて・・・奥の会議室からにぎやかな話し声がもれてくる。
ときには『ワァー』と、はじけるような爆笑がきこえ・・・
そばにいた用務員さんが・・・
梅棹班はとにかく声が大きく、よく笑うのだそうである。
『いちばん静かな班とくらべたら、お通夜と寄席ほどのちがいです』
と、若いほうの用務員さんがおしえてくれた。
小杉さんのいる藤岡研究室は会議室の一つおいてとなりだったが、
そこまで笑い声がもれてくることがあるそうだ。とすると、
会議室と藤岡研究室のあいだにある多田道太郎先生のお部屋へは、
話し声がつつぬけではないか。月曜日の午後、
多田先生は研究室で仕事ができなかったのではないだろうか。

たまにお見かけする多田先生は、
たいへん繊細な神経の持ち主のようで、
あのような騒音に耐えられるかたでは
ないように思われた。・・・」(p108~109)

はい。こんな印象的な場面は、わたしなど、
いつか、あとで思い出してしまうのですが、
さて、そんなときには、もうどこに書いてあったのか。
どの本にあったのか。すっかり忘れているだろうなあ(笑)。
ですから、きちんと引用しておきます。

さてっと、それはそうと、藤本ますみさんが
京都大学人文科学研究所の梅棹忠夫研究室の秘書を務めたのは
1966年~1974年7月まで。
鶴見俊輔さんは、それより前の、終戦後に来ておりました。

次の引用は、鶴見俊輔・多田道太郎の対談
「カードシステム事始 廃墟の共同研究」から。

鶴見俊輔さんは

「人文科学研究所は太平洋戦争中にできました。
そして敗戦後の1948年(昭和23年)に西洋部ができた。
私が来たのはその翌年です。26歳でした。」

多田道太郎さんは、1924年(大正13年)12月京都市下京区生れ。

鶴見】そのとき、多田さんは私より2つ下の24歳。
年が近かったから、共同研究を進めるのが楽だったわけ。

多田】研究会は、週一回やっていましたね。

鶴見】毎週金曜日ごとに、各自が発表しました。
討論が白熱して、夜までかかることもしばしばありました。
恐ろしいのはね、夏も研究会をやったんだ。
京都に熱波がくるとね、あまりにも暑くて、
皆がしばらくジーッと黙ってしまうんだ。
(笑)だからこそ、一年でできちゃったんだ。
・・・・
その討論の結果をもとに、各自が論文を書いた。
最終的には、1951年(昭和26年)に『ルソー研究』
という本にまとまりました。


以上は、「季刊 本とコンピュータ」1999年冬号。
のちに、「鶴見俊輔対談集未来におきたいものは」(晶文社)。

もうすこし引用。

鶴見】・・・皆の論文が集ってきたときに、
桑原さんが『いまとても豊かな感じがする』
と言ったのを覚えているね。
そういうものが共同研究の気分なんですよ。
カードを共有するという発想もそこから生れたんです。

多田】どんどん新しい発見がありましたね。
すごい興奮だった。
・・・・・
鶴見さんはすごく寛大だった。
『一緒にやろう』と言ったら、
ほんまに一緒にやるんだからね。
そんな経験をぼくは東大でも京大でもしたことがない。
『そうか、本気で共同研究をやるんやな』という感じで。
人文科学の共同研究では、ふつうトップ・オーサーの
名前しかでない。ぼくらの場合は、トップ・オーサーも
何もなしで三人連名。


はい。ここまで引用したんだから、
もっと引用をつづけておかなきゃ(笑)。

鶴見】・・梅棹さんはルソー研究のあとにやった、
百科全書研究のときに参加したんです。
このときは彼がアンカーになって書いた。
彼は自分の文章に対する自信があるから、
他の人と一緒にやるのいやなんだよ。(笑)
たくさんの人がやったディスカッションを、
自分で流れをつくって書き直したんだ。
非常に立派な出来栄えですよ。
 ・・・・・
それとね。私たちの共同研究には、
コーヒー一杯で何時間も雑談できるような
自由な感覚がありました。
桑原さんも若い人たちと一緒にいて、
一日中でも話している。アイデアが飛び交っていて、
その場でアイデアが伸びてくるんだよ。
ああいう気分をつくれる人がおもしろいんだな。

梅棹さんもね、『思想の科学』に書いてくれた
原稿をもらうときに、京大前の
進々堂というコーヒー屋で雑談するんです。
原稿料なんでわずかなものです。
私は『おもしろい、おもしろい』って聞いてるから、
それだけが彼の報酬なんだよ。
何時間も機嫌よく話してるんだ。(笑)
雑談の中でアイデアが飛び交い、
互いにやり取りすることで、
そのアイデアが伸びていったんです。
・・・・


さてっと、雑誌『思想の科学』(1954年5月号)に
梅棹忠夫著「アマチュア思想家宣言」が掲載されます。
梅棹忠夫著作集の第12巻で、その文を読めるのでした。
全集本で10頁の文章です。

せっかくなので、ここには、
「アマチュア思想家宣言」の本文の最後を引用。

「アマチュア・カメラマンが氾濫しているように、
アマチュア思想家が氾濫してもよいのである。
この『思想の科学』という雑誌も、やはりいわゆる
思想雑誌の一種でしょうが、その紙面を、第一号から、
とにかくわたしのようなアマチュアに開放された
ということは、まことに編集者の英断であった。
プロの立場からすれば、ばかな議論でページが
うめられたとしても、思想が生きて役にたつには、
これは有効な措置となるにちがいない。
一度でこりたといわずに、毎号アマチュアに勝手に
しゃべらせてもらいたいものだ。そのかわり、
プロのほうのご意見も拝聴します。
わかるかどうかは知らないけれど。
ただ、すこし心配がある。原稿料をもらったら
アマチュア資格をうしなう、などというルールをつくろう
とプロ側から提案されはしまいか、ということです。」


あと一箇所(笑)。
引用をします。加藤秀俊著「わが師わが友」から、

「鶴見さんは、ほとんどわたしと入れかわりに
東京工大に移られたから、いっしょにいた期間は
きわめて短かったが、そのあいだに、わたしに、
ぜひいちど梅棹忠夫という人に会いなさい、
と熱心にすすめられた。・・・・・
それと前後して、わたしは雑誌『思想の科学』に
梅棹さんの書かれた『アマチュア思想家宣言』と
いうエッセイを読んで、頭をガクンとなぐられたような気がした。
・・・・」

ちなみに、「わが師わが友」は、加藤秀俊氏のホームページで
無料公開されています。ですから、梅棹忠夫と加藤秀俊氏の
以降の出会いは、簡単に読めるので、引用はここまで。







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原稿がなかなかすすまなくて困っているとき。

2019-07-30 | 本棚並べ
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)。
最後の第三章の題は「知的生産の奥義(おうぎ)」。


研究所の秘書の視点で、遅筆の梅棹忠夫を見ています。

「『遅筆の梅棹さん』の評判は、わたしなどがくる前から、
知る人ぞ知る、有名な事実だったのである。

先生が原稿を執筆されるのは、自宅の書斎である。
だから、わたしは、執筆中の先生の姿を見たことはない。

ただ、たいへん苦しい思いをなさるらしいことは、
しめきりのぎりぎりのところにくると、よく
脈が結滞して医者にかかられることからも、察せられた。

本人も『知的生産の技術』のなかで、
自分は文章をかくのは不得意で、たいへん苦しい思いをする、
おおげさにいえば七転八倒すると、告白しておられる。
ところが、本人はそういっているのに、読者はそうは思わない。」
(p238~239)

このあとに、加藤秀俊氏の話題・・・。
加藤氏が『アマチュア思想家宣言』を読んで

「頭をガクンとなぐられたような気がした。・・・
この人(梅棹)の文章は、まず誰にでもわかるような
平易なことばで書かれている。第二にその文章は
きわめて新鮮な思考を展開させている。そして、
その説得力たるやおそるべきものがある。
ひとことでいえば、スキがないのである。・・」
これは加藤秀俊著「わが師わが友」から引用して
載せておりました。

「きくところによれば、加藤(秀俊)先生は、なんであれ、
原稿のしめきりにおくれたことのないかたで、
その点からいえば、梅棹先生とは対照的な存在である。」
(p239)

「原稿がなかなかすすまなくて困っているとき、
先生は苦笑しながら、こんなことをもらされた。
『ぼくの文章は、やさしい言葉でかいてあるから、
すらすら読めるし、わかりやすい。だから、かくときも
さらさらっとかけると思っている人がいるらしい』」


そういえば、この本の第一章のおわりに
富士正晴がふらりと研究所に訪ねて来る場面がありました。
それが誰なのか、秘書の藤本さんには、わかりません。
最後に、その場面を引用。

「とっくりのセーターを着たその人は、
半分白髪の頭の毛をお椀かぶりのようにのばして、
一見、お年をめしたご婦人のようにも見えたのだが、
その声をきくとやっぱり男性であった。ときどきききとりにくい
言葉がまじるが、なかなかユーモラスな話しぶりである。
(p96~


『・・ひさしぶりに京都へくる用事があったから、
ちょっと寄ってみたんやけど。いま桑原さんとこの部屋、
行ってきたけど、鍵がかかってて、だれもいてはらへんかった。
そいでこっちへ歩いてきたら、梅棹さんとこの看板が目について
・・・』

『梅棹さん、このごろ、どうしてはるの。
相変わらず低血圧やっちゅうて、朝出てくるの、遅いんやろ。
あの人、低血圧だしにして、お酒飲んではるんでっせ。そいで、
原稿でけへん、でけへんちゅうて、締め切りおくらして、
編集者困らしてはるんやで、ほんまに悪い人や』
・・・・・
おしゃべりの内容はどれも桑原武夫先生の失敗談や、
小松左京さん、司馬遼太郎さんの身近でおこったエピソードで、
・・独特のちょっぴり毒をふくんだいいまわしで語られる。

『司馬遼太郎はなんであないにつぎつぎ、
ようけかきよんねやろ。やらしいで、ほんまに。・・・
あいつ(司馬)の旅行は取材旅行だけで、買うもんは資料ばっかし。
健康で馬車うまみたいに仕事しよんねん。
締切にもおくれんとな。そやし、どんどん
生産あがってもうかってしまうんやで・・・
そやけどな、あれはかきすぎや、ほんまに。
・・・・かっこ悪いで』

『どうも、ごちそうさん。梅棹君きたら、
よろしゅういうといてや。ほな、さいなら』

・・・午後になって先生(梅棹)に今朝の訪問者の
報告をする・・・
『ああ、その人なら富士正晴さんや。
おもしろい、おもしろいおじさんやったやろ。
そうか、せっかく寄ってくれはったのに、
それは残念なことしたなあ』・・・
富士正晴さんが研究室に見えたのは、
そのときと、あと一回きりであった。」
(p96~102)






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京都ではそうはいきません。

2019-07-29 | 本棚並べ
「近衛ロンド」という名称がありました。

「近衛ロンドの『近衛』は、
会場にしていた京都大学楽友会館の前の通りが『近衛通り』で、
市電の停留所も『近衛通り』。それにちなんでつけられた。
『ロンド』はエスペラント語で、サークルとかグループをさす
言葉である。・・・じつは『京都大学人類学研究所』というのが
この会の正式名称・・」
(p111・藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」講談社)

この前のページに、

「ロンドは若い人たちを中心にした人類学の勉強会である。
・・・ロンドの誕生には、梅棹家の金曜会の集まりが一役かっていた。
先生(梅棹)は人文にこられる五、六年前から自宅の応接間を解放し
・・・集まってくるのは、探検家や山岳部に関係のある人、
人類学に関心のある人が多いらしかった。そのころはまだ
先生(梅棹)は大阪市大におつとめだったが、市大の学生さん
というより、京大の人が断然多く、ほかに立命館や同志社の人も
まじっていた。・・・どこにも属していない変わり種もいたが、
どの人もそれなりに人類学に関心をもっていた。

そういう人がかなりいるのに、京都大学をはじめ、
関西の大学には人類学科がなく、人類学を志す人は
東京や名古屋の大学に行かなければならない。
そんな状態だったので、関西にいて人類学に興味をもつ
若人たちが、類は友を呼ぶで梅棹サロンに集ったのだろう。
金曜会の席で、人類学の勉強会をつくろうという話が出て、
梅棹先生が京大へこられるのをきっかけに会を発足させようと、
話がまとまったらしい。それが近衛ロンドで、
有志がつどいあってできた、いわば自主講座なのである。
会の運営は、会員たちの会費でまかなわれている。」
(p110~111)

さてっと、梅棹忠夫著「研究経営論」(岩波書店)を
ひらく。そこに「近衛ロンドの五年間」と題した箇所がある。
そこから引用。

「じつは、そのすこしまえから、東京で、やはりこれと
おなじような青年人類学者のサークルがあったようにきいている。
京都のは、いわばその関西版であったのかもしれない。
じっさい民族学協会のおえらがたから、
東京の青年人類学会(?)にならって、
京都にもグループをつくってはどうか、
というサジェスチョンがあったようだ。
補助金をだしてもよい、という話もきいた。
けっこうな話なのだが、このへんの事情が、
逆に伝統的な関西モンロー主義と微妙に抵触して、
後年の、この会および民族学協会関西支部の、
エネルギー低下の原因となった。といえないこともない。
 
関西、とくに京都というところは、
他所からの指図でうごく代理人的なもの
が発生することを極度にきらうのである。
今日においては、
民族学協会関西支部はそのあとかたもない。
民族学会の研究集会はおこなわれているが、
それは、東京集会と対等の京都集会なのであって、
支部活動ではない。・・・」(p21~22)

うん。「東京と京都」といえば、
もどって、「知的生産者たちの現場」のあとがきに、
出版社側からみた「東京と京都」への視点が触れられております。

「・・本文にはかきませんでしたが、
出版社のかたたちからおききしたことで、
印象に残っているのは、東京と京都のちがいということでした。
あるいは、東大の先生がたと、京大、
とくに人文の先生がたとのちがいというべきかもしれません。

たとえば、出版社がある本の企画をたてるとします。
執筆者が東大系の先生がたの場合は、
編集者の仕事は、わりに簡単だというのです。
つまり、どなたか大先生おひとりにおねがいして、
親分の『おゆるし』をいただきますと、
あとはお弟子さんがたのひとりひとりを
たずねまわらなくも、執筆をひきうけてもらえるのだそうです。

ところが、京都ではそうはいきません。
教授の先生がおひきうけになっても、
それはその先生ひとりがOKしたということで、
若い先生がたにも、執筆者ひとりひとりの
承諾がなくてはかいてもらえないというのです。
京都は、いわゆる親分・子分的な人間関係で
うごいている社会ではないからでしょう。」
(p287~288)


はい。東京と京都の、現場の話を、
さりげなく聞けるありがたさ(笑)。


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それより大事なことは。

2019-07-28 | 本棚並べ
昨日古本が届く。
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社・1984年)。

最後の著者略歴に
「1966年1月より1974年7月まで京都大学人文学研究所の
梅棹忠夫研究室の秘書を務める。」とあります。

うん。いま第二章「知的生産者たち」を興味深く
読んでいるのですが、ここでは忘れないうちに、
第一章からすこし引用。
それは、ひらかなタイプを習っている場面でした。

「『わかちがきは おもっていたほど むずかしくなかった。』
  と、うってしまう。正しくは、
『わかちがき は おもっていた ほど むずかしく なかった。』
  と、うたなければならない。 」(p86)

「分かちがきのルールに少し慣れてきたころ、
いっぺん、手紙でないものをうってみたくなった。
ちょうど手もとに川喜田二郎先生の『発想法』という本が
あったので、その出だしのところをうってみた。・・・・
題名の『はっそうほう』にしてからが、
『発送法』なのか『発走法』なのか『発想法』なのか、
わからない。漢字は同音意義の言葉が多いから、
そのままひらかなにしてしまうと、
意味がわかりにくくなるのだ。

この経験から、ひらかなタイプでかく文章は
漢字・かなまじり文をそのまま、ばらばらに
しただけではだめだということがよくわかった。

先生の手紙の文章は、
そこのところを考えて作文してあるから、
ひらかな・分かちがき文にしても、意味がすっとわかる。
先生の文章の場合は、たとえば『知的生産の技術』の文章でも、
ひらかなタイプでうってもわかりやすい。

どこがちがうのか。それは、『知的生産の技術』の文章は
耳できいてわかる言葉でかかれているからだろう。
つまり、ひらかな言葉が多いせいだと思う。

同音異義の漢字の熟語をなるべく避けてかいてある。
先生はもう長いこと・・・かいてこられたせいで、
漢字・かなまじり文になっても、言葉選びのとき、
きいてわかる言葉という配慮がなされているのであろう。」
(p86~87)


この本の著者藤本ますみさんは、
福井県勝山保健所で栄養士として勤務していたところを
ゆえあって、梅棹忠夫研究室の秘書を務めることになります。
その経緯が、第一章に書かれているのでした。

秘書ってどうすればいいのですか?
という藤本さんの質問に、梅棹忠夫はどう
答えていたかも、ちゃんと書かれておりました。
最後に、その梅棹氏の言葉も引用しておきます。

『それはね、たとえばここにあるひらかなタイプで
手紙をうってもらうとか、ファイリング・システムで
書類を整理してもらうとか、こまごましたことがいくらでもある。
しかし、そういう技術的なことは、あまり気にしなくてよろしい。
技術はけいこすれば、じきにできるようになります。
それより大事なことは、秘書には自分で
仕事をみつけてやってもらいたいということやな。
ぼくは秘書にいちいち、これこれのこと、
いつまでにやっておいてくれと、命令したりはしないから、
秘書になってくれる人にのぞみたいことは、
知的好奇心があって、腰かけでなく、責任をもって
はたらいてもらいたいということ。
まあ、そんなとこかな』(p55)


う~ん。ここを読んでいると、
『知的生産の技術』という場合の『技術』への
アプローチの仕方が伝授されているような気がします。
つい、後まわしにして忘れる『それより大事なこと』。

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「学問の名産地」京都。

2019-07-27 | 本棚並べ
古本で注文した
「創造的市民講座」(小学館・1987年)。
これ、京都でおこなわれた市民講座での
十人の講師の講話と、質疑との記録です。

うん。最初は桑原武夫が講師。
質疑応答の仲介者が鶴見俊輔。

まえがきに
「名論卓説の聞きっぱなしということが、
従来の文化講演の欠点であったように思われる。
受けとったものを鵜のみにするのではなく、
主体的に摂取するという立場から、
話すものと聞くものとの間の交流がなくてはならない。
そこで質疑応答のための時間をもうけた。
しかし、従来の経験から、学問に関することだけに、
質問と応答がしくりと噛み合わないことがよくある
ことを私たちは知っていた。そこで、
『聞き手』という新しい形式を考案し、講演者と聴衆
との間をしなやかに調節して結びあわせてもらうこととし、
そのむつかしい役を鶴見俊輔氏にお願いしたのだが、
この博識と思想分析の名手はこれを見事にこなして、
私たちの期待にこたえて下さった。」

はい。このまえがきは桑原武夫氏でした。
まえがきのはじまりは、開講の内容紹介のご自身の活字を
最初の1ページをつかって引用しております。
それがふるっている。はじまりを引用。

「京都には優れた新しい学問がよくそだつ、と言われる。
それは間違っていないようだ。『優れた』というのは、
ひとり合点ではなく客観的、国際的に評価されている
という意味であり、『新しい』というのは、
古い権威にそのまま乗っかったものではなく、
自分で苦労して創出したという意味である。
公平に見て、京都は学問の名産地だといえるのである。
・・・」


こうして、はじまった市民講座は
「毎回四百人ないし五百人の聴講者があった」そうです。

その、第一講が桑原武夫。

はい。全部引用したいのですが、
思いっきり端折ります。
この箇所を引用。

「私は・・開催のことばの中で
『京都は学問の名産地』だと書いておりますが、
その意味は、京都の学問をつくった学者がみな
京都という土地から生れたということではありません。
・・・・・なぜ京都がそういう人を育てたのか、
・・植木にたとえれば京都の土壌のよさです。・・
これについてはまだ明確な説明はできておりませんが、
京都の伝統のこまやかさというか、京都で生きている
京都の人間のもっている理性と感情のこまやかさ、
そしてそこにある京都風の合理性というふうなもの、
別のことばでいえば
京都の人間のもっている冷たさというもの、
それと関係があるだろうと思います。
このことは前からいっているのですが、あまり賛成を得られない。
私がこの話をすると市長さんはいやな顔をするし、
市民諸君もめったに拍手をしてくれないのです(笑)。
・・・・」(p13)

これは面白いテーマです(笑)。
講師の話が終わりまして、つぎに鶴見俊輔氏が
質問を紹介しながら、ご自身が語っているなかに
こんな箇所がある。

「・・・東京からやってきた人間は統計的にいいますと、
十人のうち九人は逃げてしまうんです。
どうして逃げるかというと、
その当人が京都好きでも細君がいやだという。
細君が東京のものだと京都弁が困る。
京都の人の気持がわからない。
ちっとも打ち解けてくれないというわけです。
私は京都弁が全然できないんです。・・・
昭和24年から36年間、だいたい京都とつながりがあって、
住んでいるのですが、全然、京都弁ができない。
しかし率直にいえば、
私は京都でいやな目に遭ったことはないんです。
私の細君が逃げなかったこともあったんですけれども、
それと京都にはよく見ると作法がありますね。
その規則をいっぺん覚えると、
そんなに困ることはありません。
・・・」(p25)

はい。「学問の名産地」の話になると、ぐう~っと
長くなるので、ここでは斜めから引用しました(笑)。
でも、これでおわりにしはさびしいので、
「一流の学者」を桑原さんが、
定義している箇所もさいごに引用。

「この創造的市民大学に司馬遼太郎さんに参加を
していただいたのですが、彼は小説家ではないか
などというバカなことをいってはいけません。

たとえば明治維新の時代の人物・事件、
その起こった場所・時刻。これを司馬さんほど
正確にたくさん知っている人はありません。
いまの大学の日本史の教授・助教授では匹敵できない。
しかも彼は知識だけではなく、それを理論化する。
私は司馬さんを一流の学者だと認めております。

司馬さんには
『人間の集団について』という小さい本があります。
これはベトナム戦争について書かれた
もっともすぐれたエッセイだと思います。
政治学の論文であのようにベトナムを見通したものはない。
学者というのは大学の職階制上の言葉ではありません。
学部とか研究所に所属していなくても、
学問している人が『学者』なのです。・・・」(p18)

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言葉だけを信用してはいけません。

2019-07-26 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)の最後に、
もし文庫解説のような解説がつくとしたら?


うん。私は迷わず、桑原武夫の文をいれるだろうなあ。
そう、思える桑原武夫の文を読みました(笑)。

「新・わたしの知的生産の技術」(講談社・1982年)。
いろいろな方の語りが掲載されておりまして、
その最初に桑原武夫氏の文がありました。
うん。これだけを読めば、『知的生産』が何なのか
わかります(笑)。

はい。適宜引用。

「知的生産の材料とは何でしょうか。
それはいうまでもなく情報です。
情報を全然もたないで知的生産はできない。」(p11)

「マスコミだけで情報が確実で十分かというとそうではない。
・・・・露骨な例でいえば、
田中角栄の金脈問題をどの新聞が書きましたか。
『文藝春秋』が書くまで、どの大新聞社も書こうとしなかった。
もちろん知っていたと思います。しかし、まず、
小資本のところにやらせておいて、見極めがついてから、
それに乗ろうという算段でしょう。
政府と密接な関係を持っているNHK、
資本の支配下にある民放もこういう情報は遠慮する。
新聞にもテレビにも載らないことがいっぱいある。」

「知的生産をしようとする場合、
特別の情報を持とうと努力しなければ
独創的な考えは出てきません。
他人さまに聞いた話をくり返しているだけでは
知的生産にはなりません。・・・・
少なくとも情報の交錯が必要です。・・・
知的生産ということは何らかのもつれあい、
あるいは矛盾からでなければ出てこないと思います。」


「言葉にだまされてはいけません。
いつでも言葉より現実を尊重するように
しなければ知的生産にはなりません。

例えば、ネール首相の生きていたころ、
日本の新聞はインドを『平和国家』といっていました
・・ネールさんがインドは平和国家だと宣伝するのは
自由ですが、それに外国人が乗ってしまうなら阿呆ですね。
阿呆は知的生産に適しません。

私は一カ月ほど、インドを歩いて・・・・
アジアで航空母艦を持っていたのはインドだけです。
そしてこれを活字にしたのは日本人では私が初めてです。

ネール首相が世界に向かって他国への軍隊の駐留を
やめよと演説して大喝采を博したのですが、この時
インドはネパールとブータンに軍隊を駐屯させていたはずです。
言葉だけを信用してはいけません。」

「すぐには解けない。しかし、嘆かわしいといっているだけで
解答を志さないようでは知的生産にならない。」

「人間の偉さというのは、
現実を正確に認識したうえで、
これを超えていつまで理想を保持しうるか
ということにかかっていると思います。

フランスというと自由、平等の祖国といわれますが、
・・・いまいちばんどぎついナショナリズムで
世界の市場を席捲しようと頑張っているのがフランスです。
海外輸出はすでに西ドイツを抜きました。
その輸出品の最大のものが兵器です。
自由、平等、友愛の祖国、
小意気でお洒落なパリ娘、
これがフランスだと思っていたら間違いです。」


うん。こうして引用をしていると、
30~40年ほど前の文章をテキストにしてるのに、
今現在の、オレオレ詐欺に引っかからないための、
高度な講習をうけているような、そんな気分(笑)。

そうそう、
「桑原武夫紀行文集」全3巻(河出書房)が
古本で1200円(送料別)で出ておりました。
うん。わたしの夏の読書はこれにします(笑)。

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山はまだですか。

2019-07-25 | 本棚並べ
桑原武夫著「雲の中を歩んではならない」(文藝春秋新社)が
古本で届く。
ちなみに、
「雲の中を歩んではならない」は、1955年発売。
梅棹忠夫著「知的生産の技術」は、1969年発売。


では、「雲の中を歩んではならない」から
「学問を支えるもの」と「書物ぎらいの読書人」と。

まずは「書物ぎらいの読書人」から引用。

「私の父は世事にわき目をふらぬ学究であり、
くら一ぱいにためこんだその蔵書の量は京大一といわれた。
私はそうした書巻の気のうちにそだち、幼時からめちゃめちゃに
乱読したが、同時に、書物に対する食傷感をつとに
体内にうえつけられていた。・・・」


「三高へ入って山岳部に加わって・・・
折から日本は近代登山の勃興期で、私たちも英独仏の
山岳書を勉強したが、仲間のうちには休暇になると
惜しげもなく本を売りはらって、登山の費用に代える
ものがあった。本が古本屋のたなに眠っているとき、
その内容はあざやかなスキー回転のスプールの中に
現存するのを見て、究極において読書なるものの本質は
ここにあると思った。またあるとき登山の研究会で、
他人の発言中、ふと心にわいた疑問を私が紙片に書いて
N君にまわすと、彼はしばし用紙をさがす模様だったが、
机上の本の空欄をさっと破り、そこに図表を書いてよこした。
彼が無理して数日前丸善から買ったばかりの、上質の紙の
中央に本文をきれいに刷ったイギリスの登山記なのだ。
それはこの独創的登山家にとって全く自然な仕草さで、
そこに何の思い入れもあったわけでない。・・・・

私は登山家、探検家、自然科学者に友人を多くもちえた
ことを無上の幸福と思っている。おかげで書物の虫ないし
博学者にならずにすんだ。もちろん人文科学とくに文学の
勉強は、雑多な、全く無意義と思われるような知識の
蓄積の上にしか成立しない。その原則は承認しつつも、
私はその知識を道具として常に活用できるものとしたいと
考えた。・・・道具となりえぬような知識は
忘れた方が精神の健康によいのである。

アランは・・・政治家ジャン・ジョレスを評して、
彼はあらゆるものを読み、あらゆることを知り、
あらゆるものを忘れ、鍛錬された精神のみを残した、
とほめた。読書の究極はここにあるのであろう。
もっとも未練な私は忘れる前に書いておきたい。
・・・・・」(p198~200)

ちなみに、この文は「桑原武夫集」全10巻には
カットされて、掲載されてはいませんでした。

ここにある
「道具となりえぬような知識は忘れた方が精神の健康によい」
というのは、私にはなにやら14年後に刊行される
梅棹忠夫の「知的生産の技術」を想起するのでした(笑)。

つぎは、「学問を支えるもの」から引用。

「現実のインフレをいかにして処理するかに答えられる
経済学者は少なくて、西洋経済学説史学者のみ多いというのでは、
学界の健全なあり方ではないでろう。・・・
学者であると同時に一流の実務家でもある。
自らそうした実務家になる、あるいはそれを養成する
という気魄が日本の社会科学者に乏しいような感じがする。
・・・学問たるかぎり国際的価値を生み出さねばならぬが、
『もの』なくして真の生産はありえないのだ。・・・」
(p67)

はい。実務家を養成する「知的生産の技術」。

こうして、桑原武夫と梅棹忠夫の本をならべると、
わたしに、思い浮かぶ詩があるのでした。


      遠足   竹中郁

  先生 杉山先生
  山はまだですか
  ぼく こんなにたくさん摘みました
  先生 あれ 鶯でしょう

  そのとき杉山先生は
  洋服の上衣を手にもって
  道草しないでさっさと行きなさい
  山はもうすぐそこです 疲れたんですかと
  ステッキの先でさされました

  先生 ぼくはまだこんなに元気です
  ちっとも疲れていやしません
   (今もなお踏みだす一歩)
   (世の中へ踏みだす一歩)
  ぼくは先生とならんで歩きました
  小走りに駆けながら
  元気よく歩いたのです

  先生は日をあびて眼鏡の中で笑われました
  ぼくもあたたかい日をあびています
  この生命に この生活に・・・・

  小学生の遠足の山は近づいても
  先生 
  これからは長い長い遠足です

  だが ぼくはちっとも疲れていやしません
  世の中へ 山のあっちのまだあっちの・・・
  そのステッキを高くあげて
  先生 杉山先生
  空の遠くを指してください
  ぼくはそこまで歩くでしょう


竹中郁少年詩集「子ども闘牛士」(理論社)p54~56

この詩のなかに
「空の遠くを指してください
 ぼくはそこまで歩くでしょう」
とあるのでした。

さて、梅棹忠夫は、どこまで歩いたのか?
梅棹忠夫著作集全22巻別巻1という足跡。




  
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幸せだと思おう。そう思う義務がある。

2019-07-24 | 本棚並べ
7月24日産経新聞。はい。今日の新聞です。
そのオピニオン欄「正論」は、古田博司さんの文。
その最後を引用。

「・・・・西洋人の文系の理論には、
『現実妥当性・有用性・先見性』のないものがたくさんある。
それらを絶対的価値として信奉しつづけ、日本はバカだ・
ダメだ・辺境だと言いつづけた人々の落日が迫っている。

国立大学をはじめとする、日本の大学文系の縮小である。
冷戦時代にソ連側について敗け、その後20年間、
マルクスの文系理論を教えて多くの若者に迷惑をかけた。
 ・・・・・・
冷戦の敗戦兵は野盗化するが、
日本の悪口ばかり言うので誰かはすぐ知れる。」


この落日にいちはやく気づいた方はいたのか?

桑原武夫著「文章作法」に、
梅棹忠夫著「文明の生態史観」の出だしを引用した
箇所があるのでした。そのはじまりを引用した後に、
桑原武夫は、こう書いておりました。

「文明批評家としての私からいえば、
この『文明の生態史観』という論文は
日本におけるマルクス主義の凋落の明確なる前兆であった。
 ・・・・・・
この論文がでたとき、私がすぐマルクス主義史学の
没落を覚ったわけではありません。二か月たっても、
三か月たってもマルクス派から一人として、
この挑戦に応答したものがなかったので、
これはダメだなと思ったわけです。」

ちなみに、
1957(昭和32)年に梅棹忠夫は『文明の生態史観序説』を
「中央公論」の2月号に発表しておりました。

はい。それは、ここまでにして、
ある質問に、桑原武夫さんが答えている箇所が
印象に残ります。
そこを引用。

質問者】京都学派の人間らしくてユニークな理由は何ですか。

桑原】 公式主義にとらわれずに、
一種の自由があったということはいえましょう。
フランスのアランの言葉に、
人間は幸福である義務をもつというのがあって、
私はこれにひどく感銘しました。
社会の不正とは戦わなければいけませんが、
文句をいうのはやめよう、
自分のことを愁嘆するのはやめよう、
自分が生きてきたことを幸せだと思おう、
そう思う義務がある、ということです。
私はそう思ってきたのです。

そして私たちのグループ
(貝塚茂樹、今西錦司、西堀栄三郎君など)は、
学問あるいは思想といったことだけでなく、
一緒に山も登り、酒ものみ、本当のことを
自由に話し合ってきた、その親愛感が
作用している点もあるのでしょうね。

(「新・わたしの知的生産の技術」講談社・昭和57年・p24)
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梅棹忠夫。町衆の系譜。

2019-07-23 | 本棚並べ
本棚から、梅棹忠夫著「研究経営論」(岩波書店)を取り出す。
線がひいてあり、たしかに私が読んだのだけど、
すっかり忘れている(笑)。

めずらしく、最後に蔵書印が押してある。
そうそう、以前に蔵書印をいただいて、
ちょっとの間、それを押していたことがあった。
「1990年4月29日読了」と、その印のページに、
鉛筆書きがしてあるのに、すっかり忘れている。
きっと、読んだあと、そのままに、次の本へと
そそくさ、未消化の読書だったに違いない(笑)。


ちなみに、この「研究経営論」は
梅棹忠夫著作集では、第22巻にありました。
第22巻の巻末コメント1は、小山修三氏。
小山修三といえば、「梅棹忠夫語る」での聞き手。

それでもって、「梅棹忠夫語る」をひらく。

小山】 ぼくもアメリカとかイギリスへ行って、
アーカイブズの扱いの巧みさというものを見てきました。
パンフレットとか片々たるノートだとか、
そういうものもきちっと集めていくんですよね。

梅棹】 アメリカの図書館は
ペロッとした一枚の紙切れが残っている。

小山】 その一枚の紙が、ある機関を創設しようと
かっていう重要な情報だったりするんですな。
それがきちっと揃っている。

梅棹】 だいたい図書館は内容とはちがう。
わたしが情報ということを言い出したのは、
それがある。情報とは中身の話や。
(p80)


著作集第22巻の小山修三氏の巻末コメントにも
それに関したことが書かれておりました。
それは、民博の図書館についての箇所でした。

「たとえば、抜き刷り、パンフレット、ちらし、
ポスター、フィールドノートなどのいわゆる
非図書資料の処理がまったくできていないではないか。
梅棹はシステムがほぼ完成した時点(1984年)で
それに気づき、まだ修正が可能である、
ぜひ改良したいといいだした。
軌道修正は大変だったが使いやすいシステムができた。」
(p568)

小山修三氏の巻末コメントは、わかりやすい。
この機会にコメントからの断片を並べて引用。


「本巻のキーワードを二つあげるとすれば情報と経営である。
情報とは知的生産の産物であり、商品であるという考えは
梅棹がはやくから提唱していた。商品には、それをつくる
ための企画、設備、組織、資金、点検、販売が必要である。
研究者もやはり情報の生産者なのだから、その活動内容は
会社経営と通じる要素がおおいはずだ。」(p562)


「『国立民族学博物館における研究のありかたについて』は、
1976年に館員に対する講話として起草されたものである。
民博創設の精神と機構を説明するとともに、
新しい職場での任務をはたすための決意をせまるものであった。
そのため調子が高く、厳しい言葉がならんでいる。」(p563)


「梅棹には談話、対談、鼎談など原稿用紙に向かって書いたもの
ではない作品がすくなくない。なかでも共同討議は、自由な
討論のエッセンスを筆のたつ記者がまとめるという
斬新な手法であった。この『著作集』には納められなかったが、
梅棹の知的活動の記録として見過ごせないものだ。・・・・
筆記者や編者との呼吸などは磨きぬかれた技術そのものなのである。
梅棹のまわりにはその訓練を通過したスタッフがおおぜいいる。」
(p570)


小山修三氏のコメントの最後も、
この際なので引用しておきます。


「梅棹は学問遍歴以外の個人史を語らない。
だから私的な生活についてはほとんどうかがい知ることが
できないのである。しかし、人間の精神形成にとって、
幼・少年期の家族や友人との社会生活のありかたは
青年期以後の外からの刺激を受け取るための
プレコンディションとして重要だと思う。

わたしは・・梅棹が西陣の出であることが大きな要因と
なっていると思う。・・・マスコミへのデビュー作が
日本人の笑いの意味についてであったことをおもいだす。
愛嬌を擁護する学者などあまりきいたことがない。
この町衆の系譜をひく市民感覚がつちかわれたのは
幼少期以外にないと思う。

梅棹が日本を代表する思想家の一人として
大きな位置を占めることになった現在、
個人史を欠落したままおくわけにはいかないだろう。
いつか誰かが手をつけるはずだ。・・・・」
(p572)



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恩を感じねばならない。

2019-07-22 | 本棚並べ
梅棹忠夫が語っているなかに、
「思いつきこそ独創や。・・」というのがあります。
うん。私にも思いつきがないものか?

『思いつき』とは、とても、いえないだろうけれど。
「そういえば、あんな箇所があったなあ」と以前に
読んだ本の箇所が、フラッと浮かんでくることは、
よくあります。

たいていの場合。たわいないもので。
それが、どの本のどこにあったのか、
探せないわけです。そうしてその日
のうちに、もうすっかり忘れている。
そういうことって、よくあります(笑)。

今回、あれはと、読み返した本は、
梅棹忠夫・司馬遼太郎編「桑原武夫傅習録」。
「明晰すぎるほどの大きな思想家」と題する
司馬遼太郎さんの文。
この箇所が、思い浮かびました。


「・・・私は戦後、復員してほどなく
京都大学を受けもつ新聞記者になった。」

このあとに、こうつづきます。

「戦後という、
ある意味では明治維新以上の変革もしくは
昭和維新が果たせなかったものをもたらした秩序は、
いまでは存外に凋んだり、老化してしまったりしているが、
そのころ二十五、六の年齢だった私にはこの時代が、
あたらしい価値をうむ無限の可能性をもった
稀有な時期のように思えて、その時代にナマで生きつつ
同時代のきらびやかな歴史性を感じるという幸福をおぼえた。
  ・・・・・
そのための重大な触媒の役目をしてくれた
何点かのエッセイおよび文学作品に恩を感じねばならない。
そのなかに氏(桑原武夫)の『第二芸術論』がある。
これを最初に読んだとき、自分が居るのはたしかに戦後だという、
時間的な情感としてではなく地理的知覚として
地を叩くようにして示された記憶が、感動とともに残っている。
 ・・・・・・・・・  」(p148~149)


はい。この箇所が思い浮かびました。
次は、桑原武夫集の第10巻をひらく。
その本の後ろに、著作目録があります。
著作目録には、各単行本が、桑原武夫集全10巻の、
何巻目に、その文章を収められているかの印があり、
それをチェックしてみると、ところどころに、
桑原武夫集へと、再録されなかった文もある。

うん。その頃の単行本には載ったけれど、
後年の全10巻として出た『桑原武夫集』には
はぶかれた文章もあったのでした。
そうだ、桑原武夫集全10巻というのは、
全文章を載せるような「全集」とは違う。
ということを、いまになって気がつく(笑)。


ということで、司馬遼太郎さんが指摘した
「これを最初に読んだとき、自分が居るのはたしかに戦後だという、
時間的な情感としてではなく地理的知覚として
地を叩くようにして示された記憶が、感動とともに残っている。」

という、その時代の本を、古本で読み直そうと注文することに。

一冊は、「現代日本文化の反省」(1947年5月)
      この単行本の目次には「第二芸術」がある。
もう一冊、「雲の中を歩んではならない」(1955年4月)

この二冊を古本で注文。
家にいながら検索・注文できるしあわせ(笑)。これで、
「地を叩くようにして示された記憶が、感動とともに残っている」
という、その感動の断片を、うまくしたら、
たどりなおせるかもしれない。






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京の京の大仏つぁん。

2019-07-21 | 本棚並べ
松田道雄著「京の町かどから」(昭和37年発行)。
聞えていたもの、聞けなくなったものが語られておりました。

たとえば、「わらべうた」と題した文はこうはじまります。

   京の 京の
   大仏つぁんは
   天日で焼けてな
   三十三間堂が
   焼けのこった
   ありゃどんどんどん
   こりゃどんどんどん
   うしろの正面どなた

・・・愛宕山の背後の空をあかあかとこがす
大きな落日をみながら『京の京の大仏つぁん』
をうたっていると、山のむこうのほうで、きょうも
天日で火事がおこっているような気がするのだった。

京都の町で、子どもたちはもう『京の京の大仏つぁん』
をうたわない。・・・・」(p101)


「物売り」と題した文には

「京の町の四季のうつりかわりを伴奏してくれたのは
『物売り』のよび声であった。」として

「いさざか、ひうお!」 
「はったいのこ、いりまへんか!」
「花や番茶いりまへんか!」
「きんぎょーつ
このさいごのツはまさしくTSUと発音した。
なぜツをつけなければならないのかわからなかった。
おそらく、そうしたほうが、ぎょーと同じ強さで
長くひっぱれるからだろう。」

「七月になると虫売りがまわってきた。
虫売りも婦人だったが、これは大きな
呼声をだす必要がなかった。天秤で
かついだ大きな虫かごの中にはいっている
きりぎりすが、ギース、チョンとやかましく
ないてくれたからである。・・・・
ぶんぶん(こがねむし)やかぶとむしも
一緒に売っていることもあった。」

「秋になると、夜に焼栗屋がとおった。
これは男であった。『焼きー丹波ぐり!』
よくとおる、ながくひっぱった声は、静かな町に、
遠く去っていくまできこえて、秋の夜を一そう
長くするようだった。」

「はしごやくらかけいらんかいなー」

「奥さん、くらかけ買(こ)うてたもえな」

 ・・・・・
「そのほか、チリンチリンとリンをならしてくる
豆腐屋さんだとか、『一銭コンマーキ』といって、
料理屋でだしにつかった昆布で、ザコをまいた
昆布巻きを売りにくるコンマキ屋さんだとかを
記憶している。
みんな半世紀ほどまえのことである。・・・」


この「物売り」と題した文は、
こうはじまっていたのでした。

「このごろ毎晩のように、おもてを寒念仏がとおる。
うちわ太鼓をたたいて南妙法蓮華経をとなえる。
これは半世紀ほどまえからそうだ。
他の宗派の市民は、こんな威勢よく寒念仏をしない。
この宗派だけが、ファイトがある。ファイトがある
ものだから太鼓の音もたかいし、
お題目のとなえ方も熱狂的だ。

和服をきてくびまきをした中年婦人を中核とした
十二、三人の信者の集団は、現物をみれば、
それほどおそろしくないが、深夜にひびく、
ききなれない打楽器の音は、子どもには非常におそろしい。
はじめは気の迷いかと思うくらいの音が、
だんだん現実だとわかってくる。
まさか自分の家へくるのではないだろうと思っているが、
刻々と近づいてくる。おそろしい伴奏で、
理解しえない言葉を口にしながら、
怪物たちが家のまえから遠ざかっていくまで、
子どもは奥の間で息をひそめていなければならない。

京の町の街頭できけた楽音のなかで、
この寒念仏だけが、半世紀をくぐりぬけて生きのこった。
そのほかのものは、もうほとんど絶滅しかかっている。」
(p159~160)


これは昭和30年代の本。
現在はどうなのだろう。
京で聞けなくなったもの。
京で聞けるもの。

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京の法華宗。

2019-07-20 | 本棚並べ
今日は、親戚筋の新盆に呼ばれる。
日蓮宗。御経本を持参して、
「開経偈」「妙法蓮華経法方便品第二」
「妙法蓮華経如来壽量品第一六」などを
お坊さんに声にあわせての読経。

はい。あとは昼間からビールに日本酒を
飲みながらの歓談。

それが午後3時前に終り。送ってもらって
帰ってきたところです。

そういえば、京都の法華宗を書いた箇所がありました。
宮本常一著「私の日本地図14 京都」(未来社)をひらく。
この箇所を引用して酔いをさます(笑)。

「町民たちは町内の結束をたかめるための寄合をしたり、
自治に必要な費用をいろいろな名目で町民からとりたて、
それを町内の普請につかったり、飲食費にあてたりした。
祇園祭の山や鉾もこうした町内によって守られたのであるが、
さらに、そうした町がいくつか集って町組を組織した。」
(p168)

このあとに「法華退治」という言葉がでてきます。
以下も引用。

「なぜそういうものが必要であったのか、それは
火事を防ぐためであったと思われる。天文五年(1536)
の山門の法華退治のとき、そのまきぞえをくって
上京も下京も多く焼かれた。それから37年ほど後の元亀四年
(1573)に織田信長は二条城に足利義照を包囲し、
その攻撃を効果あらしめるために上京の町々を焼いている。
 ・・・・・・・・
このような町組は法華宗の流行とともに発生したと見られるが、
文献の上では、天文五年の法華一揆の乱の後に、
法華宗が京都で禁止になったあとにあらわれる。
そして上京には一条組・立売組・中筋組・小川組・川西組などが
あり、それが江戸初期になるともっとこまかに分割されてゆく。
下京には中組・牛寅組・川西組・七町半組などがあったと見られる。
 ・・・・・・
いずれにしても、町民たちが自身の力で町を守ろうとする組織は、
室町の後期には一応できあがっており、その組織を生み出して
いった思想的な背景に法華宗のあったことは見のがせない。

今日、京の町の山々に見られる送り火の大文字・妙法・舟なども
法華の信者たちによってはじめられたものであり、
しかもそれが町の旧家によってうけつがれていることによって、
今日まで生きつづけてきたのである。そして
法華の寺々も江戸初期には復活してくる。」
(~p171)


はい。いまだ、わたしは酒臭いのですが、
引用しているうちに目が覚めました(笑)。

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立ち寄った京都で。

2019-07-19 | 本棚並べ
「にど だもれ  回想牧野四子吉・文子」(1988年)。
函入。表紙布張り。

最後の年譜をひらく。
牧野四子吉は1900(明治33)年北海道函館生れ。
牧野文子は1904(明治37)年大阪市北区生れ。

本文のなかに、3頁ほどの牧野四子吉の文。
そこから

「画学校を終え・・・それからいろいろな仕事に
手を染めた・・不安定な状態にピリオドを打ったのは、
私が生物画の世界に踏み入った時だといえる。・・
立ち寄った京都で、偶然の機会から、動物の絵を
描くことへの勧めがあって、それを引き受けることになった。
・・・その二、三年前、当時日本の領土だった樺太へ
友人と二人でそれこそ気紛れの旅に出た。
この旅は、それまでの数年間を人間臭い仕事だけに
明け暮れしてきた私に、言いようのない感激を味わわせてくれた。
本土のどの地域でも見たことのない雄大な景観と、
原野を埋め尽して咲き誇る花の美しさに息を呑んだ。
自然の中に息づく植物や動物に強く惹かれるようになったのは、
まさにその時からだった。・・」(p212~213)

年譜には

昭和4年(1929)5月
 文子(26)を伴って京都へ転居し、
 京都左京区北白川伊織町に住む。
9月 京都大学理学部動植物教室嘱託および
  京都大学農学部附属木原生物研究所嘱託となり、
  学術的な生物画の仕事に没頭。中村栄のペンネーム。


また、牧野四子吉の文へもどれば

「京都という地域の環境や、京大の教室の人達との
交遊の中から浸み入ってきた、生物についての理解や
感心が驚くほどの早さで高まり、深まったことには、
幾多の原因が数えられる。それにしても、
それからの長い期間、いちずに生物を描き続けて
今日に至ったことに、我ながら驚くことがある。・・」
(~p214)


う~ん。そうそう、このGOOブログのなかに、
「京都園芸倶楽部のブログ」があり、
うつくしい草花の写真が見れます(笑)。

もどって、回想録に木村晴彦氏がよせている文。
そのなかに、こんな箇所

「・・・牧野さんの小さなお宅はその頃から、
いつも千客万来で、とくに京大の動植物学科の学者の
誰かが来ておられて紹介されました。ですから
牧野さんのお宅に行くと知らず知らずのうちに
顔が広くなって行きました。よくお目にかかって
記憶に残っている人は、・・徳田先生の外に
進化論の今西、生態学の森下、渋谷、森、
動物生理学の小野、植物学の山田、中村の
各先生や民俗学の梅棹君等・・・・
またイタリア人牧師のベンチベーニさん、
日仏学館のオーシュコルヌ夫婦等にも
よくお目にかかりました。・・・」(p169)


全536頁。
編集・発行は
「牧野四子吉・文子回想文集編集委員会」
とあります。
はい。牧野文子さんの本には、
翻訳や、イタリアの紀行本などあり、
それも欲しくなりすが。まずは、ここまで(笑)。


ちなみに、梅棹忠夫が樺太へいったのは
いつだったか、梅棹年譜をひらくと、
こんな記述がありました。

1940年(昭和15)20歳
  12月24日京都探検地理学会樺太踏査隊に参加。
  イヌそりの性能調査をおこなう。
  1941年1月中旬帰洛。
  本気で南極をめざしていた。


梅棹忠夫年譜に「本気で南極をめざしていた」という
その合言葉が、53歳で南極越冬をした西堀栄三郎。
その西堀を推挙した桑原武夫。その南極越冬の資料を
わずかな期間で「南極越冬記」にまとめた梅棹忠夫。
とつながっているのだと、あらためて確認できます。



もどって、戦後の牧野夫婦は

1949年(昭和24年)6月
    東京へ帰り、東京都豊島区池袋・・に住む。

あとは、東京住まい。
あとは、旅行での京都だったようです。



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北白川のサロン。

2019-07-18 | 本棚並べ
かもがわ出版「丁丁発止」(1998年)は、
梅棹忠夫・鶴見俊輔・河合隼雄の鼎談。


そのはじまりは「北白川のサロン」。

鶴見】 梅棹さんと初めてお会いしてから、ほとんど
50年でしょうか。1949年でしたからね。そのころ、
実によく会っていました。・・・・・

梅棹】そうでしたね。あのころは、いわゆる一般の
インテリの考えることと私とはちがっていた。


うん。やはり引用しておきます(笑)。

梅棹】私の青年時代はいわゆる戦前ですからね。
私は1944年から46年まで中国大陸で生活しているんです。
そして46年の春に日本に・・・ほうほうのていで逃げ帰って
きた(笑)。

鶴見】・・・引き揚げの上陸用舟艇で三井・三菱の支店長の
細君たちが喜々として赤ん坊のおしめや何かを干している風景。

梅棹】引き揚げ船の甲板に綱を張って、それに干した
おしめがまるで満艦飾でね。

鶴見】そのことに感激しているわけです。梅棹さんは
・・・・

梅棹】元気、元気でね。私は
『ああ、これで日本の将来は開けた』と思った。
それまですべて軍でしょ。・・・・
『ああ、もうこれで日本は万々歳だ』と。
戦争に敗けるというのは、歴史上いくらでもあることで、
べつにしょげ返ることはないんですよ。
『これから日本の世紀が来るんだ。万々歳だ』と
言って帰ってきた。・・・・

鶴見】・・京大のすぐそばの進々堂コーヒー店で、梅棹さんと
話していると、そこがまるで別天地のようなんです(笑)。

梅棹】毎日、われわれは進々堂にたむろして、
お茶を飲んで話していました。

鶴見】そのころは酒は飲まなかったんです。
コーヒー一杯で、ものすごく安上がり(笑)。

梅棹】終戦前からサロンをつくっていましたね。

鶴見】『にど・だもれ』という本があります。
牧野四子吉(よねきち)・文子夫婦の回想文集です。
・・・その牧野夫婦のサロンがあった。・・・

サロンというのは、旦那もさることながら
細君が活発に反応していると明らかに弾力性が出てきて、
おもしろい場所ができてくるんですよ。

梅棹】そうですね。・・・・女性がひとり入ると、
みなそれに魅かれて行くんです。当時、北白川の
一間きりの家で牧野夫婦は生活していたんです。
その広間がサロンになっていた。

鶴見】そこからずっと派生してくるので、
私が梅棹さんに会ったのは1949年。
復活のころから京都に定着したわけだから。
とにかく別天地の感があったね。おもしろかった。
(p8~12)


はい。ついつい引用してしまいました(笑)。
さてっと、この会話のなかに『にど・だもれ』という
本が紹介されている。読んだときに、気になって
ネット検索したら見当たらなかったのでした。
それが、今回あらためて検索したら日本の古本屋に
それはありました(笑)。
はい。さっそく注文。
いながらにして、本を手にできる。
そのありがたさ。そのおもしろさ。

次回は、その紹介となるでしょうか





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技術・作法のパンセ。

2019-07-17 | 本棚並べ
桑原武夫に、西堀栄三郎を書いた
「西堀南極越冬隊長」という文があります。

そこに「私は読書論をかくたびに
彼の風貌を想起せずにはおられない。」
という箇所があるのでした。

「・・・・・
ある登山の集会で、浦松氏の講演中、
私はわからぬことがあったので、
紙片に疑問をかいて西堀に廻した。

彼は例によってグラフと数字を書こうとしたが、
紙がない。すると、彼はその日丸善から買ってきた
ばかりのフィンチの山岳紀行文集の豪華本、本文が
中央に印刷され、余白の多い、その欄外のところを
サッと引きやぶって、それに答えを書いてよこした。

長塚節の『土』の初版本を見つけて
喜んだりしていた私は、全くイカレた。
この間この話をしたら、本人はすっかり忘れていたが、
私のようなものにも、もし読書史というものがありとしたら、
彼のこの行動はその一転回点をなしたといえる。」


はじめて、この箇所を読んだときは、
私も驚きました。これでいいんだ。という
安堵感も、すこしあったような気がします。
はい。図書館で借りてきた本では、
こうはいかない(笑)。


さて、次にいきます。
桑原武夫は1980年(昭和55)76歳で
「桑原武夫集」全十巻を出します(1981年完結)。
その刊行の1カ月前に、「文章作法」を出しております。

その「文章作法」に
「本を焚きつけにでもするとしたら」
というおもしろ箇所があるので引用。

「私は戦争直後にだいぶきつい文章を
いろいろ書きました。それを『現代日本文化の反省』
と題して、本にまとめました。その本の『あとがき』
に次のようなことを書いています。

 『・・・説の当否は時によって、
やがて厳しくさばかれるだろうが、
その結果いかんにかかわらず、私に悔いはない。そして万一、
五十年後に本棚の片隅にこの本をふとみつけた人が、
1946年ごろにはもうこんなにも自明なことを
力説していた人間もあったのかと笑って、
この本を焚きつけにでもするとしたら、
地下から私は満足の笑みをもらすだろう。
そうありたい。』 」


う~ん。もう少し引用。
「文章作法」の第一章は、題して
「人さまに迷惑をかけない文章の書き方」。

そこから引用。

「しかし、文章を書くということは
ひとりごと、つぶやき、あるいは叫びではない。
それは・・・相手のある言葉、すなわち対話です。
・・・・メッセージであって、思うこと、
知っていること、考えたことを伝えることです。
アランの言葉でいえば、パンセ(思想)が含まれて
いなければいけないということです。

思想といっても、マルクス主義思想とか、
ダーウィンの思想とか、そういった
むつかしい意味にとらないで、
自分の考えたことという程度に考えてください。」


「文章作法」の第二章は、
題して「パンチをきかせて書く」。

そこでは、梅棹忠夫著「文明の生態史観」の
書き出し部分を引用して、
おもむろに、はじまっているのでした。

ちなみに、「文明の生態史観」は、
トインビーの本を読んだことから、書き出されています。
桑原武夫は、「文明の生態史観」を引用してゆきながら、
こう書いております。

「これを読んで、
あたりまえのことが書いてあると思ったら、
それは皆さんが若くて歴史感覚がないからです。
四十以上の人だったらわかるでしょうが、
いまから二十年前に、西洋人にむかって
『すくいがたい無知と独善』というような
言葉を書いた人があったか、考えてみてください。
一人としていないですよ。
ですから、あとになったらふつうに見えることが、
書かれたそのときにはドキッとさす。

これがいい文章、いい評論というものの特色です。
私はその当時、この部分を読んだときにドキッとしました。
なんと大胆なことを書くかと。」

こうして、「文明の生態史観」をテキストにして、
シンプルに、「文章作法」を伝授しておりました。



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