藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)で、
一か所、多田道太郎さんのお名前が登場しておりました。
その個所が面白いのでつい引用。
「・・研究会がある月曜日は、いつも静かな研究所の廊下が、
お昼すぎから人の足音でざわめきはじめる。
研究会は一時半からとなっているが、十二時半ごろから
研究室にメンバーの先生が寄ってこられ、ここでちょっと
お茶をのんで、会がはじまるまで、おしゃべりをしていかれる。
時間がきて・・・奥の会議室からにぎやかな話し声がもれてくる。
ときには『ワァー』と、はじけるような爆笑がきこえ・・・
そばにいた用務員さんが・・・
梅棹班はとにかく声が大きく、よく笑うのだそうである。
『いちばん静かな班とくらべたら、お通夜と寄席ほどのちがいです』
と、若いほうの用務員さんがおしえてくれた。
小杉さんのいる藤岡研究室は会議室の一つおいてとなりだったが、
そこまで笑い声がもれてくることがあるそうだ。とすると、
会議室と藤岡研究室のあいだにある多田道太郎先生のお部屋へは、
話し声がつつぬけではないか。月曜日の午後、
多田先生は研究室で仕事ができなかったのではないだろうか。
たまにお見かけする多田先生は、
たいへん繊細な神経の持ち主のようで、
あのような騒音に耐えられるかたでは
ないように思われた。・・・」(p108~109)
はい。こんな印象的な場面は、わたしなど、
いつか、あとで思い出してしまうのですが、
さて、そんなときには、もうどこに書いてあったのか。
どの本にあったのか。すっかり忘れているだろうなあ(笑)。
ですから、きちんと引用しておきます。
さてっと、それはそうと、藤本ますみさんが
京都大学人文科学研究所の梅棹忠夫研究室の秘書を務めたのは
1966年~1974年7月まで。
鶴見俊輔さんは、それより前の、終戦後に来ておりました。
次の引用は、鶴見俊輔・多田道太郎の対談
「カードシステム事始 廃墟の共同研究」から。
鶴見俊輔さんは
「人文科学研究所は太平洋戦争中にできました。
そして敗戦後の1948年(昭和23年)に西洋部ができた。
私が来たのはその翌年です。26歳でした。」
多田道太郎さんは、1924年(大正13年)12月京都市下京区生れ。
鶴見】そのとき、多田さんは私より2つ下の24歳。
年が近かったから、共同研究を進めるのが楽だったわけ。
多田】研究会は、週一回やっていましたね。
鶴見】毎週金曜日ごとに、各自が発表しました。
討論が白熱して、夜までかかることもしばしばありました。
恐ろしいのはね、夏も研究会をやったんだ。
京都に熱波がくるとね、あまりにも暑くて、
皆がしばらくジーッと黙ってしまうんだ。
(笑)だからこそ、一年でできちゃったんだ。
・・・・
その討論の結果をもとに、各自が論文を書いた。
最終的には、1951年(昭和26年)に『ルソー研究』
という本にまとまりました。
以上は、「季刊 本とコンピュータ」1999年冬号。
のちに、「鶴見俊輔対談集未来におきたいものは」(晶文社)。
もうすこし引用。
鶴見】・・・皆の論文が集ってきたときに、
桑原さんが『いまとても豊かな感じがする』
と言ったのを覚えているね。
そういうものが共同研究の気分なんですよ。
カードを共有するという発想もそこから生れたんです。
多田】どんどん新しい発見がありましたね。
すごい興奮だった。
・・・・・
鶴見さんはすごく寛大だった。
『一緒にやろう』と言ったら、
ほんまに一緒にやるんだからね。
そんな経験をぼくは東大でも京大でもしたことがない。
『そうか、本気で共同研究をやるんやな』という感じで。
人文科学の共同研究では、ふつうトップ・オーサーの
名前しかでない。ぼくらの場合は、トップ・オーサーも
何もなしで三人連名。
はい。ここまで引用したんだから、
もっと引用をつづけておかなきゃ(笑)。
鶴見】・・梅棹さんはルソー研究のあとにやった、
百科全書研究のときに参加したんです。
このときは彼がアンカーになって書いた。
彼は自分の文章に対する自信があるから、
他の人と一緒にやるのいやなんだよ。(笑)
たくさんの人がやったディスカッションを、
自分で流れをつくって書き直したんだ。
非常に立派な出来栄えですよ。
・・・・・
それとね。私たちの共同研究には、
コーヒー一杯で何時間も雑談できるような
自由な感覚がありました。
桑原さんも若い人たちと一緒にいて、
一日中でも話している。アイデアが飛び交っていて、
その場でアイデアが伸びてくるんだよ。
ああいう気分をつくれる人がおもしろいんだな。
梅棹さんもね、『思想の科学』に書いてくれた
原稿をもらうときに、京大前の
進々堂というコーヒー屋で雑談するんです。
原稿料なんでわずかなものです。
私は『おもしろい、おもしろい』って聞いてるから、
それだけが彼の報酬なんだよ。
何時間も機嫌よく話してるんだ。(笑)
雑談の中でアイデアが飛び交い、
互いにやり取りすることで、
そのアイデアが伸びていったんです。
・・・・
さてっと、雑誌『思想の科学』(1954年5月号)に
梅棹忠夫著「アマチュア思想家宣言」が掲載されます。
梅棹忠夫著作集の第12巻で、その文を読めるのでした。
全集本で10頁の文章です。
せっかくなので、ここには、
「アマチュア思想家宣言」の本文の最後を引用。
「アマチュア・カメラマンが氾濫しているように、
アマチュア思想家が氾濫してもよいのである。
この『思想の科学』という雑誌も、やはりいわゆる
思想雑誌の一種でしょうが、その紙面を、第一号から、
とにかくわたしのようなアマチュアに開放された
ということは、まことに編集者の英断であった。
プロの立場からすれば、ばかな議論でページが
うめられたとしても、思想が生きて役にたつには、
これは有効な措置となるにちがいない。
一度でこりたといわずに、毎号アマチュアに勝手に
しゃべらせてもらいたいものだ。そのかわり、
プロのほうのご意見も拝聴します。
わかるかどうかは知らないけれど。
ただ、すこし心配がある。原稿料をもらったら
アマチュア資格をうしなう、などというルールをつくろう
とプロ側から提案されはしまいか、ということです。」
あと一箇所(笑)。
引用をします。加藤秀俊著「わが師わが友」から、
「鶴見さんは、ほとんどわたしと入れかわりに
東京工大に移られたから、いっしょにいた期間は
きわめて短かったが、そのあいだに、わたしに、
ぜひいちど梅棹忠夫という人に会いなさい、
と熱心にすすめられた。・・・・・
それと前後して、わたしは雑誌『思想の科学』に
梅棹さんの書かれた『アマチュア思想家宣言』と
いうエッセイを読んで、頭をガクンとなぐられたような気がした。
・・・・」
ちなみに、「わが師わが友」は、加藤秀俊氏のホームページで
無料公開されています。ですから、梅棹忠夫と加藤秀俊氏の
以降の出会いは、簡単に読めるので、引用はここまで。
一か所、多田道太郎さんのお名前が登場しておりました。
その個所が面白いのでつい引用。
「・・研究会がある月曜日は、いつも静かな研究所の廊下が、
お昼すぎから人の足音でざわめきはじめる。
研究会は一時半からとなっているが、十二時半ごろから
研究室にメンバーの先生が寄ってこられ、ここでちょっと
お茶をのんで、会がはじまるまで、おしゃべりをしていかれる。
時間がきて・・・奥の会議室からにぎやかな話し声がもれてくる。
ときには『ワァー』と、はじけるような爆笑がきこえ・・・
そばにいた用務員さんが・・・
梅棹班はとにかく声が大きく、よく笑うのだそうである。
『いちばん静かな班とくらべたら、お通夜と寄席ほどのちがいです』
と、若いほうの用務員さんがおしえてくれた。
小杉さんのいる藤岡研究室は会議室の一つおいてとなりだったが、
そこまで笑い声がもれてくることがあるそうだ。とすると、
会議室と藤岡研究室のあいだにある多田道太郎先生のお部屋へは、
話し声がつつぬけではないか。月曜日の午後、
多田先生は研究室で仕事ができなかったのではないだろうか。
たまにお見かけする多田先生は、
たいへん繊細な神経の持ち主のようで、
あのような騒音に耐えられるかたでは
ないように思われた。・・・」(p108~109)
はい。こんな印象的な場面は、わたしなど、
いつか、あとで思い出してしまうのですが、
さて、そんなときには、もうどこに書いてあったのか。
どの本にあったのか。すっかり忘れているだろうなあ(笑)。
ですから、きちんと引用しておきます。
さてっと、それはそうと、藤本ますみさんが
京都大学人文科学研究所の梅棹忠夫研究室の秘書を務めたのは
1966年~1974年7月まで。
鶴見俊輔さんは、それより前の、終戦後に来ておりました。
次の引用は、鶴見俊輔・多田道太郎の対談
「カードシステム事始 廃墟の共同研究」から。
鶴見俊輔さんは
「人文科学研究所は太平洋戦争中にできました。
そして敗戦後の1948年(昭和23年)に西洋部ができた。
私が来たのはその翌年です。26歳でした。」
多田道太郎さんは、1924年(大正13年)12月京都市下京区生れ。
鶴見】そのとき、多田さんは私より2つ下の24歳。
年が近かったから、共同研究を進めるのが楽だったわけ。
多田】研究会は、週一回やっていましたね。
鶴見】毎週金曜日ごとに、各自が発表しました。
討論が白熱して、夜までかかることもしばしばありました。
恐ろしいのはね、夏も研究会をやったんだ。
京都に熱波がくるとね、あまりにも暑くて、
皆がしばらくジーッと黙ってしまうんだ。
(笑)だからこそ、一年でできちゃったんだ。
・・・・
その討論の結果をもとに、各自が論文を書いた。
最終的には、1951年(昭和26年)に『ルソー研究』
という本にまとまりました。
以上は、「季刊 本とコンピュータ」1999年冬号。
のちに、「鶴見俊輔対談集未来におきたいものは」(晶文社)。
もうすこし引用。
鶴見】・・・皆の論文が集ってきたときに、
桑原さんが『いまとても豊かな感じがする』
と言ったのを覚えているね。
そういうものが共同研究の気分なんですよ。
カードを共有するという発想もそこから生れたんです。
多田】どんどん新しい発見がありましたね。
すごい興奮だった。
・・・・・
鶴見さんはすごく寛大だった。
『一緒にやろう』と言ったら、
ほんまに一緒にやるんだからね。
そんな経験をぼくは東大でも京大でもしたことがない。
『そうか、本気で共同研究をやるんやな』という感じで。
人文科学の共同研究では、ふつうトップ・オーサーの
名前しかでない。ぼくらの場合は、トップ・オーサーも
何もなしで三人連名。
はい。ここまで引用したんだから、
もっと引用をつづけておかなきゃ(笑)。
鶴見】・・梅棹さんはルソー研究のあとにやった、
百科全書研究のときに参加したんです。
このときは彼がアンカーになって書いた。
彼は自分の文章に対する自信があるから、
他の人と一緒にやるのいやなんだよ。(笑)
たくさんの人がやったディスカッションを、
自分で流れをつくって書き直したんだ。
非常に立派な出来栄えですよ。
・・・・・
それとね。私たちの共同研究には、
コーヒー一杯で何時間も雑談できるような
自由な感覚がありました。
桑原さんも若い人たちと一緒にいて、
一日中でも話している。アイデアが飛び交っていて、
その場でアイデアが伸びてくるんだよ。
ああいう気分をつくれる人がおもしろいんだな。
梅棹さんもね、『思想の科学』に書いてくれた
原稿をもらうときに、京大前の
進々堂というコーヒー屋で雑談するんです。
原稿料なんでわずかなものです。
私は『おもしろい、おもしろい』って聞いてるから、
それだけが彼の報酬なんだよ。
何時間も機嫌よく話してるんだ。(笑)
雑談の中でアイデアが飛び交い、
互いにやり取りすることで、
そのアイデアが伸びていったんです。
・・・・
さてっと、雑誌『思想の科学』(1954年5月号)に
梅棹忠夫著「アマチュア思想家宣言」が掲載されます。
梅棹忠夫著作集の第12巻で、その文を読めるのでした。
全集本で10頁の文章です。
せっかくなので、ここには、
「アマチュア思想家宣言」の本文の最後を引用。
「アマチュア・カメラマンが氾濫しているように、
アマチュア思想家が氾濫してもよいのである。
この『思想の科学』という雑誌も、やはりいわゆる
思想雑誌の一種でしょうが、その紙面を、第一号から、
とにかくわたしのようなアマチュアに開放された
ということは、まことに編集者の英断であった。
プロの立場からすれば、ばかな議論でページが
うめられたとしても、思想が生きて役にたつには、
これは有効な措置となるにちがいない。
一度でこりたといわずに、毎号アマチュアに勝手に
しゃべらせてもらいたいものだ。そのかわり、
プロのほうのご意見も拝聴します。
わかるかどうかは知らないけれど。
ただ、すこし心配がある。原稿料をもらったら
アマチュア資格をうしなう、などというルールをつくろう
とプロ側から提案されはしまいか、ということです。」
あと一箇所(笑)。
引用をします。加藤秀俊著「わが師わが友」から、
「鶴見さんは、ほとんどわたしと入れかわりに
東京工大に移られたから、いっしょにいた期間は
きわめて短かったが、そのあいだに、わたしに、
ぜひいちど梅棹忠夫という人に会いなさい、
と熱心にすすめられた。・・・・・
それと前後して、わたしは雑誌『思想の科学』に
梅棹さんの書かれた『アマチュア思想家宣言』と
いうエッセイを読んで、頭をガクンとなぐられたような気がした。
・・・・」
ちなみに、「わが師わが友」は、加藤秀俊氏のホームページで
無料公開されています。ですから、梅棹忠夫と加藤秀俊氏の
以降の出会いは、簡単に読めるので、引用はここまで。