西原大輔著「室町時代の日明外交と能狂言」(笠間書院)。
はい。各章のはじまりだけを引用することに。
第一章のはじまり
「中華思想という『中国之夢』に陶酔し、拡張主義的になった
チャイナが、海を越えて強権を日本に及ぼし、服従と属国化を
要求し始めた時、我が国は如何に対処すべきか。
能大成期の日本は、このような対明外交問題に直面した。
中華思想では、華(か)と夷(い)を区別し、
皇帝と国王との間に上下関係を設定しようとする。
この華夷秩序を形式的に受け入れる限り、
中華は周辺諸国に経済面で寛大だった。
朝貢に対する回礼品は、数倍以上の利益を生んだ。
また、皇帝に国王と認定された周辺諸国の権力者は、
自国内で政治的権威を高めた。
このような巧みな抱き込み策に組み込まれまいと抗う時、
日本は全く次元の異なる論理や価値観・世界観を必要とした。
・・・・
この第一章では、中華思想に取り憑かれた明朝の『帝国主義』に
対する、日本の独立精神貫徹の物語として、また、チャイナ中心の
華夷秩序への対抗言説として、≪白楽天≫を読み解いてゆきたい。」
(p12)
うん。引用が長くなりました。
このあとは、短く各章のはじまりを引用。
第二章のはじまり
「対馬に襲来した朝鮮軍を退散させたという吉報が、
九州の少弐満貞から都に到着したのは、応永26(1419)年
秋8月7日のことだった。応永の外寇である。・・・・」
第三章のはじまり
「ある年、東シナ海でチャイナと日本の紛争が発生、
日本船がチャイナ側に拿捕され、乗組員が拉致された。
日本としても、対抗上チャイナ船を拘束し、
乗組員を日本国内に拘留した。能≪唐船≫は、
このような穏やかならぬ記述ではじまる。・・・・」
(p76)
第四章のはじまり
「我が国に華夷秩序を強要するチャイナを嫌い、
明国との断交を行なった足利義持(1386~1428)は、
応永35年1月18日に亡くなった。その後、
籤(くじ)引きで選ばれた六代将軍足利義教(1394~1441)が
室町幕府を引き継ぐと、外交方針が反転する。
義教(よしのり)は、貿易による経済的利益を重視し、
日明間の国交回復を目指した。
明朝の属国という外交形式を甘受することで
実利を取りに行ったのである。・・・」(p108)
第五章のはじまり
「≪善界(ぜがい)≫の作者竹田法印定盛(たけだほういんじょうせい)
は、大陸の血を受け継ぐ人物である。祖母は明人で、先祖の四分の一が
外国人だった。いわゆるクォーターである。・・・
その定盛が、反チャイナ的な能≪善界≫を書き残したことは、
極めて興味深い。・・・」(p128)
第六章のはじまり
「日本人は一体いつから、中華世界に特別な権威を認めなく
なったのだろうか。またいつから、チャイナを低く見るように
なったのだろうか。・・・・・・・・・・
このような疑問を持ちつつ、日本の歴史をふりかえる時、
室町時代の能成立期が注目される。我が国を上位国とし、
大陸を含む周辺国を属国視する、日本中心の世界観。
その水源の一部は謡曲にもある。本章では、
能≪岩船≫を取り上げ、作品にあらわれた日本中心型
華夷観について考えてゆきたい。」(p154)
第七章のはじまり
「≪春日龍神≫は、愛国的な印象を与える能である。・・・」
(p188)
第八章のはじまり
「狂言≪唐相撲≫の観客は、眼前で展開する異国趣味の
面白さに強い印象を受ける。和泉流では≪唐人相撲≫、
大蔵流では≪唐相撲≫と称するこの演目には、
極めて大人数の立衆が登場する。
通常の狂言が持つ簡素な美とは異なり、
派手な装束を着た人物が、橋掛(はしがかり)まで
ぎっしり立ち並ぶ。まるでお祭りを見ているような気分である。」
(p216)
はい。さわりだけですが、ここまで。