和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

明治神宮で講演。

2021-12-14 | 地域
私は、明治神宮に行ったことがない。

平川祐弘氏の文章は、〈注〉も面白い。
その文章の中で、気になったのは明治神宮の売店でした。

〈注〉 私どもの共著には平川祐弘・牧野陽子著
『神道とは何か――小泉八雲のみた神の国 日本〉
(錦正社、2018年)というバイリンガル版もある。
明治神宮の売店などで求めることが出来る。
これは西洋側の神道理解の中でハーンの解釈を
良しとする見方で書かれた。

(p356「Hanada2022年1月号」)

どうやら、平川・牧野は揃って外国でも発表をしているようです。
この1月号には、こうもありました。

「私たちは外国でも二人続けて発表した。
攻撃的な調子で私が硬派の英語発表をすると、
牧野さんが穏やかな美しい英語で話す。

一番バッター平川、二番バッター牧野のコンビがよかった、
確実に連続ヒットで出塁という感じで、外国人学者からも
一目置かれた。それで各地から声がかったのである。

退屈な発表をされると聴衆が席を立ってしまう。
東大駒場の月例講演会でも一度つまらぬ話をされると、
次回から聴衆が減る。発表の出来不出来は選別せねばならない。
・・・・」(p355)

はい。明治神宮の売店でも売っている、
「日本語と英語で読む 神道とは何か 小泉八雲のみた神の国、日本」
これをひらくと、たしかに(私は英語はダメですが)
一番バッター・二番バッターのコンビの講演は魅力でした。

うん。ここでは、その魅力を再現できないので、
しかたないなあ、牧野陽子さんの「あとがき」の
はじまりを引用しておくことに。

「・・の講演が行われた平成29年6月3日は、
さわやかに晴れわたった美しい日だった。

土曜の昼下がりの明治神宮は参拝の人々で静かに賑わっていたが、
原宿の帰りらしい若者に加えて、外国人観光客の多さが印象的だった。

三々五々連れ立って参道を歩みながら、大きな鳥居を見上げるもの、
神社の杜の大樹の繁みに目をやるもの、中には参道に敷き詰められた
小石の音を確かめるかのように足元をふと眺めるものもいた。

そんな外国人の姿を見ながら、私は子供の頃、八年間の欧米生活
から帰国して両親とともにお詣りしたときのことを思い出した。

境内の樹々のたたずまいに安らぎを覚え、
社殿を囲む深い杜が包み込んでくれるように思えて、
日本に帰ってきたのだと理屈抜きに実感したのだった。
 ・・・・・」(p133)


はい。講演内容は、さらに豊かさに富んでおりました。
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令和3年元日「その共感が」。

2021-12-13 | 古典
平川祐弘著「一比較研究者(コンパラティスト)の自伝」。
その32回は「神道の行方」(月刊Hanada2021年5月号)でした。

この回は、ふるっているんですよ。
源氏物語の初音(はつね)をはじめの方で引用するかと思えば、
この回の最後はというと、火野正平の『にっぽん縦断こころ旅』
を紹介しておわるのでした。

はい。肝心なのは、本文の中頃なのですが、
なんせ、私は引用する才能がすくないので、
ここは、ほれ、最初と最後とを引用します。

「私は数えで九十一、わが国の新年の気分を大切にしょうと、
一片(ひとひら)の雲も見えず晴れわたり、うららかな令和3年の元日、
『源氏物語』の初音(はつね)を読み初めに音読した。

  年たちかへる朝(あした)の空の気色、 
  名残なく曇らぬうららかげさには、数ならぬ
  垣根の中(うち)だに雪間の草わかやかに色づきそめ、
  いつしかと気色だつ霞に木の芽もうちかぶり、
  自(おのづ)から人の心ものびらかにぞ見ゆるぞかし。  」
(p346~347)

はい。では、この32回目の最後を、ちょいと長く引用。

「卒寿の私は遠出は代々木の森がせいぜいで、
テレビで火野正平の自転車の『にっぽん縦断こころ旅』を、
一緒に長旅するつもりで眺めている。

ご本人にその自覚があるか知らないが、あの一行は
チャリンコで津々浦々を実は巡礼しているのだ。
尋ねる先は海辺、大樹、山頂、神社、寺の庭、小学校など、
私たちの心のふるさとである。

人々の思い出をたどるが、大和島根の行く先々の多くに、
神道のゆかりの地がある。

行方は自転車を漕ぐ人や、手紙で昔を語る人々の胸中にある。
いまは亡き人々を偲ぶ思い出が、自転車を漕ぐ人にも、
見ている私たちにも伝わる。その共感が尊い。
それが日本人の心の行方そのものなのではあるまいか。
  ・・・・・・・・・・・           」(p361)



うん。断片引用はここまで、
この回は、やはり全文を読んで味わいたいのでした(笑)。


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90歳の好機。

2021-12-12 | 産経新聞
産経新聞の第37回正論大賞に平川祐弘氏が受賞されて、
昨日に産経新聞に受賞の言葉が引用されておりました。

うん。ここは、きちんと私なりに引用しておくべきでしょう。
そう思いました。まず、正論大賞はどなたが受賞なさってるのか?
私が気になる名前を以下に引用
第1回が渡部昇一。3回は曽野綾子。11回は岡崎久彦。
13回は江藤淳。15回は石原慎太郎。18回は中西輝政。
22回は佐々淳行。26回は櫻井よしこ。30回は秦邦彦・西岡力。
ということで、37回目に平川祐弘氏が受賞することになったのでした。

さて受賞の言葉から、私なりに端折って引用。

「大賞を頂いたこの有難い機会に私の比較文化史研究について
説明し、後進が続くことを願いたい。

平川の特色は対象国に専門があるのではない。
比較する方法にある。
スペシャリストは尊敬するが、
時にひどい結果を出す『専門白痴』もいる。

戦前、陸軍一のドイツ通の大島浩中将は、
駐ドイツ大使としてヒトラーに心酔、
日独伊三国同盟の立役者となった・・その悪しき例だ。

それに対し三国同盟締結前夜、
日本論壇でナチスの非をはっきり述べた竹山道雄は
第一級のドイツ文学者だが、仏英語にも通じ、
判断のバランスがとれ、非人道の国と手を握ることの不可を説いた。

戦後は、北京一辺倒の日本人が各界で正義面をした。その結果、
シナと呼ぶのは蔑称だとして地名すらきちんと呼べなくなった。

チャイナ・スクールは、同胞に対しては偉そうだが、
相手には弱腰だから、先方は中国中心の華夷秩序を
当然と思いこんでいる。

人間、相手国に惚れ込むほどでなければ外国語はものにならない。
それも事実だが、特定国にのめり込むと有害にもなる。
相手を師として崇めるだけでなく、客観的に評価せねばならない。

それには三点測量が必要だ。
一外国語と母国語を結ぶと、知識がばらばらの点ではなく線となる。
しかし一外国語専門家は相手を見つめるうちに、
相手に圧倒されがちだ。

直線上の先に対象を見るから距離感が掴めない。
それが第二外国語を習うと、線の知識は面となり、
遠近感覚がつき、相手の所在が確認できる。
さらに加わると、見方が立体的となり、
バランスが取れてくる。

 ・・・・・・・・
昭和の戦争も東京裁判も、
日本を知り相手を知ってこそバランスのとれた判断は下せる。

国際文化関係研究に受賞されたのは、
平川の複眼のアプローチの有効性が
認められたことと感じ、喜んでいる。」

はい。新聞には、座りながら指さすように語る
平川祐弘氏の写真が掲載され印象深いのでした。
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精励恪勤(せいれいかっきん)90歳。

2021-12-11 | 産経新聞
12月11日産経新聞に正論大賞が載っておりました。
受賞者が平川祐弘氏。受賞の言葉がp14にあります。

昭和6年生まれの平川祐弘氏の受賞の言葉を引用したいのですが、
うん。全文引用しなきゃならない(笑)。
まあ、こちらは読もうとするなら、どなたでも今日読める。
ということで、引用したいのはやまやまながらカット。

ここでは、『精励恪勤(せいれいかっきん)』という
言葉がでてくる連載中の自伝から引用してみることに。

「当時の私は人事について家内に一言も話さなかった。

助手になってフランス語教室の態度がおよそ私に
好意的でないことがわかった。一年経った時、
他大学の助教授の口を勧める人もいたが、
私は、いや、それなら定年まで大学院比較文学
比較研究室の助手でもよろしい、
よそへは移らないと腹を決めた。
自分の力と他人を比べ、そう決めたら気が楽になった。

そして精励恪勤した。
30代当時の私が大学院生に及ぼした感化は、後年
50代の主任として及ぼした影響と大差はなかったかもしれない。

その助手を5年3ヵ月つとめた後、
助教授に昇格し東大に残ることに決まった。
予期せぬ事で耳を疑ったが、
その時も依子になにも言わなかった。

それだから、芳賀知子夫人からお祝いを言われて、
依子はなにがめでたいかわからず返事に窮した。

なにしろ本人がいたって明るく自信満々なので、
キャリヤーに蹉跌(さてつ)がある、などとは
身近な人も感じなかったのである。

『でも、それくらいは教えて下さっても
よかったのではありませんか』
と依子がすこし涙ぐんだ。」
  ( p358~359「月刊Hanada2020年5月号」 )
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切磋琢磨するに足る。

2021-12-10 | 道しるべ
切磋琢磨(せっさたくま)が童子問にあるというので、
谷沢永一著「日本人の論語 『童子問』を読む」下をひらいてみる。
うん。はじめてひらく(p86)。
そこに

「おのれと議論同じきを悦んで、
 おのれが意見と異なる者を楽しまざるは、学者の通患なり。

 学問は切磋琢磨を尊ぶ。おのれが意見と異なる者に接触し、
 おのれを捨てて心を平らかにし、切劘講磨(せつびこうま)
 するにしくはなし。」

じつは、平川祐弘氏の自伝を読んでいたら、
そこに、切磋琢磨という言葉があったのでした。
それで、つい辞書をひいたのでした。
古くさい四文字熟語を知りたくなったのでした。

これに関連しそうな箇所を引用。

「助手分際(ぶんざい)でこうしたことを平気で書く私は
『大助手』と呼ばれてしまった。・・
一旦学内で『大助手』と呼ばれるともう出世できない、とは
佐伯彰一氏のうがった観察で、氏は英語の非常勤講師として
毎週・・外国語談話室に寄ると、フランス語の若い教師達が
いつも平川の悪口を言っている。大学院担当という肩書も
癇(かん)にさわるらしい。

学問はあるようだがああ悪口を言われては平川は東大に
残れまいと思った、というのである。

外国に長くいた私は、人より遅れ学部卒業後11年で助手になった。
後輩が常勤講師や助教授になっている。学期試験の時、
そうした人の試験の補助監督を毎学期7回ずつさせられた。
 ・・・・・・・・
しかし、大学院助手として私は精励恪勤(せいれいかくきん)した。
60歳の定年までこのままでも構わない、と決めたのは勤めて1年経った
ある夕方のことで、すると気が落ち着いた・・・・」
(p356・月刊Hanada2020年6月号連載㉓)

さてっと、連載を読みすすむと、平川氏は大学教授となっております。
2022年1月号には、その平川教授の学生指導が語られておりました。

「私の学生指導は、
『学会で発表しないか』とか
『外国語で発表しないか』とか、
『旅費は出るから外国のシンポジウムに参加しないか』と、
学生の力に応じて、声をかける。

『機会は前髪で摑め。後ろは禿げているぞ』。
publish of perish(書物を出すか学者を辞めるか)の
原則に忠実な私は、同僚にも学生にもそれで臨んだ。
業績による推輓(すいばん)である。

歴代の主任が学生の出来のいい発表論文を次々と
有力書店に推薦できたのは、主任が学者としても
著述家としても出版社に信用があったからだろう。
人文系の論文はコマーシャル・ベースでも読まれることが大切だ。
・・・教師も学生も切磋琢磨が大切だ。・・・」(p354)

勿論、私は普通の『コマーシャル・ベース』で読んでる一人。
それにしても、ここに出てくる『切磋琢磨』という四文字は、
なんだか別物で磨きがかかって輝いてみえるから不思議です。

どんな意味なのか、最初に引いた辞書
「新潮現代国語辞典」の『切磋琢磨』のところには、
こうあったのでした。

① 石や玉などを切りみがくように知徳や学芸を磨きあげて
  人間を練ること。『切磋琢磨して学問をする[ヘボン]』

② 仲間同士が互いに励ましあい競いあいながら
  共に向上を図ること。
 『書上幾多の益友あり、以て切磋琢磨するに足る[二家族]』


ああ、この最後なんていいですね。
『書上幾多の益友あり・・・』
うん。わたしなら、こうあらためるだろうなあ。

『ブログ上幾多の益友あり、以って切磋琢磨するに足る』




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60年も前から。

2021-12-10 | 本棚並べ
はい。雑誌連載中の平川祐弘
『一比較研究者(コンパラティスト)の自伝』を読む楽しさは、
こんな箇所じゃないでしょうか。

「 60年も前から反大勢だった私は、
  論壇の主流から外されてきたが、
  同世代で誰が王道を進んだのか、
  判定はまだ下されていない気がする。」
( p358・月刊Hanada2020年7月号連載㉔「私の変わりよう」 )

はい。この連載をひらくと、どうぞ判定を下してみてください、
そう、読者へ問いかけられているような気がしてくるのでした。

このあとには、こう続きます。

「しかしそんな万年助手に論壇での発言権などあろうはずもない。
ただ『神曲』翻訳などで文筆収入はかなりあった。
これは当時の助手の月給が少なかったから、
相対的に多く感じたまでかもしれない。

しかしそんな収入があったからこそ、
いざとなれば大学をやめても構わない、と思い、
私は平気で東大紛争中も意見を述べたのだろう。

言論においてはきわめて反体制的、
行動においては保守保身的という
日本の左翼知識人のずるさは私も感じた。
しかし人間はそんなものだ、という諦観もあった。」(p358)


う~ん。ここまでの引用だと、
尻切れトンボになっちゃうし、引用はむずかしいなあ。
でもこれくらいにしておきます。
はい。連載を読んでいると、私はワクワクしてきます。




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70代半ば過ぎて平川祐弘。

2021-12-09 | 本棚並べ
雑誌に連載中で、まだ単行本化されてない、
それで気になり、この機会に古雑誌を出してきては、
平川祐弘の「一比較研究者の自伝」をひらいてみる。
今回は、2020年12月号(連載28回)をひらいてみる。

はい。こんな箇所がありました。

「もしかすると平川祐弘は、若年の著述もさりながら、
そんな中年以後の一連の活動と、老年の作品ゆえに・・・
記憶されるかもしれない。私はそんな風に自分を感じ、
位置づけている。」(p346)


「七十代半ば過ぎから文章を書く機会がふえたのは、
第一に、日本人の寿命が延びたからで、この年齢を
晩年と呼ぶこと自体が、はやまっているのだ。

第二に、私の個人的事情として、直腸癌の手術以後、
生活にいささか不都合が生じ、外出を控えた。
それで執筆の時間がふえたのである。・・・・・・

そんな有様で、知的エネルギーをいまはパソコンに集中し、
書くべきことは書き上げようとつとめている。・・・」(p348)

「七十五歳以後の私は、余生のつもりで、
荻窪のよみうりカルチャー・センターで教えだした。
まず2007年は、第二・第四土曜日午後そこで行った
ダンテの『神曲』講義を、毎回帰宅すると、本論も
本線も、余談も脱線も、計算して書き上げた。

2008年は・・・国際シンポジウムに招かれ、そこで
〈アーサー・ウェイリー『源氏物語』の翻訳〉をまとめた。
・・よみうりカルチャーで《「源氏物語」を日英両語で読む》
を始めたのはその時からで、

聴講者数が十人を切れば、採算が取れぬから閉講する、
と事務所からあらかじめ申し渡されたが、めでたく
13年間続き、宇治十帖を読んでいる。
過去に休講は一度、3・11の大地震の翌日だけである。」
(p350)

うん。この2020年12月号の最後も引用しておくことに。
昔に、『平和の海と戦いの海』を新潮11月号に掲載した時のこと
に触れられておりました。

「・・・京都大学では政治学の高坂正堯教授が演習で、
島田洋一学生に平川作品を渡し、
『君、これをまとめて教室で発表したまえ』と命じた。

冒頭で師弟再会にふれたが、その何人かは若い日に
『平和の海と戦いの海』を読んだ人たちである。
かつての学生たちの年齢もとうに60を越した。

現在、私のよみうりカルチャーの聴講者は、
高学歴で多彩な経歴の人が過半である。
海外生活の実体験に基づき、活発に議論する。

中には私の孫より年下の高校生もいて、
その母親と並んで出ている。受け答えして
これほど愉快な人たちをかつて教えたことはない。
・・・」(p361)

はい。連載の一回分を読んだだけで、もう私は
満腹でつぎの連載を読む気がしなくなります。

はい。でもこの機会に古雑誌をしばらく
めくることにします。




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平川祐弘の『ものを書く目処(めど)』

2021-12-07 | 本棚並べ
月刊Hanada2020年6月号。
平川祐弘氏の連載「一比較研究者の自伝」。
その23回目の題は「煉獄にいたころ」でした。

うん。こんな箇所があったのでした。

「・・・1968年春に東大医学部で発火し、
たちまち全学、いや全国にひろがった大学紛争・・・

当時の過激派学生は口実を設けて
学生大会でストライキを一たび可決させるや、
後はもはや民主主義的手続きを尊重しない。

『もうやめよう』という気運が一般学生の間で盛り上がっても、
その時は学生大会を開かない、開いても真夜中過ぎまで
会議を引き延ばせば普通の学生は帰宅してしまう。
スト中止は可決させない。
だから無期限ストの様相を呈する。

・・・・しかし警察力の及ばない学内で、
一般学生が暴力学生に立ち向えるはずはない。

1968年の12月に研究室は過激派学生に占拠された。
助手の私はストライキに同調しない大学院生を連れて
八王子のセミナーハウスへ泊りに行った。」(p360)

ちなみに、平川祐弘氏は1969年の年賀状に
『神曲』の天国篇第13歌の一節を印刷して送ったとあります。
その年賀状の引用の最後だけを、さらに削って引用すると

「 真理を漁(あさ)ってそれを取る技(わざ)を心得ぬ者は、
  来た時と同様手ぶらで帰るわけにはゆかぬというので
  むやみと岸を離れたがるが、それが危険なのだ。 」

このつづきの
Hanada 2020年7月号連載24回目「私の変わりよう」も
ひきつづき読むと楽しめるのでした。
その楽しみは、どのようなものなのかというと、
思い浮かぶのが、こんな箇所なのでした。

それは、この連載9回目「モリス・ド・ゲラン」にありました。
この9回目の題名に触発されたようにして、書いておりました。

「私には、ものを書くについてある目処(めど)があった。
それは学術上の文章が、自分の日記や手紙の文章ほど
生き生きしないようなら、書くに値しない、という思いで、
その気持は学生時代も、教授時代も、退官後も変らない。」
(p317・2019年2月号)


う~ん。1931年生まれの平川祐弘の文章。
この連載に惹かれる魅力はさしあたって、
ここらあたりに、あると思えるのでした。


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誕生したばかりの若々しさ。

2021-12-06 | 道しるべ
牧野陽子の古本届く。

牧野陽子著
「ラフカディオ・ハーンと日本の近代」(新曜社・2020年12月)
定価は税込み3960円。これが古本で2500円+送料520円=3020円。
帯つき新刊同様にきれい。はい。進呈本ですね。牧野さんによる
贈呈挨拶の紙がはさまれておりました。

さてっと。小泉八雲の本といえば、
講談社学術文庫に平川祐弘編で何冊か揃っておりますね。
いずれも、私は読んでいないので、この機会に読めれば。

もう一冊届いたのは、牧野陽子著
「時をつなぐ言葉 ラフカディオ・ハーンの再話文学」(新曜社・2011年)。
こちらは、何だか、だいぶ前に新聞書評で読んだような気がします。
そこには、表紙の写真が載っていたので、思い出しました。
定価が4180円で高かったので、新刊購入をあきらめたのでした。
今回の古本での購入価格は2356円+送料250円=2606円なり。

はい。購入して自分のものになると、
つい安心してしまって、読まなかったりします。
せめて、買った際には、こうして記録をします。


あとは、関連で、ちくま文庫の「柳田国男全集13」
古本で347円+送料350円=697円。
ひらくと、ありゃりゃ。p577~p608までが文字が逆さま。
綴じる際の間違いですね(笑)。

うん。このちくま文庫の解説の最後をここに引用しておきます。
解説は、新谷尚紀。

「柳田の学問には
いま誕生したばかりの若々しさがある。
民俗という素材を完全には対象化せず、
深い共感と同情とで接する原始と土着の感性がある。

その科学と思想、学問と情熱の混在したままの
若さこそ柳田の強味でもあり弱点でもある。

そして何よりその仕事がくめども尽きぬ
芳醇なる知の泉でありつづけるゆえんでもある。

柳田の文章は、こんなささいなことでも
学問の対象となるのかと人々をおどろかせては、
学問することの楽しさを教え、多くの人たちを
いつまでもこの学問に招きいれつづけることであろう。」
(p736)

はい。平川祐弘と牧野陽子と、この12月は
どこまで読みすすめられますかどうか。

なあに、棒ほど願えば、針ほどかなう。
でゆくことに。

はい。かなえられなくとも、願うことは忘れまい。
ということで、師走から新年にかけて願をかける。

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はらはらと。ほれぼれと。

2021-12-03 | 短文紹介
月刊「Hanada」1月号。平川祐弘氏の連載は39回目でした。
「一比較研究者(コンパラティスト)の自伝」の今回は、
「私の学生」と題しております。

はい。ここに登場する牧野陽子さんが魅力です。
ここでは、『はらはらと』と『ほれぼれと』の二箇所引用。

「牧野さんが修士論文を提出したとき、私は米国滞在中で、
審査に関係していない。
比較の大学院は毎年10名前後の論文提出から出来のいい2名を選んで、
4月の新入生のガイダンスを兼ねた八王子のセミナー・ハウスの合宿で
発表させた。教授側も1人発表する。・・・・・

1968年の12月、研究室が過激派学生に占拠された時、
難を避けて泊りこんだのがきっかけで、それが
学年度初めの行事として30年続いた。
それが・・比較文学の最盛期であった。

『牧野発表はすばらしかった。
話し終えた時にはらはらと涙が散った』
と芳賀徹が・・私に手紙をよこした。・・・・」(p353)

これが『はらはら』。
『ほれぼれ』は平川氏が牧野氏へと送った手紙に出てきます。

「・・・陽子さまのご遠慮は、一面では慎み深いお人柄ゆえとも
思いますが、過度の引っ込み思案は短所であるとも思います。

芸術的な感性に恵まれた知性豊かな陽子さまのお話を、
私は日本語であれ、英語であれ、いつもほれぼれとして
拝聴している一人です。

アイルランドの旅でも一番印象に残ったのは
陽子さまのお話でした。それは皆さんそう申しました。
いつも私などの思いもつかぬ点をはっきりと掴んで
引き出して指摘なさいます。」(p356)


はい。これだけの引用じゃ、誤解されるような引用かなあ。
でも、とりあえずいいや。

あとは古本で注文した牧野陽子さんの著作数冊。
それが、届くのを楽しみにしております。
うん。本を読むよりも、本を注文するほうが楽しい(笑)。
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自身の中の宝石を。

2021-12-02 | 古典
はい。12月へと踏みこんでしまいました。
今年は月刊誌を読まなかったなあ。

そんな月刊誌に、平川祐弘氏が連載している
「一比較研究者(コンパラティスト)の自伝」がありました。
その12月号では(38回目)、芳賀徹への弔辞が掲載されておりました。
この38回目は、歯に衣着せぬ芳賀氏へのやりとりが楽しめます。
それはそうと、この回の最後に芳賀徹への弔辞がありました。
はい。弔辞から、この箇所を引用。

「・・先年『手紙を通して読む竹山道雄の世界』を編集して、
竹山と一番深く対話した生徒は芳賀だなと思いました。

芳賀は政治色は強く出さないが、
時流を恐れるな、時流から隠遁するな、
時流を見つめよ、時流をこえて人間と世界を思え、
そのために歴史を学べ、古典に触れよ、という
精神の自由を守った人と思います。

そんな芳賀だから自己の感性に忠実に
徳川の文化を生き生きとよみがえらせました。
俳人蕪村、蘭学者玄白、画家由一などに
温かい光をあて、きめ細かく論じました。

自国を卑下せず、強がりもいわず、
仏米からも韓国中国からも古今の日本からも
良いものをとりいれ己れの宝としました。・・・」(p360)

宝といえば、この回の弔辞のまえに
平川祐弘氏は、こう指摘するのでした。

「芳賀は自身の中の宝石を生涯磨き続け・・・・」
(p358・月刊Hanada 12月号)


ちなみに、先頃発売された、1月号で平川氏は
はじまりから、弔辞のことを語っておりました。

「・・私は芳賀徹の弔辞を読んだとき、
私が先に逝ったなら芳賀が私の弔辞を読んだろうに、
と思った。だがその順でなくなった今、
平川祐弘の弔辞は若い人にお願いすることになる。・・」(p346)

「・・私も90歳だ。学生とのつきあいこそ教師の本領だろう。
今回と次回と・・教えた人も、それ以外の人も、
名前をあげ、思い出を書かせていただく。
ただ・・品のいいのも悪いのも一緒くたにする・・・」(p347)

はい。読んでみたい方の本と名前があり、
こちらも、さっそく古本注文することに。


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