夕方、こどもとお菓子作りました。
スタバのレジ横のガラスケースにいつもある、こういうの。
アレルギーで買えないから、作れたらうれしいみたい。
こういうの作ってお茶しよう←妄想
それか、おかんと彼女で一緒に作る?
いやいや、
「オカン、俺らふたりで作るから台所借りていい?
ちょっとあっち行っといてくれ」
とか、言われそう。
お茶も、オカンは部屋に運ぶだけで入れてもらえなさそう。ま、いっか笑
よくいろんな場面で、耳にしたり目にするコレ↓↓
「何かを手に入れるためには、何かを失わなければならない」
私はこの言葉が、若い頃からあまり好きではありません。
なーんかニガテ。確実にニガテ。
今朝、読んでいたものにまたコレが出てきたので
なぜこの言葉が苦手なのか、
この際かんがえてみることにしました。
苦手といいつつも、これは正論だろうと思います。
おおむね事実であろうし、同意でもあるし。
過去を思い返すとそうだったことも多々あったと思います。
にもかかわらず、この言葉に出くわすと
なぜに気が滅入るのか・・・
●まず一つ目の理由。
それは、たぶん・・・
ものすごく単純な理由
下品な言葉で失礼いたしますが「うるせぇよ」に尽きるんじゃないでしょうか。笑
そうかもしれないけれど、
「ねばならない」という言葉は楽しくない♪
もう、人生が大変なのはわかってるから
その上さらにこんな言葉を掲げてどーしますのんー?
●二つ目の理由。
「そうとは言い切れないかもよ?」
「別の方法があるかもよ?」
「失わない、両方大切に守る、そのためには・・・」
と考えていきたい。
そのためには
己のキャパを拡げ、出来ることを増やす。
費やせるものを確保する。
器の大きい人物になる。
精神的に強くなる。など。
たとえ一朝一夕にはいかなくても。
生まれて成長して
キャパがどんどん大きくなってゆき
携えられるもの、出来ること、大切にできることが増える、
それは一般的な喜びでもあります。
「何かを手に入れるためには、何かを失わなければならない」
という等価交換方式じゃないといいな、死ぬまで拡張していきたい。
実際に可能かどうかということより、そう思いたい。
甘いよと、人生の先輩にお説教されるかもだけど。
●三つ目の理由
「そもそも所有していたのかな問題」
何にでも限界はあるので
失う状況になれば、抵抗したところで失うものは失うのでしょう。
そして、失ってずっと後になって
そもそも所有していたのかな?
そもそも所有できていたのかな?などと考え、
何も失ってなどいないような気もして、ふっと明るい気持ちになったりするのかもしれません。
お昼休みにそんなうざったいことを考えながらサンドイッチを食べ。
午後からもがんばろう♪