坐禅をしていると、かならず雑念が浮かんできます。数息観(すそくかん)のやり方で1から数えて10までたどり着く前にすでに雑念がわき上がっています。私が坐禅を始めたのは2012年7月のことなので、もう4年くらい続けてきたことになりますが、完全に呼吸に集中することなんて至難の業です。自分は正しく坐禅ができているのだろうか、坐禅をやってきてすこしは進歩したのだろうか、といつも気にかかります。この、坐禅をしていてわいてくる雑念をどう扱うべきかは、坐禅、ひいては瞑想を行ううえで根幹に関わることのように思われます。では、禅僧たちはこれをどう考えているのか、見ていきましょう。
臨済宗ではどう考えるのでしょうか。
まずは、臨済宗僧侶で作家の玄侑宗久氏の言葉から。「坐禅をしているときは、『何も考えるな』などと言われます。しかし、これがとても難しい。何もすることがないので、つい、いろいろなことを考えてしまいます。いわば、考えないことがいちばん難しい状態で、考えないトレーニングをするわけです。それができれば、どんな時でも習慣的な思考に依らず、優れた直観力を発揮できる、ということなのです。ただし通常坐禅では、何も考えるまいとするのではなく、意識を一つの事柄に集中していきます。そのうちにその一つの事柄も忘れた時間、つまり何も考えていない時間が訪れるのです。」(「『いのち』のままに 心の自由をとりもどす禅的瞑想法」徳間書店、p.52-53)
坐禅は意識を一つのこと(呼吸)に集中していくことで何も考えない状態にするトレーニングだけれど、とても難しいというわけです。とにかく、難しいことは間違いないようです。修行僧が何千時間も坐禅修行をすることで会得できることなのかもしれないません。
玄侑宗久氏は、伝統的な禅宗の枠組みを越えて、脳科学など様々な現代の英知を取り込んで禅仏教を説明するところがおもしろいのですが、別の著書(「禅的生活」ちくま新書、p.114-115)では、「まずは坐禅について、ごく簡単にいうと、『雑念(妄想)をはらう』という意識によって右脳の『意思の座』である前頭連合野が活動しはじめる。詳しいことは省くが、それによって普段は無意識的なはたらきに任されている自律神経系が抑制的にはたらきだすわけだが、瞑想が深まり、しかも雑念をはらう努力が継続していくと、抑制機能はやがて限界に達し、どうもそのとき神経学的な『決壊』が起き、興奮系まで一緒に活性化してしまうらしい。そして急激に入力情報が遮断されるというのだ。これによって生じるのが、さっき述べた『絶対的一者』の感覚であり、禅の『三昧』、あるいは『お悟り』状態ということになる。」と述べています。
どうやら、雑念をはらうという努力をすること自体、意味のあることのようです。前頭連合野が活動しはじめて、自律神経系が抑制的にはたらきだすということです。だから、雑念が浮かんでははらいのける、ということをずっとくりかえし続けることだけでも脳科学的には意味のあることなのかもしれません。
(写真は円覚寺の一般向け坐禅堂「居士林」)
修行僧の坐禅には厳しいものが求められます。円覚寺管長の横田南嶺氏は修行僧に向かって次のように言っています。「坐禅の修行というのは『この心は辺際なき虚空の如くである』と体得することです。…刀を大上段に振りかざして自分の心をかっと見据えて、一念を起こしたら叩き斬るという気合いを持って坐禅をするのです。ネコがネズミをとらえるがごとく、かっと目を見開いて一瞬の隙も見せない。ネズミがちょっとでも動くものならかみ殺すという気迫を持って坐禅をやらなければどうしても、己の煩悩、妄想に引きづり回されてしまう。サムライが真剣をといて相手と斬り合うがごとく、一瞬でも油断をしたなら一刀両断になってしまう。それくらいの緊張感を持って自分の一呼吸一呼吸を貫いていく。」(円覚寺居士林だより、2015年1月23日《武溪集提唱》僧堂攝心「この心は辺際なき虚空のごとし」)
ここでいうネズミとは煩悩や妄想といった雑念のことでしょう。雑念が出てきたら一瞬で叩き斬ろ、というわけです。ものすごい気合を入れて雑念を斬りまくれという激しい檄が飛ばされます。
このように雑念を意識して払いのけていくのが臨済宗のやり方のようです。
臨済宗ではどう考えるのでしょうか。
まずは、臨済宗僧侶で作家の玄侑宗久氏の言葉から。「坐禅をしているときは、『何も考えるな』などと言われます。しかし、これがとても難しい。何もすることがないので、つい、いろいろなことを考えてしまいます。いわば、考えないことがいちばん難しい状態で、考えないトレーニングをするわけです。それができれば、どんな時でも習慣的な思考に依らず、優れた直観力を発揮できる、ということなのです。ただし通常坐禅では、何も考えるまいとするのではなく、意識を一つの事柄に集中していきます。そのうちにその一つの事柄も忘れた時間、つまり何も考えていない時間が訪れるのです。」(「『いのち』のままに 心の自由をとりもどす禅的瞑想法」徳間書店、p.52-53)
坐禅は意識を一つのこと(呼吸)に集中していくことで何も考えない状態にするトレーニングだけれど、とても難しいというわけです。とにかく、難しいことは間違いないようです。修行僧が何千時間も坐禅修行をすることで会得できることなのかもしれないません。
玄侑宗久氏は、伝統的な禅宗の枠組みを越えて、脳科学など様々な現代の英知を取り込んで禅仏教を説明するところがおもしろいのですが、別の著書(「禅的生活」ちくま新書、p.114-115)では、「まずは坐禅について、ごく簡単にいうと、『雑念(妄想)をはらう』という意識によって右脳の『意思の座』である前頭連合野が活動しはじめる。詳しいことは省くが、それによって普段は無意識的なはたらきに任されている自律神経系が抑制的にはたらきだすわけだが、瞑想が深まり、しかも雑念をはらう努力が継続していくと、抑制機能はやがて限界に達し、どうもそのとき神経学的な『決壊』が起き、興奮系まで一緒に活性化してしまうらしい。そして急激に入力情報が遮断されるというのだ。これによって生じるのが、さっき述べた『絶対的一者』の感覚であり、禅の『三昧』、あるいは『お悟り』状態ということになる。」と述べています。
どうやら、雑念をはらうという努力をすること自体、意味のあることのようです。前頭連合野が活動しはじめて、自律神経系が抑制的にはたらきだすということです。だから、雑念が浮かんでははらいのける、ということをずっとくりかえし続けることだけでも脳科学的には意味のあることなのかもしれません。
(写真は円覚寺の一般向け坐禅堂「居士林」)
修行僧の坐禅には厳しいものが求められます。円覚寺管長の横田南嶺氏は修行僧に向かって次のように言っています。「坐禅の修行というのは『この心は辺際なき虚空の如くである』と体得することです。…刀を大上段に振りかざして自分の心をかっと見据えて、一念を起こしたら叩き斬るという気合いを持って坐禅をするのです。ネコがネズミをとらえるがごとく、かっと目を見開いて一瞬の隙も見せない。ネズミがちょっとでも動くものならかみ殺すという気迫を持って坐禅をやらなければどうしても、己の煩悩、妄想に引きづり回されてしまう。サムライが真剣をといて相手と斬り合うがごとく、一瞬でも油断をしたなら一刀両断になってしまう。それくらいの緊張感を持って自分の一呼吸一呼吸を貫いていく。」(円覚寺居士林だより、2015年1月23日《武溪集提唱》僧堂攝心「この心は辺際なき虚空のごとし」)
ここでいうネズミとは煩悩や妄想といった雑念のことでしょう。雑念が出てきたら一瞬で叩き斬ろ、というわけです。ものすごい気合を入れて雑念を斬りまくれという激しい檄が飛ばされます。
このように雑念を意識して払いのけていくのが臨済宗のやり方のようです。
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