ワニなつノート

《この社会は「入試」を利用して15歳の子に何をしているか?》(その11) 


《この社会は「入試」を利用して15歳の子に何をしているか?》(その11) 



《未だ子どもを捨てる国》

「そもそも知的障害って、なんで決められたもの?? 療育手帳の判定? なんでそこを押してくる方が多いのか知りたいです。私ぜっんぜん、分からないんですよね。」

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先日、こんな質問をされて、私が生まれる100年前の話を思い出した。

万延元年(1860年)。幕府は「使節団」をアメリカに送った。

新見豊豊前の守と77人の武士たちが見たものが、160年後のいまに、どうつながっているか。

彼らはニューヨークで「唖院」の見学をした。そこでは7歳くらいの「弟子」たちが、「手容」(手話)で「修行」しているのを生まれて初めて目にする。

そして「始テ花旗国ノ人ヲ捨テザルヲ知ル」と感じる。
(アメリカは人を捨てないということを初めて知る。)

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一方で「救貧院」は最悪の状態で、乳児の80%~90%が死亡していた時代。
本物の「乳児院」でさえ、『1868年の11カ月に収容された1527名の乳児のうち、一年後に生き残っていたのは、わずか80名であった』という状態。だから、子どもが『救貧院に送られることは、生きながら墓地に送られることに等しかった』。

そして1875年に初めて、児童を救貧院に措置することを禁止する法律ができる。(ニューヨーク州)

「貧窮児童および孤児の養護を改善するための法律」
これにより、3歳から16歳の児童を救貧院に収容することは禁止された。


ところが、ここで「児童」と「障害児」が分けられる。

『その児童が教育不能の白痴や、てんかんあるいはまひ患者、あるいは、欠陥、不具、または疾病の者でない場合に限って』と。

「児童福祉」がはじまることで、「障害児」としての「差別」が始まり、そしてまた「義務教育」がはじまることで、「障害児」としての「差別」が始まった。


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日本も同じように、児童福祉と障害児福祉が分けられて始まり、いまも分けられたまま。

そして教育も分けられたまま。「就学猶予・免除」があり、「特殊教育の使命」があった。

【…五十人の普通の学級の中に、…精神薄弱や肢体不自由の児童・生徒が交わり合って編入されているとしたら、はたして一人の教師によるじゅうぶんな指導が行われ得るものでしょうか。
…学級内で大多数を占める心身に異常のない児童・生徒の教育そのものが、大きな障害を受けずにはいられません。
五十人の普通学級の学級運営を、できるだけ完全に行うためにもその中から、例外的な心身の故障者は除いて、これらとは別に、それぞれの故障に応じた適切な教育を行う場所を用意する必要があるのです。】(1961年文部省)


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江戸時代。そして、昭和時代。

「障害児」がどのように扱われてきたか、少しでも調べればいくらでも「分ける」が出てくる。

高校の「定員内不合格」とは、江戸時代の感覚を受け継いだままの人間がたくさんいるということ。


「定員内不合格」を出せる校長の「心性」は19世紀のまま。

『教育不能の障害』があると、今も本気で信じているのだろう。

机も席も先生も余っているのに、「子どもの教育の機会」を奪える、「人道上の良心」のない哀れな校長たち。

そして、2020年3月18日。6歳の子どもに「障害が重い」のだから、黙って「分けられた学校」に行けという、江戸時代の武士のような裁判官もいる。

「日本は未だ子どもを捨てる国のまま」
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