ワニなつノート

障害をもつふつうの子どもの成長(試案)



私たちはよく、「ふつうで過ごしてきた子は、ふつうに見える」
という言い方をすることがあります。
私たちの目が、「ひいき目」だからではなく、
彼らが確かに「ふつうに成長」したのだと感じられるものがあるのです。

それが、どういうものかを説明するのが難しいのですが、
ヒデやこーちゃんが、「ふつうに見える」ようになるには、
その過程をみる目が必要なようです。

「障害」だけを見ていると、その「成長」は見えません。
その「障害」と言われる部分でも、
「本人が成長」した部分と、「変わらない」部分があります。
そして、彼らが「ふつうの子ども」として成長して、
大人になったところも同時にあるのです。

その両方の「変化」が見えないと、
「普通学級で育つこと」の中身はなかなか理解できないような気がします。

ヒデもこーちゃんもたっくんもみんな、
「障害」をもったままの姿は変わらないけれど、
同じような障害のタイプで、「養護学校」を出た子どもとは、
何かが違うと感じられてきました。
むしろ、ずっと障害が軽くて、できることも多い子どもでも、
「ふつうの成長」の面に関しては、
この子たちの方が、「ふつう」だと感じるところがあるのです。

それが、どういうことか、今までよく分からないできました。
仲間内では、確かなことなのですが、
仲間は普通学級で学ぶのが当たり前という人ばかりだから、
外の人には、「こじつけ」のようにしか受け取られないだろうと
思ってきました。

でも、「受けとめられ体験」「里親・里子」というフィルターを通して、
ようやくその意味がはっきりと見えてきた気がします。
もともとあったものを説明できる言葉を、
私がようやく手に入れたというだけですが…。

ふつうに育つと「ふつう」が育つ。
そう、当たり前のことなのです。
障害があろうとなかろうと、養護施設で育つと、
「ふつう」が育たないという面があります。
(大規模の養護施設ではとくにそうです)
そこでは、ふつうの家族、ふつうの家庭がわからないのです。

子どもが小さい時には、
「障害」がふつうを学ぶのを困難にしている面があります。
それを育てようとすることは、特に小さいときは無理無駄なように見えるが、
「膨大な量の観察学習」とその年月とがふつうを育てているのです。

その子の「ふつう」の「成長」を見る視点が、
今までの「障害児」を見る人たちに、
なさすぎたのではなかったでしょうか。

今までの「成長・発達」とは、
どれだけ「障害」が克服されて「ふつう」(定型発達)に
近づいたかを基準にして、「成長」をみる視点しかありませんでした。

養護学校であれ、普通学級であれ、
「成長」「発達」をみる視点がそれしかなかったのです。

しかし、そうではなく、その子の「障害」は「障害」として、
その子の「ふつう」の人としての成長・発達をみる視点が必要なのです。

さて…。
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