ワニなつノート

ここに暮らしています

ここに暮らしています


『はるこい広場』から転載です(^^)v


    ◇    ◇    ◇    ◇


「あ、通学路と散歩の道が一緒だ」と、ある時気づきました。

養護学校時代、通学路と散歩の道は別物でした。通学路は車で40分。途中の海底トンネルは、暗闇を一定間隔で流れるオレンジ色のランプが一層そんな気分にさせるのですが、別世界へ導く通路のようでした。散歩の道は家の近くなので、歩いていてもharuを知る人にほとんど会うことはありませんでした。


T小に転校して初めての冬休み、通学路を含めた道を散歩していると、三ヶ所で友達に会いました。
「haruくーん」
「こんにちは。何しとったの?」
「えっとぉ、みんなで遊んどった。haruくんは?」
「散歩しとった」
「ふ~ん。haruくん、こちょこちょこちょ。
…今日はあんまり笑わんね。じゃあね~」
「またねー」

そんな時でした。「通学路と散歩の道が一緒だ!」
私は世紀の発見をしたかのように興奮しました。
「養護学校時代、haruはここに住んでいたけど、暮らしてはいなかったんだ…」

冬休みのまたある日、神社へ散歩に行きました。先にキックベースで遊んでいる子どもたちがいました。haruに気づいて話しかける子もいましたが、ほとんどはそのまま遊んでいました。

その時に養護学校時代と違ったのは、「誰、この子?」という視線が無いことでした。みんなharuのことを知っているからです。

神社の前にはスイミングスクールのバス停があって、近所の友達がバスに乗っていたので、haruと手を振っていたら、その友達以外の私が知らない子も手を振りました。haruはここに暮らしているだなぁと私は実感して、じわわわんとなるのでした。

居住地で「誰、この子?」という視線を浴びるharuのさみしさ。そんな我が子を見る親の辛さや兄弟の複雑な心境。その辛さを無理矢理胸に押し込めて、ニコニコ生きる悲しさ。

通園施設時代、養護学校時代、その苦しさは誰にも伝えられませんでした。そこにいる先生も保護者も、社会の人を信頼することなく、分けられた場所で過ごすことがharuの幸せだと疑いもなく思っていたからです。

苦しさから救ってくれたのは、「障害」の専門家ではなく、「haruがここにいることは何の不思議でもない」という周りの、特に子どもたちの意識でした。

そして、その意識や視線の変化をもたらしたのは、ここで暮らしたharu自身でした。「haruの見え方」が変わったのは、haruが変化したからではなくて、周りが変化したからでした。かつて、haruが地域の学校に入れなかった時の問題は「haruの能力の無さ」ではなく、「haruを対等に見ることができないこちらの能力の無さ」にあったのではないでしょうか。

私にはまだわからないことがたくさんありますが、この9ヶ月でわかったこともたくさんあります。それは、haruが地域の学校に通い、ここで暮らさなければ一生わからないことだったと思います。

haruと関わってくださる方がここで彼と具体的に過ごす中で、「どうすることがここでみんなと対等に暮らしていくことなのか」を、一緒に考えていただけたらとても心強く思いますし、私たちはそんな「特別でない支援」(本当は「支援」という一方的なものではないのですが)を望んでいます。haruの周りが、子どもたちの周りが、この町が、やさしさで溢れてほしいと願います。
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