ワニなつノート

コータ (花)





毎年、新しい子どもたちと出会うのが当たりまえだった仕事から離れ、
毎年、春になっても、また春になっても、
子どもたちと出会うことはなくなった。
そうして年を重ね、分かってきたことがある。

私が学校や児相にいたころの記憶の中で、
今も一番、心の中に居続けている子どもたち。
H、Y、YU、H、…クソガキのベスト10。
K、M、MI、E、S、…仲良くなった子どもたち。
不思議と、今も気がかりな子どもたちがいる。
その時々の場面を、昨日のことのように思い出すことがある。

もう春になっても、ここに咲く花はないと思っていたら、
気がつくと、「花が咲いている」。
子どもたちとのいくつかの場面が、繰り返し、季節ごとに花をつける。
もう子どもたちと過ごす日々はないかもしれないと思いながら、
自分の残り時間を、繰り返し、豊かにしてくれているのは、
子どもたちと過ごした時間だった。

そして、いちばんよく咲く花のいくつかは、最悪の出会いだったり、
ダイッキライだったクソガキたちの花だ。

それは、若いころの私が、大嫌いだったり、迷惑だと感じたり、
いなくなればいいと思ったことのある子どもたちだった。
あんまり迷惑だから、強引に関係を作らされてしまった子どもたち。

そして、いやいや付き合ってあげているうちに、
いつしか「関係」ができた子どもたち。

手がかかる子どもとの関係。子どもに迷惑をかけられること。
それは、子どもが「主体」となって、何かを訴えていることだった。

一つ一つの本当は避けたい場面、逃げたい場面で、
でも、いやいや逃げられなくてつきあって、
そうして初めて気づかされたことたち。
そのおかげで、わたしは少しづつ大人になれたのだった。

少しは子どもの声を聞けるようになれたのは、
彼らのおかげだったと、今になってわかる。


「迷惑」とは何か、と思う。

親や教師は、子どもとつきあうのが幸せだったり、
仕事だったりするのだから、

子どもに迷惑をかけられることも、
子どものそばにいられる幸せの内だと思う。

「迷惑なこと」「余計なこと」「じゃまなこと」「非常識なこと」
そんなふうに受け取られる表現の不器用さは、
子どもの問題だけでなく、
わたしの受け取り手としての不器用さでもあったから。

相手の問題をいうとき、
私の問題もいつも問われる。
問題には、いつも「子どもとわたしの関係」があるのだから。

「迷惑」という言葉が誤解の元かもしれないな。
「迷惑をかける」というから、ギスギスする。

「面倒をかける」といえば、少しは和らぐだろうか。

「面倒をみる」「世話をする」
そう、ケアというのは、子どもと付き合う大人の努めの一つだから。

お年寄りが「迷惑かけてすまないねー」という時、
「そうよ、人に迷惑をかけちゃダメでしょ。
子どものときに教わらなかったの?」
そんなふうには言わない。

「面倒かけてすまないねー」
お年寄りがそうつぶやくとき、
「そんなことないよ。ちっとも面倒なことなんてないから」
「何言ってんのー。お互い様でしょ」
そんな言葉を、わたしはうれしいと思う。

「泣くこと」「怒ること」「すねること」「かみつくこと」
そんな表現でしか、自分を伝えられない子どもたちにも、
そんなほっとすることばがあるといい。

「わたしも子どものころ、
そんな不器用な表現しかできないことがあったな。
でも、そのわたしを受けとめてくれた先生や友だちがいた。
だから、今度は、わたしがあなたを受けとめるよ。」

「迷惑? 何言ってんのぉ~、子どものくせにぃ!(・。・)」
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