新宿御苑にて
最近「親ガチャ」という言葉をよく聞くようになった。どんな親のもとに生まれるかを選ぶことができないにもかかわらず、どんな親のもとに生まれたかで人生が決まってしまうという意味である。
確かに、今この世界で、裕福な親、頭のいい親、人脈を持っている親、優しい親、そんな親のもとに生まれたら、きっといい人生が待っているだろう。反対に、貧乏な親、頭の悪い親、人脈のない親、暴力的な親、偏屈な親のもとに生まれたら、厳しく、そして絶望的な人生が待っている可能性は高い。
また、「親ガチャ」には遺伝子を通じて受け取る「性格」や「能力」も含まれる。生まれながらに持っている性格や能力がそのときの社会環境に適していれば、親の財力などは別にして、その社会で成功する可能性は高い。だいたいにおいて、「親ガチャ」で「よい親」として評価される親はその世界での成功者である。だからその親の性格や能力はその世界に適しているわけである。ということは、遺伝子を通じて受け取るその子の性格や能力もその世界に適していると言える。よく「努力は誰にでもできる。みじめな生活をしている人間は努力が足りないからだ」と言う人がいる。しかし、努力ができる人かどうかもひとつの「性格」である。つまり遺伝的なもの、親から受け継いだものである。やっぱり「親ガチャ」なのである。
なお、親とはまったく異なるように見える性格や能力を持って生まれてくる人もいる。遺伝的性質も遺伝子の変異によって変化することがある。親は立派な政治家であっても、その子供や孫は凡庸で、子供っぽい頭しか持たず、周りに利用されて、国を危うくするような政治をする場合もある。その逆もある。しかし、親とはかけ離れた性格や能力を持って生まれてくるということは稀である。だから「親ガチャ」は一般性を持っている。これは認めざるを得ない事実なのである。
だが、問題は「親を選ぶことができない」ということではない。これは受け入れざるを得ない当然のことである。問題は「どんな親のもとに生まれたかで人生が決まってしまう」ということである。この問題は社会の問題である。もし、親の財力などとは関係がない別のかたちで人が評価され、それぞれの能力に応じて社会内での役割が決まるような社会があるとすれば、「親を選ぶことができない」ということに問題はない。
人類の歴史を見たとき、スティーブン・ピンカーが言っているように、社会は暴力が支配する理不尽な状態から、少しずつではあるが、多くの人々にとって生きやすい世界になってきている。「親ガチャ」からくる絶対的な不公平も社会的に緩和されてきていると見ることができる。暴力や絶対的な不公平を受け入れられない人々の反抗と努力がそういう歴史を作ってきたのだろう。誰も何もしないのに自然にそうなってくるわけがない。
ただし、一直線によくなってきたわけではない。後退するときもある。長い時間で見たときによくなってきているということである。前進したり後退したりしながらよくなってきているのである。では、いまはどうなのだろう。後退期にあるように見える。いま世界を支配している資本主義経済は人間の能力を補助する、あるいはより強力なものに置き換えるさまざまな道具(人殺しの道具も含め)を生み出すきっかけになり、この世界が物質的に豊かになるのを助けた。
しかし、資本主義経済は本質的にマネーゲームである。商品を介してより多くのお金を得る、お金を貸して利子を得る、投資をして配当を得る、つまり、投下したお金より多くのお金を回収することを目的とし、人の生活、命にかかわる経済活動を利用して、さらにお金を増やすゲームである。世界中の人々がそのマネーゲームのルールで動いている。動かされている。勝者たらんとして競争している。競争なのだから必然的に「勝ち組」「負け組」が生まれる。「負け組」には罰として困窮生活が与えられる。つまり、このゲームは、より多くの人々を幸せにするためのゲームではない。敢えて言えば、「勝ち組」だけが幸せになれるゲームである。モノポリー(人生ゲーム)は、これを疑似的に表したゲームである。
ただし、モノポリーは平等な条件でスタートするが、現実のゲームでは、「親ガチャ」でハズレを引いた99パーセントの人々は、まず生活をするためのお金を得るために働くことからスタートする必要がある。しかし、得られるお金=賃金はほぼ生活費として消える。労働者に支払う賃金はその労働者の生活費として、明日も、その後も、同じように働ける体力を養うためのものとして支払うのだから生活費として消えて当然である。年老いて働けなくなる前に、つぎの労働者を用意しておく必要もあるので、結婚して子供をもうけ、養う費用も必要だろう。人を働かせてお金を儲ける側から見れば、儲けたお金で、現状の従業員に2倍の賃金を支払うより、従業員を2倍に増やしたほうがより多く儲けられる。新しい設備を導入し、生産力を上げ、競争力を高める必要もあるだろう。生活費以上に支払って余裕を持たせれば、休まず継続的に働かせづらくなるし、辞めて、起業などされれば新たな競争相手を増やすことにもつながってしまう。だから、「ハズレ組(「親ガチャ」でハズレを引いた99パーセントの人々)」が、人を働かせたり、お金を貸したり、投資をしたりする側に回ることは困難になっているのである。
また、かつては、お金を増やすのに植民地が大変役に立ち、植民地の獲得競争が起こり、世界中を巻き込んで戦争にまで至った。結果として多くの人々が死んだ。このゲームの中ではこんなことも起きるのだ。「親ガチャ」で当たりを引いた1パーセントの人々で構成される権力者たちはいまでも言う。「防衛のための兵器が必要だ」「防衛のために先に敵を攻撃することが必要だ」「もっともっと兵器が必要だ」それが事実とするならば、殺し合いも厭わないゲームはまだ続いているのである。なお、すべての戦争は防衛のためとなっている。先に手を出す(敵の基地を攻撃する)のも防衛のためということになっている。そして、実際に戦い、死ぬのは権力者たちではなく、「ハズレ組」の人々である。戦わなければ後ろから撃たれる。権力者たちは、安全な所から指揮をすること、後ろから撃つことがその役割となっている。
このゲームでは、あらかじめ大きな資産を持ち、このゲームに適した能力を持っている人が圧倒的に有利なことは言うまでもないだろう。つまり、「どんな親のもとに生まれたかで人生が決まってしまう」という問題は見向きもされず、そのままになっているのである。幸運の星のもとに生まれた約1パーセントの人々は、勝ち組として大きな成功が約束され、少なくとも物質的には満たされた生活を送ることができる。一方、不幸な星のもとに生まれた約99パーセントの人々は、負け組としてつらい人生を送ることになっているのである。
自称「現実主義者」は言う。「これが現実なのだから、いくら理不尽であってもその中で適応しながら生きるしかない」と。このルールのもと、恵まれた1パーセントの側の人がこのルールを守るために言うのならわかるが、反対側の99パーセントに属しながらこう言う人が多い。いつかは自分も1パーセントの側に入るぞということだろうか。しかし、この資本主義のルールは人類の歴史(現生人類はおよそ20万年前にアフリカで誕生したと言われている)の中で、たかだか200年くらい前から一般化してきたに過ぎない。それが99パーセントもの人々を幸福にしないルールであるなら、新しいルールを模索し、実現する試みをしていけないことなどないはずだ。それぞれの人は、いまそこにある現実の世界からしか出発はできない。だが、自分自身が理想とする世界、「親ガチャ」によって99パーセントの人々が不幸になってしまうことのないような世界を「想像」し、まだ現実にはなっていないその世界の実現に向けて行動することはできる。実際にそうしてきた人々がいたからこそ、少しずつよくなってきたいまの世界があるのだ。こんなコラムがあった。「私たちには「資本主義の道しかない」って本当?」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/90047?imp=0)
また、理想の世界というものはどこかの時点で実現して完了するというものではない。あるレベルの望ましい社会を実現しても、そこにまた新たな問題が生まれる。そしてその問題を解決してゆく、その繰り返しによってよりよい世界になってゆく。ただ与えられたそのときの状況に適応し、流されるだけの現実主義は受け入れがたい。これは科学に似ている。科学というものは、この世界がどうなっているのかを明らかにする学問であるが、科学によって何かが明らかになり、新しい視点を人類にもたらすと、その視点からまた別の地平が見えてきて、新しい探求が必要になってくる。その繰り返しである。
現実には、極端な格差が99パーセントの人々に耐えがたいほどの生活苦を強いることになると、1パーセントの人々に対する敵意が増大し、社会不安を引き起こし、1パーセントの人々にとっての脅威となってくる。そうなると、格差を緩和させようという動きが出てくる。社会保障、社会福祉政策の導入である。その政策の本質は1パーセントの人々がその有形無形の力で獲得する富の一部を99パーセントの人々に分け与え、不満が大きくなりすぎないようにすることだと言える。問題を引き起こしているマネーゲームそのものには決して目を向けない。ところが、余裕がなくなってきたのか、最近、「自己責任」が叫ばれるようになってきている。「自己責任」というのは、それすら与えたくないという意味である。99パーセントの人々が貧しいのは社会の責任ではない、社会のせいにするな、自己責任だ、甘えるな、自分で何とかしろと言っているのである。
「自己責任」という言葉は、新自由主義の台頭と共に喧伝されるようになったものであり、それまでの社会保障、社会福祉政策をとる余裕がなくなってきたイギリス(サッチャーの登場)、アメリカ(レーガンの登場)が主導した「小さな政府」政策から生まれた言葉だと言える。日本では中曽根内閣が登場し、電電公社、専売公社、国鉄などの民営化を推進していった時代である。
新自由主義には、大きく2つの意味がある。1つは、政府があれこれと口出しするな、自分たちを縛っているいろいろな規制を取り払え、もっと自由に儲けさせろ、国が管理、運営している儲け口を自分たちによこせ(民営化)という意味である。「働き方改革」という名の「働かせ方改革」は、もっと自分たちが儲かる働かせ方、法律の規制(労働者を守るための規制)によりできなかった働かせ方をしたいという要求に応える改革である。以前にも述べたが、労働者がその意志で、働く時間を自由に選んだり、転職をしたり、自分で仕事のやり方を決めたりすることを禁止する法律など存在しない。「働き方改革」と言うならば、労働者がそういうことをしても不利益を被らないようにするべきなのだ。
もう1つは、社会保障、社会福祉などの目的で政府に自分たちのお金を取られるなんて嫌だ、お金を使うならもっと儲けるために使いたいという意味である。能力もなく、努力もしない連中を養うために、どうして自分たちのお金を使わなければならないのかという不満である。表向きは、いま企業は世界的な競争の中で大変な状況にあり、その競争に勝つためにはお金が必要であって、労働者やその他の困っている人たちに回す余裕などないということになっている。しかし、大企業はこのコロナ禍の中であっても史上最高益を更新し、内部留保を膨らませている。それにもかかわらず、熾烈な競争があるため、人々を幸福にするためにお金を使うことはできないのが本当であれば、また、そのために貧しい人々が増えているとすれば、それはこのシステム(このマネーゲーム)そのものに根本的な欠陥があるということを証明していることになってしまう。
新自由主義が前面に出てきたのは、先に述べたように資本主義経済に陰りが見えてきたということを示している。経済成長が続き、先行きも明るい時代には余裕もあって社会保障、社会福祉政策も推進される。かつてイギリスの政策を評して「ゆりかごから墓場まで」という言葉があった。生まれてから死ぬまで国が面倒をみてくれるという意味である。しかし、成長が行き詰まり、そんな余裕がなくなってきて先行きが不透明になると、労働者を守るためのいろいろな規制が邪魔になり、また、貧しい人々を支援するためのお金も節約したくなってくるわけである。そこで規制改革や自己責任が叫ばれ、自分たちの自由を束縛する規制の撤廃、社会保障、福祉の見直しが要求されるようになる。
このような中、「親ガチャ」の引き起こす矛盾が顕在化し、はずれを引いた99パーセントの人々の中に2つの方向の意識が生まれてくる。1つはあきらめの意識である。なにしろ1パーセントの側は、ルール(法律)はあっても、財力、権力でそれを変え、自分にとって有利なルール(法律)を作ることができるし、邪魔者を排除できるルール(法律)を作ることもできるし、人事権を使って警察官、検察官、裁判官を操れば、法律違反をしても罪を問われなくすることができるし、マスメディアを所有しているので国民のマインドコントロールができ、政策を決定する人を選ぶための選挙もコントロールできるしということで、どうあがいても無駄だという意識である。
もう1つは、「こんな世界はイヤだ!何とかして変えたい!」という意識である。実は、この後者の意識が人間の社会を少しずつよくしてきたのだ。繰り返しになるが、スティーブン・ピンカーが『暴力の人類史』でそれを証明している。この事実をないがしろにすれば、先には地獄しか見えない。
『文学部の逆襲 ――人文知が紡ぎ出す人類の「大きな物語」』(波頭 亮)という本で、現状の日本の惨憺たる状況を救う可能性があるものとして、AIの進化が挙げられていた。少し楽観論すぎるように思われた。AIについては、2018/08/13のブログ「シンギュラリティ」で述べていることだが、AI技術の研究、開発を推進する力(人と資金)を、自己の権力と利益を最大化することを目的とする勢力が握っているとすれば、「最大多数の人の幸福」がAI技術の研究、開発目標の最上位に置かれることはないだろう。容易に想像できるのは、人の監視、管理の技術がいっそう進歩するだろうということである。
もっと別の問題もある。2016-04-04 19のブログ「ロボットと資本主義経済」で述べた問題である。仮にAIとロボットですべての生産ができるようになるということは、資本主義経済における富の源泉である労働者が不要になるということだ。労働者は支払われる賃金より多くの価値を生み出す。その価値が資本家に儲けとして入る。賃金は生活費であり、労働者が作り出した価値に対する分け前ではない。その生活費に相当する賃金を支払えない人は経営者にはなれない。生活費以上に支払える余裕があっても、それ以上に支払う必要はない。賃金と労働者が作り出す価値とは関係がないのである。もちろん、経営者にとって、賃金以上の価値を作り出せない労働者は邪魔者でしかないが。一方、労働者は賃金を得られなくなれば生活ができなくなる。資本主義経済のもと、労働者は働いて賃金を得、それで商品を買って生活をすることになっている。つまり、労働者は、AIとロボットによって仕事が奪われると生きてゆけなくなってしまうことになる。
それに対し、資本家の側は、商品の買い手を失ってしまうことになる。買い手のほとんどは労働者であったが、賃金を得られなくなった労働者は買えなくなるのである。資本主義経済のもと、商品は売るために作られる。売って、その商品のために費やした価値よりも多くの価値を回収するのがこのシステムの基本中の基本である。テレビや新聞で、メディアで、ネットで、街角で、見るもの聞くものそのほとんどが「買って!」「買って!」「買って!」という叫びであることに気付けばそれはわかるだろう。その買い手がいなくなるのである。AIとロボットを所有する人は、自分のためにAIとロボットに作らせて、自分で使うということも考えられる。もう何かと厄介な労働者は不要なのだから。そこで究極の選択が生じる。一つは、不要なものは排除する、死滅させる、あるいはおもちゃにでもするという方法、もう一つは、AIとロボットによって作られたものをすべての人に分け与えるという方法である。いずれにしても、資本主義経済は成立しなくなる。
AIとロボットを進化させるのはよいが、この問題を避けては通れない。いずれ、AIとロボットは自分自身を自己複製し、自分自身でよりよいものに改良できるようになる。AI自身が、この地球上のすべての環境を最適化することを考え始める。そのとき、AIは「人間というこのやっかいなもの」について、どう考えるのだろう。どうして「人間」を生かしておく必要があるのだろう、限りある資源の無駄遣いではないか、と考え始めるかもしれない。資本主義経済のもと、コストカットの原理の徹底的な追及で、労働者を不要なものにしてしまうのと同様に。
最後に、テレビやネットなどで、現政権を擁護し、現政権を批判する人たちを「批判ばかりしている!」と言って批判ばかりしている人たち、また、歴史を歪曲したり、社会的立場の弱い人を誹謗中傷したり、人種差別的発言などを繰り返したりしている人たちを見ていて思うことを少し。
彼らに何かを言おうなどとはまったく思わない。彼らは自信を持っている。「俺は頭がいいから、どんな相手も論破できる」という自身である。「論破」とは論理的に議論し、相手を打ち負かすという意味である。確かに、そういう能力を持っている人もいる。しかし、忘れてならないのは、「間違っていることも論理的には正しく主張できる」ということである。もちろん、上記の彼らがいつも論理的に正しく主張しているわけではない。彼らの多くは、論理的な矛盾を指摘されても、嘘や詭弁や論点ずらしによってはぐらかしをするという種類の人間である。誤りを指摘されたとき、それが当たっていたら認め、訂正するという誠実さなど持ち合わせていない人たちである。だから、どこまで議論をしても終わらないのだ。
とにかく、大切なことは、その人がいったいどんな社会を望んでいるのか、どんな社会で生きてゆきたいと考えているのかを聞き取ることだろう。流ちょうにしゃべることは説得力を増すが、より大切なのは、「自分自身がどんな世界を理想としているのか」というその内容だろう。たとえば、「親ガチャ」でハズレを引いた人々でも幸福に生きられる世界、そんな人々のことなどどうでもよく、自分自身がたまたま引き当てたその幸運(親の財産や親から受け継いだ能力)を最大限生かせる世界、先に紹介したコラムにある「だれも暴力をもって服従を強いられることなく、対等に、たがいを尊重して生きられる自由な世界」、また、冒頭の方で述べた、親の財力などとは関係がない別のかたちで人が評価され、それぞれの能力に応じて社会内での役割が決まるような世界、いろいろな理想世界像があるだろう。論破を誇り、メディアが重宝にしていてテレビなどでよく見かける人がいても、その主張している内容が自分にとって受け入れがたいものであれば無視した方がよい。彼らと真面目に向き合おうとするのは時間の無駄であり、その時間を自分のために使った方がずっとよい。彼ら自身が言っていることは「俺と議論などしても無駄だよ。頭がいい俺が勝つに決まっているから」ということなのだから。
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