侘寂菜花筵(わさびなかふぇ)

彼岸の岸辺がうっすらと見え隠れする昨今、そこへ渡る日を分りつつ今ここを、心をこめて、大切に生きて行きたい思いを綴ります。

あれから50日、あの時私は

2011-05-01 22:15:10 | Weblog
  創業者の吉田俊男氏はホテル界の既存の常識や因習にとらわれない独創的なホテルづくりをした方なのだそうだ。
 

   吉田は委託業務を嫌い、インスタントを嫌った。掃除も配膳もホテルの社員が行う。
   「温かい、でしゃばらないホスピタリティ」をこころがけたのだそうだ。
   今でもこのホテルを定宿として愛用する文化人は多いらしい。
    その創業者の哲学を守り、今も小さいけれど目の行き届いた上品なホテルであり続けている。

 
   確かにその事は地震後の対応にも如実に顕れていた。

   しかし、私はそこに止まることはできなかった。

   携帯はどこにもつながらず、不安はつのる一方だった。

   とにかく帰ろう。ホテルの前に一台のタクシーが。まだ揺れる最中だったけれど
   88才の義母を一人にしてはおけない、今頃どうしているだろうかと思うだけでも
   胸が張り裂けそうだった。

   運転手さんに事情を説明すると、彼は心中を理解してくれて、靖国通りを走りに走り、
   京葉道路から右折して四ツ目に入り、新大橋通りの手前まで、概ね30分で到着してくれた。
   家に駆け込んだ時、義母は都市ガスが止まってしまった中で毛布にくるまっていた。
   
   その顔をみて、心がへなへなしそうだった、、無事でよかった、どれだけ安堵したか、、

  それから二週間、3/27の銀座デモまで、家に引きこもった。

   こんなに日常の暮らしを丁寧にしたことは無いぐらい手間暇かけた生活をしたような気がする。

  掃除も洗濯も料理にもタップリ時間をかけた。何かしていないと気が休まらない。その間も
  余震があり、その都度あの時の不安がよぎり、せつなくなった。

  布草履を何足も編んだ。 編んでいると心が落ち着く。無心で編んだ。
  このことが出来てヨカッタと思った。

  昔のように囲炉裏の端で家族が寄り添って一つの灯を見つめながら暮らしているような
  そんな穏やかさも一方ではあった。

  何もかもが中止になり、家の中で暮らしを大事にする時間がタップリあったのだ。

  こんな貴重な時間をこの地震はもたらしてもくれていたのだ、、と言うことに今振り返って気づく。

 しかし、被災地の方々にその安寧はない、津波と共に洗いざらいうしなってしまった。
 マイナスからのスタートだ。

  今でも、見つからないご遺体もあると聞く。胸が潰れる思いだ。 
 現地に行った人でなければ解らない言いようのない惨状を聞くとき、うなだれるしかない。

 しかし、若い人たちは今、冬水田んぼをよみがえらせるべく、気仙にとんだ。
 田んぼの中には様々な生き物が生息していたそうだ。

  ウレシイ!どじょっこだのふなっこだのてんじょこっはれたとおもんべな~
 の光景が目の前にひろがり、心が救われる思がした。

  塩害にもまけず、土中では生き物たちが元気に遅い眠りから目覚めたのだ!
 ソウダ!こうして蘇生していくのだ、、

 ユックリ、じっくり、手間暇かけていくのだ。




  

  

  

  

  

  

 タクシーの中から外を見ると、建物の中から大勢の人々が出てきていて、ビルそのものが﨑に揺れている様が見えた、、

  

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