侘寂菜花筵(わさびなかふぇ)

彼岸の岸辺がうっすらと見え隠れする昨今、そこへ渡る日を分りつつ今ここを、心をこめて、大切に生きて行きたい思いを綴ります。

フリーダ・カーロは奔放なのではない!

2011-02-11 15:37:33 | Weblog
  おおお~~
 フリーダカーロ!お懐かしいでございます。

 カーロに関する講座があったのですね。

 彼女の生涯をたどるとき、何とも言えない痛みの感 覚がともないます。
 映画も観ました。
 色彩学校の末 永 蒼 生 (すえなが たみお)氏が
 ディエゴ・リベラとカーロに注目していて
 今から20年以上も前にフリーダの画に接する機会が あり
 それ以来、彼女は私の中にすみついています。
 映画は彼女の再来をおもわせるかのようにのりうつっ たような演技でした。

 彼女の表現はある種治療的要素が濃いように思いま す。
 描かずにはおれない、描いていないと彼女の魂はかが やけない
 彼女の中でたぎる怒り悲しみ畏れ悔しさそれらのる つぼから
 絞り出されてくる表現、、
 だからみているとイタイのです。
 でも凝視せずにはおれない。
 彼女のあの強い目差しに、射すくめられたような心地 になりながら
 画を凝視せずにはおれない、そんな
 不思議な時間が経過するのです。

 どうしても、ディエゴにひかれてしまう、
 幸せとだけは言えなかった結婚生活、、
 声にならない嗚咽がきこえてきそうです。

 声にならない嗚咽ほど深いものはないのです。

 時折そんな嗚咽をもらしたくなることがあり ます、、、、、

  と、真面目にお返事をしたのに、 


 「トロッキーや
 イサムノグチとの奔放な関係にも関心があります。

 一方、ディエゴはあの壁画に込められた、メキシコ人
 の苦難と栄光の歴史を描いた努力に全く心を打たれました。
 国立宮殿の壁画の前には、ずっと立って眺めていたい
 と思いました。
 フリーダの妹に手を出すところも人間的かも?」

 なる返事にきっ!となるわたしでした、、

 ディエゴの壁画はう~~ん、です、が

  人間的などと抜かしてそれを免罪符にするような
 姿勢には違和感がある。

  と言うわけで、私からの返事は

 「 妹にのくだりはゆるしません。

 カーロは奔放なのではなく、夫から受けた屈辱
 をそんなかたちでしかはらせなかったのだと思いま す。

 ディエゴに自分だけを見つめて欲しい、彼女の
 大きなゆりかごでいて欲しい、私の海で
 わたしの羊水でいて欲しい、、
 そんな声にならない願望を
 屈折した形で表現していたのです、、キット

 女性の行動には必ず感情がつきまといます

 肉体のみで行動するのではないのですからねっ! キッ!」

  というわけである。


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