侘寂菜花筵(わさびなかふぇ)

彼岸の岸辺がうっすらと見え隠れする昨今、そこへ渡る日を分りつつ今ここを、心をこめて、大切に生きて行きたい思いを綴ります。

ズタボロ、視覚文化論レポート何とか今朝投函

2009-09-04 22:23:56 | Weblog
「芸術研究9(視覚文化論)」スクーリングレポート

テーマ
     坂東玉三郎演出、出演「海神別荘」の分析
 はじめに
第一章 坂東玉三郎演出・出演「海神別荘」
 おわりに
   
 はじめに
 嘗て私は上野の東京国立博物館のミュージアムショップで働いていた。そんな訳で年に数回開催される展覧会や常設展示を見る機会には恵まれていた。
 が、文字通り見たという行為だけでそこから「意味」を「読む」には至っておらず何か物足りない空虚さが常に澱のように沈殿していた。
 ましてや21世紀の今日、芸術の世界は刻一刻、多様な展開をしている。これは絵画、これは彫刻、これは陶磁器、と言ったように、ジャンル分け出来るものばかりではない。 
 そのように、そのものの前に立つと如何していいのか解らず、どぎまぎしてしまうものが日ごとに世の中にあふれていき不可思議、不可解は募るばかりだ。
 東京国立博物館に展示されているものたちは、それらの不可思議なものたちと引き比べてみれば意味を読めないまでも、まだ解る範囲内にはある。
 その不可思議、不可解な世界が多少なりとも「意味を読んでわかるようになる」のではと「視覚文化論」の講義を受ける事にした。
 大変に刺激的で沢山の未知との遭遇があり、視界が開かれる思いがした三日間だった。咀嚼し、血肉化するまでには到底至れなかったが、授業そのものがビジュアルアートだった。
 これまで私の中で意識的に、無意識的に築いて来た概念がもろくもがらがらと音をたてて崩れて行くような感覚も味わい、文化の世代交替とはこのようにして進行していくのだろうか、というような予感すらした。
 これまでの価値概念に縛られた見方だけではなく、視覚イメージを批判的に読み解き、身近な視覚表象の分析を試みることで、「見る」ことへの多層的な理解を深める事が出来るかどうか、はなはだ不安ではあるが、何とかかじりついてみたいと思った。
 早速、不可思議の殿堂、東京都現代美術館に行ってみた。がしかし、体はうらぎれないというか、ふらふらと入ってしまったのは「メアリーブレア展」だった。意味が読めて解る世界を確り2時間近く堪能してしまった。それから不可思議な展示に向かったのだが、残念なことにほとんど時間が足らず、解らなさとじっくり向き合うゆとりすらなかった。
 伊藤公象の「秩序とカオス」は沈黙しているようで饒舌な印象だったが、そこから「意味」を読みたいという情熱を引っ張る事はできなかった。
 次にヤノベケンジの「ロッキングマンモス」の前に立ってみた。何故か心地良い、マンモスの背中に於いてある籐製のゆりかごからきゃっきゃっと喜ぶ赤ん坊の笑い声が聞こえてきそうだ、赤ん坊を子守りするマンモスという意味にも読める。さらに奥では「夏の遊び場」が展開されていた。それぞれのコーナーはテーマをもっていた。西洋美術の名画を自らが、画中の人になりきる事で見る人から見られる人になり、絵の中からこちら側の観者を凝視するという逆転現象が引き起こす軋み。その軋みはかつて西洋美術をありがたがる風潮に対して笑いを引き起こす事で肩の力を抜かせるという効果を生んでいる。が、すでにこの手法は古典的でさえある印象を受けた。
  閉館までの20分足らずではとても不可思議の森の奥深くには至れず、その前に立つと、解らなさでいたたまれなくなる視覚表象の目前まで到達できなかったのだ。
 それなら気分のよくなるヤノベケンジを取り上げようかと思ったが、私にとってそれはやはり、身じかな視覚表象ではなく、とりあげさせていただくには、はなはだ恐縮するような距離感がある。いわゆる今時でいうビジュアルアート作品というくくりの中にヤノベケンジなら入るだろうし、だれもがビジュアルアートと言っても納得してくれるかもしれない。だがしかし、「ヴィジュアル・カルチャー入門 美術史を超える為の方法論」 には20世紀末におけるヴィジュアル・カルチャーの領域を図示しているが、それはもう多岐を極めている。その中には上演芸術も入っている。あまりに無謀きわまりない選択かもしれないが、やはりもっとも距離感のない身近な視覚表象の分析を試みる事でこれまで、なおざりにしてきた「見る」ことへの多層的な理解を深める手がかりとしたいと思った。
 そこで、私にとって最も親近感のある歌舞伎という上演芸術を取り上げてみた。
2009年7月歌舞伎座さよなら公演昼の部で上演された「海神別荘」 を論じる事とする。

第一章 坂東玉三郎演出・出演「海神別荘」

 歌舞伎は視覚表象としては最たる物かもしれない。見る、見られる関係の中でこれほどうってつけの物は無いのではないかと思う程である。
 殊の外そう感じたのは美術史家「パノフスキー」 の形式主義的なアプローチを修正する方法として1939年に著された論文によってである。
 このパノフスキーの三つの段階のアプローチであるが、表面的な見かけから深層の理解へと向かう動きーこのアプローチはまさに、玉三郎演出の「海神別荘」を「見て」、「読む」プロセスにピッタリな印象を持ったからである。
 パノフスキーのこのアプローチは絵画を対象にして論じていたのであろうが、歌舞伎に当てはめてみると第一のレベルはまず幕があき、舞台全体、すなわち見える世界を理解する事から始まる。
 場内が暗くなり、ハープの音が聞こえてくる。幕が開くとそこは海底深くにある「琅かん殿」、宮殿を思わせる太い柱、舞台中央に於かれたテーブル、すべてが海底である事を想起させるロココ調の装飾で飾られている。そこに侍る侍女達の衣装は古典歌舞伎に見るお約束の矢絣ではない、袖や裾にも異界のものたちの気配を漂わせる、波紋が広がるように丸みを帯びた形状である。下座音楽のある下手とは逆の上手に伴奏音楽として明確に位置づけられているハープ奏者が違和感なく同じ舞台上に居る。そこはある種オーケストラピットのような空間とでもいおうか、みえていても見えていない場所という了解が次第に成立してしまっていた。ここでもパノフスキーの第一のレベルを「事実的レベル」と「表現的レベル」の両方からを見ているといえる。そこにあるものを単に見慣れたものとしておくだけではなく、海の底のただならぬ異界の宮殿を表現するという点に於いてであるが。
 では、第二のレベル「イコノグラフィー」を読み解くとどうなるであろうか。
「海神別荘」に於いても歌舞伎の古典にたいする知識、古事記や日本書紀などの神話やおとぎ話に見識がある事が要求される。何故なら、陸に住む比類稀なる美女がこの宮殿の公子の元に輿入れをしてくる道中、白竜馬に乗り、あまたの黒潮騎士にかしづかれて進んでくるのだが、この姿が人間界の罪人が引き回しの刑にされる姿に似て忌まわしいと沖の僧都(公子の相談役のような老爺)が疑問を呈するのだ。そこで公子は博士を召し出して事の真偽をただすのであった。博士がその例としてひいてくるのが、浄瑠璃「大経師昔暦」であったり、「八百屋お七」であったりする。さらに公子の姉は竜宮城の乙姫という設定になっている。この場面を理解するには、歌舞伎古典や、神話、物語の知識が必要な所以である。
 面白いのは、海の公子が不義密通の門で殺されるおさんや、刑場の露と消えるお七を美しいと評する点だ。そこには、純粋な愛や美を追求してやまない鏡花の世界が垣間見える。
  第三のレベルにすすもう。内在的な意味、あるいは内容。芸術作品は一つの全体であり、また、その創作者の人格があらわれたものであり、文化や文明の歴史的資料である。 
 この文脈から辿ってみると、すでに「海神別荘」は原作者である泉鏡花をこえて玉三郎が創作者の位置にあるといっても過言ではないだろう。
 彼の美意識の総決算がそこに表出されている。鏡花の戯曲の魅力を三島由紀夫はこのように指摘している。
 「ユニークな、すこぶる非常識で甚だ斬新な、驚くべき独創性と強い、リズムのある、イメージに富んだすばらしい台詞。」
 このような特色ある表現を通して極めて幻想的な物語を展開しつつ、純粋で潔癖な魂の持ち主である主人公達が描かれていく。玉三郎は、異界にいるものたちの方が、魔界のような現実に住んでいるものたちより、清く正しい心を持っていると感知している。
 その異界に居る人の表現において玉三郎を超える人は未だ見つけられない。佇まい、詩を口ずさむかのように紡ぎだされる言葉はしじまを五線譜にして奏でられる音曲のようですらある。動きの間、的確な眼差し、彼を取り巻く舞台美術の精緻さ、真善美を尽くした衣装や小道具へのこだわり、それらの総合芸術を通じて究極の純粋な魂の結びつきこそがこの世でもっとも美しい物だと言わしめている。
 私たちの世紀は経済や効率性が優先され、美や純粋である事などは、おんな、子どものしゃぶるあめ玉のごとき地位に追いやられている側面がある。そこに、こうして切り込む玉三郎の美意識がいかほどの力を持つか、はかれはしないが、一つのアンチテーゼになってはいないだろうか。

 おわりに

 確かに上演芸術を視覚表象として論ずるのは暴挙であった事は否めない。が、こうして愛してやまない歌舞伎の世界を「見て」、「読む」という見地で分析を試みてみた事は得難い機会であった。多層的に理解をすることの手がかりには確実になった事を実感する。



 参考文献
ジョン・A・ウォーカー/サラ・チャップリン「ヴィジュアル・カルチャー入門 美術史を超える為の方法論」晃洋書房2001
ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術」晶文社1999
斉藤環「アーティストは境界線上で踊る」みすず書房2008
服部幸雄他編「歌舞伎事典」平凡社1983
伝統歌舞伎保存会他編「かぶき手帖」歌舞伎伝統保存会2006
歌舞伎座「歌舞伎座さよなら公演七月大歌舞伎筋書き」歌舞伎座2009


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