侘寂菜花筵(わさびなかふぇ)

彼岸の岸辺がうっすらと見え隠れする昨今、そこへ渡る日を分りつつ今ここを、心をこめて、大切に生きて行きたい思いを綴ります。

私の一滴から、、

2008-01-17 00:00:58 | Weblog
私のふるさとの詩人宮沢賢治さんの「よだかの星」という童話では何故かハチドリはよだかの妹でした、、ちなみに弟はカワセミです、、賢治さんの童話では電信柱はもとより、お日様もお星様も鳥もかえるも擬人化されみな個性的なキャラクターで存在しています。賢治さんはこの地球を多層的に感受していたのだな~と思います。自然と共にいるだけで賢治さんはとても幸せで無限の喜びを見いだし、神秘に敬虔なおもいを抱き、森羅万象との交流を童話に描いたのだと思います。
そんな賢治さんと同じような感受性をこの南アメリカの先住民に語り伝えられているお話にも感じます。自然の木々や動物たちと共に日々の暮らしを営んでいた人たちは宇宙の神秘、自然界の営みへの畏怖の念を抱くもの。その思いを現代に生きる私たちはすっかり忘れ去り、木々とも川の流れともましてクランボンともめくらぶどうとも会話を出来ない、、お天道様がどこにいてもみておられる、、だから居住まいをただしてすごさなければ、、なんて誰も思わなくなっている故の近頃のおぞましい事件の連続、子どもが親を殺し、親が子どもを殺す、、ナンテコッタ!!オラウータンの親は子どもが3歳近くになるまで片時も手を離さずいつも抱きしめにぎりしめているそうだ、、だから夜泣きなんてないそうだ、、そして年子はうまれないのだそうだ、、理想の子育てが自然の摂理として彼らはそのような営みを続けている点で人間より数倍エライかもしれない、、そうクリキンディというハチドリは森が燃えている時、他の動物たちは我先にとにげまどうのにいったりきたりしながらクチバシ水の滴を行ってきずつ運んでは火の上におとしていきます。動物たちはそんなことをしていったいなんになるんだと言ってわらいます。がクリキンディはこう答えます。「わたしはわたしにできることをしているだけ、、」私の一滴をわたしはこのはちどりのようにとどけることができるだろうか、、

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