侘寂菜花筵(わさびなかふぇ)

彼岸の岸辺がうっすらと見え隠れする昨今、そこへ渡る日を分りつつ今ここを、心をこめて、大切に生きて行きたい思いを綴ります。

修羅から水車小屋のゴーシュへ

2009-07-29 08:36:36 | Weblog
  
 環境文化論1~4(花巻)スクーリングレポート2009年
     「新生代末期の元素を持つ人賢治」
 はじめに
 私は花巻に生まれ、18歳までこの地で育った。父は賢治が農学校で教鞭をとっていた時の教え子でもあった。
 そんな事からか、賢治という人が父の師であったように、私にとっても、いつも潜在意識の中に生きていて、何か指針のような役割を果たしてくれている存在だと、勝手に思いこんできた。
 今回、環境文化論を受講する事で、賢治を生んだイーハトーボー花巻、そして勝手に思いこんでいる賢治を見つめ直してみたい、と思ったのが受講をする大きな動機であった。
 今回、イギリス海岸や、講師のお話を聞いている時、花巻の町を巡り歩いている時にも、さいかち淵だと迷い込んだ田んぼの縁でも、青く晴れた空のもと香しい風の吹く小岩井農場でも、確かに賢治の気配を幾度となく感じた。
 又、その後の「なめとこ山エクスカーション」において、山歩きの先達を務めて下さった高橋美雄さんに出会った時にも。
 水に沈んだ村に生まれた高橋さんと思いっきり花巻弁で、話していると、なめとこ山の熊捕り名人、淵沢小十郎を彷彿とさせ、向き合う時の視線に賢治の眼差しが重なるような気がして仕方がなかった。
 この5日間の体験の中で確かに何度も賢治とすれ違った。東京に戻り、ずっとずっと、あの時の賢治は何を伝えに来たのだったろうと思い起こしてみたのだが、いっこうにつかまえる事が出来ない。
 賢治についての論評等は星の数ほどあり、そのどれもが賢治という人の一端を著しているに違いない、それほど賢治という人は多面体の人だということでもあるのだろう。その中で一冊何故だか知らぬが思わず引き寄せられて手に取ったのが「宮沢賢治 天上のジョバンニ 地上のゴーシュ」 であった。その本を私は導かれるように読んだ。奇しくも著者である吉田は盛岡市に在住の詩人でご母堂は花巻の出身であったそうだ。
 ああそうだ、ここにいる。私に来た賢治は、そうだ、この人だ。と何度もうなずきながら読みすすんだ。
 これまで私の潜在意識の中で魂の指針となっていてくれたはずの賢治はどうも輪郭はあるけれども活き活きとした表情は見て取れない影法師のような存在であったかもしれぬ。ちゃんとつかまえてみれば賢治さんはもっと好きになる人だ。
第一章 いっしょに正しい力を併せ

 おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようではないか、、
 まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう

 「農民芸術概論綱要」 農民芸術の綜合で高らかに歌いあげられるこの件にほれぼれしていた。環境問題が囂しい昨今、持続可能性を探るとしたら、農ある暮らしを基盤に置く事がポイントになるだろうと思っていた。いみじくも農業を英語ではアグリカルチャーという。何も無いところに萌えいずるものを生み出す文化なのである。
 持続可能性を希求する21世紀に遅れてやってきたトップランナーこそが農業だと思っていた。その事を確実に裏付けしてくれた賢治が耳元でささやく「農民藝術概論綱要」は甘美で、福音ですらあった。
  

 詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画、(中略)
 巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす


 とまで言っている。一人一人生きて在る事が芸術である藝術立国をめざす本学のミッションとも重なるではないかと一人ほくそ笑み、勝手に興奮していた。
 賢治を精神の師として仰ぐ私は殆ど熱し易さにおいては師に匹敵する。
 実行しなければ何の意味も無いと思う質でもある。法華経を信奉し始めの頃に、しばれる花巻の町を法華の太鼓を叩いて寒修行する賢治を、町の人々は誹ったのだそうだが、私なら共に太鼓を叩いて歩く方を選択しただろう。
 ただ農的暮らしをこそ最優先課題にすべきなどと言っているだけでは空疎な絵空事でしかない。すぐに自分も畑仕事を始める。
 もうみんなの幸せのためならこの身を100ぺん焼いてもかまわない、というぐらいの勢いで環境系ボランティアに突き進む、というように賢治理解は単細胞な猪突猛進型の仕方でしか無かった。
 大正15年、「農民芸術概論綱要」を構想したときの賢治は農学校の教師の職を辞し、「本物の百姓」になるために
一人暮らしを始める。非職業的芸術であるところの農民芸術を実現するために「羅須地人協会」を組織したのだ。この年、賢治は年末に上京し、セロ、タイプ、エスペラントを特訓している。まさにその昂揚振りがうかがえるではないか。と単純に思いこみ、この「概論」こそが賢治の金字塔と誇りに思っていたのだったが、吉田の印象は、こうだ。
 

 学校を退職して一年目の春、彼に疲労の色は濃い。「本物の百姓になる」と病弱な身体をあえて風雨にさらし、理想とする美的シンボルとしての農「羅須地人協会」がやっと本格的な活動を始めたばかりであったのにである。


 確かに引用されている「同心町の夜明け方」「えい木偶のぼう」「いまは燃えつきた瞳も痛み」さらに残酷なまでに自己凝視が極まる「心象スケッチ 林中乱思」。端の人の目が信じられず、「じぶんはいちばん条件が悪いのにいちばん立派な事をするとそう考えてゐたいためだ」と名声への欲望を持つ自己を凝視してやまない。そんな賢治は吉田の言うようにひどく痛ましい。
 賢治年表によると「羅須地人協会」は実質数ヶ月の命運だった。1926年(大正15年・昭1)8月23日が設立日とされている。翌年の2月1日「岩手日報」夕刊に羅須地人協会の記事が出る。これに対し賢治は思想上の誤解を招いては済まないと、協会員によるオーケストラを解散し、集会も不定期となる。今なら何の問題もない寧ろ歓迎されるべきNGO活動だ。さらに翌年昭和三年は左翼運動が弾圧され賢治がカンパ等で支援していた労農党は治安維持法の指定を受けて解散命令が下された。賢治のユートピアをまだこの時代は受け入れられなかった。賢治の家は花巻でも有数の素封家であり、父政次郎は町会議員でもある、町中の監視のもと、かつて寒修行の折にも誹られたように、彼の純粋で愉快な夢はこうして歪曲され、間違った方向へと終息せざるを得なかったのだ。
 その心象を賢治は吐露せずにはおれなかったのだろう。
今ならわかる。賢治がたびたび私の身辺にやってきたことの意味が、彼は当たり前の自分、等身大の自分を見、感じて欲しかったのだ。大きすぎず、小さすぎず、聖人でもないが、悪人では勿論ない、だが、いたずらもすれば、おごり高ぶる心もある、そんな自分を知った上で彼が希求したもの、彼が実現したかったものは何だったのかを見て欲しい、そして思想としてだけではなく、現実に活かして欲しいと願っていたのではなかったろうか。
 今の私なら彼と行動を共にすることに何のはばかりもないが、今からほぼ一世紀前の花巻はそれを許すような社会状況にはなかったろうし、人々の心も暗く、他者と違った行為を許さないムラ意識が精神の基盤だった時代なのだ。
 その事をいち早く悟り、人が醜く、誹謗中傷をし、事の本質をみえにくくすることで、彼の純粋に願ったユートピアを汚したく無かったのだろう。直接の手入れが在ったわけでもないのに早々に自粛してしまった賢治はやはり、名士としての宮沢家の長男であることも自覚していたのだ。
 賢治の本質を吉田はこのように言う。


 賢治の見せるある種の天上性や銀河気圏の透明ヴィジョン、あるいはどんぐりの青い林を吹き渡る風の玲瓏によって、賢治の文学は愛されてきた。方言や造語のわけのわからなさもふくめて、その幻想的な言語世界のイメージ喚起力は無類である。(中略)
 昨今の「ブーム」の異様な高揚をみるにつけ、なんだかかえって賢治の孤独を思ってしまうのだ。生きるとはいつでも、断念の時間を地上で生きることだ。過剰な讃仰に取り囲まれるとき、賢治の耐えなければならなかった孤独の禍々しさは、どこへいってしまうのか。


 まさにこのことだ。賢治はオーバーコートを着て、山高帽をかぶり、手を後ろ手に組んでうつむき加減に歩き、思索にふけっているばかりの人ではなかったのだ。
 佐藤孝氏が花巻の町を山紫水明の豊かな岩手の中央に位置するドリームランド「イーハトーブー」とおっしゃたように、賢治はこの地を銀河の空間の太陽日本 陸中国の野原であるとも称している。地質学的には北上は列島より古い大きな島だったという、そして賢治の愛した蛇紋岩は盛岡から早池峰山を経て釜石市に至る巨大な帯状を形成する。「石っこ賢さん」と呼ばれるほど石に寄せる関心は人並み以上のものがあった賢治。この壮大な地質の歴史を自然との鋭い交感力で察知していたのかもしれない。度々吸い寄せられるように山歩きをする賢治にはそのような骨太の縄文のDNAが脈打っていたのではないだろうか。その事を確信させてくれたのは、牛崎敏哉氏だった。牛崎氏が講義の折、花巻弁で語り聞かせて下さった時、場の空気が一瞬、密になってひきしまった。そうだ、きっと賢治はこのようによまれる事を待っていたに違いないと思った。賢治の思いにいちばん近いニュアンスを花巻弁だからこそくまなく顕し得る。だが、近頃の潮流として、何もかも標準語で書かれてあるものまであえて花巻弁に読み替えることにはいかがなものかと思っている。
 さて、牛崎氏は以下のように言う。

  
 「賢治は熱狂的な法華宗の在家団体に属しましたが、団体と距離を置いた頃、自然崇拝や土俗信仰に目覚めます。さまざまな信仰が混然となっていました」

 賢治先生は度々生徒を引率して様々な場所に連れて行く。私の父も共に登山した時の詩が「東岩手火山」になったり、
「台川」には名前まで登場する。若き少年の父がその時どんな感慨をもったのか、もう知るよしもないが、満天の星空を仰ぎ、火山火口の内側で友とデカンショを高々と歌った少年はどんなに愉快で晴れ晴れとしたことであったろうか。その時も賢治は一人リンリンと荘厳に響き渡る声でお経を唱えていたそうである。

 世間からクワッコ大学と言われるような学校で、時には肥え桶も担がなければならない授業を、生徒達にとって少しでも楽しい、明るいものにしようと、どんなにか腐心したことか。それは行進曲であったり、劇作であったり、修学旅行代わりのイギリス海岸だったりするのだ。こんな時の賢治はかつてのいたずらっ子の表情を思わせて本当に愉快そうだ。現に生徒諸君に寄せてこう書き残している。
「わたくしは、毎日を鳥のように教室でうたってくらした。誓って云うがわたしは、この仕事で疲れをおぼえたことがない」と、だが同じ時期先述の「心象スケッチ林中乱思」には

 誰がのろのろ農学校の教師などして
 一人前の仕事をしたと云はれるか
 それがつらいと云ふのなら
 ぜんたいじぶんが低能なのだ

自らを切り裂くような修羅としての賢治がここには居る。

第二章 修羅の人賢治から水車小屋のゴーシュへ

 吉田は「土神ときつね」を引用し、賢治の≪修羅≫とはこのようなものであったろうかと、号泣する土神の荒ぶる心、抑えても鎮まらない呪われた自我の悲しみにたとえる。 
 このお話は賢治童話の中でも極めて異色で、以前に読んだ時は「えっ!賢治さん、どうしたの」と思ったものだが、膨大な賢治の書き残したものにはこの土神の片鱗が散見する。
 よだかの苦悩も修羅と言えば修羅、「小岩井農場」のわたくしも、あたかもバルビゾン派の風景画をたどっているかのように感じていると、いきなり聖なる場所の辺りから、こらえきれない思いが吹き出してくる。葛藤から自らを解き放とうとする天の鼓手、緊那羅となって。これも賢治の抱える修羅なのだ。
 賢治の生涯はこの胸に抱える修羅との相克とも言える。
吉田はこの土神の号泣をおのれの身内の修羅に破砕された自我の絶望とたとえているが、こうも言い、そのニュアンスこそ物語に立ち上っていた何とも言えぬ安寧だ。
 「東北の田舎町にあってセロを弾き丸善の洋書をとりよせ、レコードの洋楽に魅入られる赤革の靴の詩人賢治は、嘘つき狐の夢想を断罪してしまったあと、どこへ行くのだろうか。『救われぬままに救われよー』と、真宗の教義ならいうのかもしれない。法華経信者である賢治の自力救済の闘いは、まだまだ続くのか。しかし、賢治の描く成仏相と言われる狐のわらったような死の表情は、私達に不思議な感慨をもたらす。土神の号泣の泪が「雨のように」狐の屍の上に降るなかで、何かが潤され融合する幻想が私達の中に疼くからなのだろう。(中略)
 濁りのままに澄む簡素で力強い神話的な造形力によって、この物語は夏の野原のように美しく赤銅色に輝いていると、私は思う。」
 この荒々しい髪もぼろぼろで眼も赤い、まるで山男のように粗野で凶暴でさえある土神も狐と同じように賢治の分身なのだ。
 牛崎氏の言うように賢治にはもともとから自然崇拝や土俗的信仰心があったと思う。山に吸い寄せられ、石に関心を持ち、木でもどんぐりでもたちどころに会話が出来る、なべての森羅万象と同じ地平に生きている人なのだ。風やお日様や水の輝きや朝露を本当の食べ物にし上等の衣服と感じ取る人なのだ。
 時として畏怖畏敬の念でおもわれる天地自然はとんでもない豪雨や津波、大地震、干ばつで多くの人々の命も奪う。賢治の生年には三陸大津波、陸羽大地震があった、そして没年には三陸大地震津波が起こっている。山紫水明の銀河系の中心の岩手と言われ、満天の星空に覆われる夜空も在るが、かくのように
手の着けられない程の怒りが雷となって荒れ狂うのも天地自然の摂理なのだ。法華経を通じて聖性を希求し続けた賢治だが
その根本は新生代中新世にさかのぼる北上島誕生の2300万年の悠久の魂を継承する稀有な人だったのではないかと思う。

 吉田は「セロ弾きのゴーシュ」を引用してこのように言う。
 

 賢治の物語の最後にゴーシュがいることは、何という救いを私達にももたらすことだろう。ごめんよ、かっこう。―その深い協和。(中略)
 私はこのゴーシュの最後の科白を、賢治の全童話の中でも最も悲しく美しい言葉だと思っている。(中略)
 過度の当為から解放された、しかし自然な断片がある。それらをつなぐものがあるとすれば、それはゴーシュを超えたもの、おそらくは菩薩の意志である。銀河の運行がひとつの意志として動くように、大きなシステムを背後に感受し、それを受容することー、ゴーシュが蹴破った窓からはいってくる夜風、そこから見上げられる夜空の意味はそれだ、と感じられる。遠く銀河へとつながる夜の、それは再生の物語である。ゴーシュの荒ぶる魂が救われている。長く悲しかった物語の最後に、私達自身が救われている。きららかな水の生命を感じさせる夜の物語である。
 大変長いがあまりに美しい賢治への鎮魂なので引用した。
いや、けっして美しいだけではなく、等身大の賢治を浮き彫りにしてくれている。影法師のようだった賢治の姿が今鮮やかに私の目前にあり、その賢治は一様ではない。
 ゴーシュという荒ぶる修羅の魂と真面目に、真剣に向き合う動物たちの表情や動作が活き活きしていて映像化したくなるほどだ。賢治の眼差しの優しさが透けて見える。
 病床の賢治が最後まで推敲を重ねた「セロ弾きのゴーシュ」で賢治の魂は再生している。法華経という信仰が彼の魂を救済したかもしれないが、彼のすさぶる魂は自らが紡ぎ出した物語によって再び生きるのだ。
 まとめ
 私の中の魂の指針賢治は今少しずつ、その存在を確かなものにしつつある、これまでの通り一遍の影法師ではない。今回の講座の中で出会った方々や場所から新たなインスピレーションを頂き、何度もすれ違う賢治へどうやら一歩近づけたような気がする。 
 惜しむらくは、もっと、賢治を育んだ町、花巻をただ賢治の名付けたイーハトーブとしてのみ置くのではなく、かつてのようにもっと住む人びと一人一人が活き活きとしていたあの表情をとりもどすには、、を考えて見たかったが力及ばなかった。
 私の中で賢治はこれまで以上に魂の指針としてあり続けていくと思う。全身全霊でかけるように歩きながら短い人生を駆け抜けた賢治の希いを私はわたしなりに継承したい。
 
 確かに賢治はお金持ちの家に生まれたお坊ちゃんだ、どうふんばっても、小十郎のような頑強な肉体も技能も持ち得ない、また、聖職者のような聖人君子などではもとより無い。
 純粋な芸術家とも違う。生きて在ることがそのまま芸術になるような生き方をみんなでしよう、みんなで幸せになろうと本気で希った人だ。だが、そう希うみずからに潜む修羅を真剣に見据えて葛藤し、克服しようとする真面目人間なのだ。
 究極、彼は透明の元素に解体されたかったろうか、
現段階では私にはそうは思えない。
参考文献

関登久也「新装版宮沢賢治物語」学習研究社1995年
鶴見俊介「限界芸術論」筑摩書房2009年第5刷発行
山折哲雄「デクノボーになりたい私の宮沢賢治」小学館2005年
吉本隆明「宮沢賢治」筑摩書房1989年
吉田美和子「宮沢賢治天上のジョバンニ地上のゴーシュ」小沢書店 1997年
原子朗編著「宮沢賢治語彙辞典」東京書籍1990年第1版第2刷
宮沢賢治「新版宮沢賢治童話全集」岩崎書店1984年第10刷
宮沢賢治「宮沢賢治全集1,3,6」筑摩書房2008年
宮沢賢治学会イーハトーブセンター図録編集委員会「拡がりゆく賢治宇宙―19世紀から21世紀へ」宮沢賢治イーハトーブ館
1997年
東日本旅客鉄道株式会社「トランヴェール」2009年7月号
花巻市教育委員会社会教育課編集企画「宮沢賢治選抄」花巻市文化団体協議会1984年
花巻市教育委員会社会教育課編集「農民芸術概論綱要」花巻市文化団体協議会2002年第10刷
岩手県立花巻農業高等学校宮沢賢治研究会「イーハトーブ農学校宮沢賢治先生と花農」岩手県立花巻農業高等学校1996年


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