下仁田戦争の敗北
筑波山に挙兵した水戸浪士は 幕府追討軍に反撃しながら 大義である尊王攘夷を 京都にあっ 禁裏守衛総督を務める一橋(徳川)慶喜(水戸藩主斉昭の長子)に直訴し朝廷に言上しよう、と決意する
十一月一日 武田耕雲斎を総大将に 田丸稲之右衛門 山国兵部(喜八啓)藤田小四郎の幹部
に率いられた水戸浪士は 三隊編制で京都へ向けて進軍を開始した。
世に言う 水戸天狗党である。
高崎藩は北関東有数の譜代大名でありながら、水戸浪士とは下妻で戦闘して敗走し「右京様は卑怯様」にと嘲笑されていた 高崎藩では 天狗党との闘いを回避した諸藩と違い 雪辱を期して一戦交えるべきとの藩論に傾いていた。藩は十一月十一日 急濾六百人の藩士を四隊に編制し三隊をもって迎撃することに決した
十一月十五日夕刻 東山道を避けて下仁田に水戸浪士の先遣隊二百人が宿陣した。
翌十六日払暁から戦いは始まった。戦さ慣れと火勢に優れた水戸浪士に包囲され 高崎藩士は次々と討死 負傷し 敗北する。
つづく