アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

いせさき初市 其の2

2017年01月12日 | Weblog

織物会館で、安全祈願祭が執り行われました。

代表挨拶の後

宮司によりお祓い後

来賓の方の、榊が祭壇に供えられました。

井野代議士、

FBでお世話になっている原県議は、丁重に2礼2拍1礼を行っていました。

画像は不鮮明ですが原県議は、来賓の方に丁寧に1礼致しました、

                                       続く


本日は、伊勢崎市初市でした。 其の1

2017年01月11日 | Weblog

今日は、いせさき初市でした。

初市は、昭和の時代は、だるま市でしたが

時代が変わり現在は、初市として例年開催されています。

初市は、県道を午後から交通止めにして行われますが、

今日は私の仕事の都合で11時からの安全祈願祭に行きました。

なを、安全祈願祭は伊勢崎神社宮司に、より執り行われました。

                    続く

 


真説 国定忠治 平成弐拾九年 其の弐

2017年01月08日 | 近世の歴史の裏側

百々の紋次の墓

伊勢崎市境百々にあるという経蔵寺に、百々の紋次の墓を訪ねてみた。

 忠治に駒札を譲って縄張りを与えた親分として有名である。

 百々に行ってみたが、経蔵寺らしい大きな家は見当たらない。

 何人かの人に、

 「この辺りに経蔵寺というお寺はありませんか」

 「経蔵寺?聞いたことはありませんね。この辺にはお寺なんかありませんよ、お寺なら何カ所か

ありますがね」

 そこで、道路脇のフレームの中で仕事をしているお年寄りに尋ねてみIたら、

 「経蔵寺というお寺は知らないが、この近くに某地ならあるよ。あそこに火の見やぐらの

半鐘が見るだろう。そこを入ったところに墓地があるが、そこに経蔵寺というお寺でもあったんかね」

 教えられた通りに、火の見やぐらの脇を入っていくと墓地があり、本堂はないが門柱に「経蔵寺」

いう文字が刻まれていた。

 紋次の戒名「花輪昶光居士」を頼りに墓石を捜してみると、天保十三年の年号がある紋次の墓が見つかった。

忠治が建てたと伝えられている。

この紋次は、テレビでお馴染になった。木枯らし紋次郎‘のモデルになったともいわれて

さて、紋次と忠治とのかかわりであるが、『赤城録』には、次のように記されている。 

「忠治は十七歳の時に人を殺し、武州川越の親分、大前田の英五郎のところへ逃げ込んだ。

 そして、英五郎のところに一年ほど世話になった。ある日、英五郎は忠治に言った。

『おめえさんほどの才覚がありや、何故いつまでも生まれ故郷を遠く離れてくらす事もあるめぇ』といって、上州の百々村の紋次を紹介した。その三年後に紋次は亡くなった。つづく

                                                                                                                                                        

                       

 


真説 国定忠治 平成弐拾九年 其の壱

2017年01月07日 | 近世の歴史の裏側

島村伊三郎の詳細 忠治に殺された大親分

 

伊三郎は本姓を町田といい、利根川沿いにある島村(現、伊勢崎市境島村)立作に生まれた。

生業は船問屋で嫡男あったが、いつしか博徒の世界に入って無宿となり、島村一家を名乗った。

生涯を通して、一度も人を殺したことはなかった。たいへんに背が高く六尺もあったという。そのうえ、

腕っぷしも強く、学問もあるという大親分であった。博徒の世界に身をおき無宿者となったので、

島村に住んでいることができないので、隣村の牧西村(現、埼玉県本庄市)に移り住んだ。

墓は島村の立作と本庄市の牧西にある。

その縄張りには、利根川の河岸や例幣使街道も通っており、また、世良田や木崎というところは、

養蚕や織物が盛んな土地柄で現金収入もよく金回りがよかった。

忠治が伊三郎をなぜ殺したのか、二つの理由が伝えられている。その一つは、天保五年のことである。

この年は江戸の大火、大坂の打ちこわしなどが起こり、世の中は騒然としていた。

この年の春、忠治の子分の三ツ木の文蔵は、伊三郎の縄張りの境村の桐屋という飲み屋で

飲んで暴れていた。

ちょうど居合わせた伊三郎にこっぴどく殴られ「忠治一家の三ツ木の文蔵を知らねえか」と

啖呵を切ったが、六尺豊かな大男の伊三郎に店の外に放り出されてしまった。

これを文蔵から聞いた忠治は「俺の可愛い子分の文蔵が殴られても、手も足もでせねぇとあっては俺の

顔がたたね渡世の仲間に顔向けができねぇー」と集まった子分たちに言った。

「親分、島村の伊三郎をやるんですか」

日光の円蔵がつぶやくと、

 「あたりめえだ」

と忠治は応えたという。

 他に、こんな話も伝わっている。 忠治がまだ一家を構えていない駆け出しの頃である。

 忠治が伊三郎の賭場へ遊びに行き、伊三郎の子分達と大喧嘩を始めてしまった。

遂に取り押えられて簀巻きにされ、利根川に投げ込まれそうになった。

ちょうど、その賭場に居合わせた旅人が、

「ちょっと待っておくんなせえ、まだ年も若いようじやありませんか。これから先のある者だから

助けてやっておくんなせえ、こんな若者を簑巻きにしたとあっちや、伊三郎一家もいい噂は立てられめえ。」と

命ごいをしてくれたので、忠治は利根川に放り込まれずにすんだのである。

この旅人が日光の円蔵である。後に忠治一家の身内になり、一家の軍師とも知恵袋ともいわれた男である。

この事を根に持って、伊三郎を殺害したともいわれている。

 忠治がまだ一家を構えていない駆け出しの頃である。

 忠治は二十一歳の時に、百々の紋次より縄張りを譲り受けてより、縄張りを接する伊三郎との争いが

絶えず、何時かは伊三郎の縄張りの奪還を狙っていた。

                                                                     つづく