柏で図書館を見つけたので、これから図書館通いをして本を読む習慣をそろそろ身に付けることにした。いちいち読みたい本を買っていたのでは、折角断捨離したのにまた本が溜まってしまう。本というのは読むまでが命で、読んでしまったらもう場所塞ぎ以外に使い道がない代物である。最近はkindleなどという電子本のフォーマットを選択する手もあるが、どうも私は古い人間なので本の形が目の前に無いと読み進められない。それに歴史、とくに古代史の本はkindle本が少ない。人気がないようでマンガは大抵出ていて不公平なのだがそうは言ってられない時代なので、今度一度挑戦してみようと思っている。だがとりあえず図書館を見つけて、しばらくここで本を読もうと思う。柏市立図書館は二階建てで、一階が各種本棚とキッズルーム、二階が参考資料と閲覧室になっている。冷房もあることだし、雰囲気は静かで落ち着くのが良い。次に来た時はカード登録して、近くのデニーズに持ち出すのもいいかなと思ったりして。飲み物を飲めるのが気分転換にいいかも。なんだか昔に戻ったみたいだ。
私は昔は図書館に入り浸りで、学生時代などは夏休みの間中ほとんど毎日通って、西洋の詩などを片っ端からノートに書写していたものだ。ギリシャ・ローマからゲーテ・シェイクスピア・ボードレール・ランボー、懐かしい名前が心に浮かんでくる。私は昔は詩人を目指していたのだ。いっぱしに詩人気取りで恋の歌などを14行のソネットに仕立て、オーケストラのコンサートマスターだった先輩の憧れの女性に送ったりもした。あ、私はちなみにビオラ担当の新米部員であった。つまり一番ペーペーである。大学のオーケストラは全体練習も結構したが、オーケストラのメンバーで弦楽四重奏団を組んで演奏するのがまた楽しかった。私は新入生だったがビオラは何しろ人がいなかったので、2番手のグループにスカウトされ憧れのコンサートマスターのチームではなかったが晴れて弦楽四重奏団の一員となり、日曜日ごとにメンバーの家でモーツァルトなどを弾いたものである。オーケストラのコンサートも3年間ちゃんとしたホールで開いていて、ベートーベン・ブラームス・シューベルトと定番曲を一通りこなしていた。腕前はそこそこだったようで、ビオラのパートは問題なくこなしていたと記憶している。だが卒業と同時にすっかりオーケストラとも疎遠になり、いまは楽器を手にすることも無くなってしまった。「青春の日々は淡い影のように消えて、再び帰って来ることは無い」、と誰かが言ってました(TVドラマの遺留捜査風に)。
思い出話はこれぐらいにして図書館の件だが、「蔵書の程度は知れたもの」である。まあ柏の図書館ならこんなものだろうと思う。中身を求めるのなら電車に乗って国会図書館に行けばよい。こんな所が東京に住んでいて得した点である。コンサートでも映画でも、真っ先に東京で興行する。四国の奥地に住んでいてはとてもこうはいかない。医療でも洋服でも何でも、東京と田舎では得られるサービスは質も量も段違いなのである。これはすなわち人生において、田舎の生活では自分の得るべきものがみすぼらしく小さく古めかしいことでもある。格差だ!。だが流通やITが発達した現代でも、田舎は田舎のままなのだろうか。テレビはCSアンテナを立てれば東京と変わらぬプログラムを見ることが出来るし、インターネットはなおさら言うまでもなく東京との差は全く感じられない。物流も余程の田舎に引っ込まない限り Amazon があるので、困るというほどのことはないだろう。少なくとも私の買うような物は全部あるし、今でも Amazon で買っている。それに食べ物が安くてボリュームがあるのは大事なポイントである。空気も美味いし、生活が長閑でギスギスしてないのが良い。良いことずくめである。これはやっぱり奈良に住むしかないかな。コンサートや映画は今も行っていないのだから同じだとも言える。と、ここまで考えたが、やっぱり田舎は田舎だよね。街の雰囲気というか住んでいる人の印象というか、何となく「ドン臭い」。少し文藝的に言えば「垢抜けない」のである。だがこの件は、もっと後に結論を出すことにしよう、10年後位に。
また本題から外れてしまった、元に戻そう。さて図書館に行った「お目当ての小松洋二の本」だが、少し薄めのだいぶ気合いが入った本という印象である。2階の閲覧室に持って行き、読書している人の間に入って空いている席に座った。日本国の始まりをその前段階から説き起こした本で、まず白村江の分析から入る記述の仕方は丁寧かつ理論的である。だいたい日本の歴史といっても弱小部族の離合集散を書き連ねるだけでは、本当の歴史の大筋を掴むことはできない。小松洋二の視点は百済・高句麗に新羅を加えた韓国の三つ巴の戦いを解明することで、同時にそれに影響された倭国内の覇権争いを描くというものである。これは実に理にかなっていると思う。今日は第一章と第二章を読んだが、倭国の船団を「輸送船団」と考え、唐の戦闘船団との戦いを描いている点は史実を見る目が冷静で具体的であるように感じた。古代史の本を読む時には滅多にない事であるのだが、「この著者は信頼できる」なと直感した。読書室は静かなのだが、新聞を読んでいる連中が下品なのには閉口する。バサバサと音を立てて頁をめくるのは仕方ないとしても、なんだか「うんうん言って奇声を発している」オジサンがいるのには、正直言って腹が立った。私は、新聞は図書館に置くべきではないという意見である。だいたい品性が無い。土台、新聞を読む人と本を読む人とでは、最初っから全く人種が違うのである。何やかやとゴシップを漁って居酒屋でのバカ話の種を見つけようとする低俗な連中と高尚な歴史の本を研究しようという我々とを、一緒の部屋に詰め込むこと自体もう無理なのである。図書館で読書室なんて呼ぶところに新聞を置いてあるのがそもそもの間違いである。しかし柏市立図書館の名誉のために言っておきたいが、スペースの都合もあるのだなと理解した。柏程度の市立図書館に過大な期待をしてはならない。
月曜日休館で5時までだから、一冊読むにはちょっと足らない。まあ3日くらい通って一冊というペースである、ちょうど良い。しかし小林恵子の本が多数置いてあってびっくりした。何分内容が過激すぎて、普通の感覚ではとてもついていけない危険な本だと思っていたが、よくもまあ市立図書館で蔵書に入れたなあと感心した。要するに、本を選ぶ基準は「よく言えば広く、悪く言えば雑多に」色々な本を集めて棚を埋めているのである。市立図書館に「歴史に対する眼を持て」と言うのも無理な注文だが、本を選ぶ方向性がないと「雑学」になってしまい、結局何か研究しようという真面目な読者を呼び寄せることは不可能になってしまうのだ。DEEPな読者というかコアな読者というか、図書館というのは結局はそのような真摯な読者で支えられているのではないだろうか。現在多くの美術館はそのような特集を組み合わせて特徴を出しつつ、見るものの興味を堀り起こそうとしているではないか。だが、図書館もそうすべきだとは思わない。市立の図書館は大量に販売されている出版物を集めているだけであり、古書や稀観本などの滅多にない愛好家向けのコレクションで人を集めているわけではないからだ。ある意味、買わずに読もうという人の要望に答えるのが設立の目的である。目的が違えば寄ってくる人も異なるのはしょうがない。
帰りがけにしばらく棚に並んでいる本の背表紙を眺めてチェックして見たが、読みたいと思う本は3冊ほどしか見当たらなかった。ということはこの3冊を読み終えたら「この図書館も用済み」となる。次は電子版にチャレンジして見るしかない。メモリーにもよるが、どれだけ買っても何より場所を取らないのが嬉しい。それに読み終えた本の始末もブックオフなどに売らなくても良いというメリットがある。いずれにしても「電子版が出ているかどうか」にかかっているわけで、歴史の分野もこれからはどんどん作品が電子化されるという時代に入ってくるのだろう。私も「時流」に乗り遅れないようにしようっと。
私は昔は図書館に入り浸りで、学生時代などは夏休みの間中ほとんど毎日通って、西洋の詩などを片っ端からノートに書写していたものだ。ギリシャ・ローマからゲーテ・シェイクスピア・ボードレール・ランボー、懐かしい名前が心に浮かんでくる。私は昔は詩人を目指していたのだ。いっぱしに詩人気取りで恋の歌などを14行のソネットに仕立て、オーケストラのコンサートマスターだった先輩の憧れの女性に送ったりもした。あ、私はちなみにビオラ担当の新米部員であった。つまり一番ペーペーである。大学のオーケストラは全体練習も結構したが、オーケストラのメンバーで弦楽四重奏団を組んで演奏するのがまた楽しかった。私は新入生だったがビオラは何しろ人がいなかったので、2番手のグループにスカウトされ憧れのコンサートマスターのチームではなかったが晴れて弦楽四重奏団の一員となり、日曜日ごとにメンバーの家でモーツァルトなどを弾いたものである。オーケストラのコンサートも3年間ちゃんとしたホールで開いていて、ベートーベン・ブラームス・シューベルトと定番曲を一通りこなしていた。腕前はそこそこだったようで、ビオラのパートは問題なくこなしていたと記憶している。だが卒業と同時にすっかりオーケストラとも疎遠になり、いまは楽器を手にすることも無くなってしまった。「青春の日々は淡い影のように消えて、再び帰って来ることは無い」、と誰かが言ってました(TVドラマの遺留捜査風に)。
思い出話はこれぐらいにして図書館の件だが、「蔵書の程度は知れたもの」である。まあ柏の図書館ならこんなものだろうと思う。中身を求めるのなら電車に乗って国会図書館に行けばよい。こんな所が東京に住んでいて得した点である。コンサートでも映画でも、真っ先に東京で興行する。四国の奥地に住んでいてはとてもこうはいかない。医療でも洋服でも何でも、東京と田舎では得られるサービスは質も量も段違いなのである。これはすなわち人生において、田舎の生活では自分の得るべきものがみすぼらしく小さく古めかしいことでもある。格差だ!。だが流通やITが発達した現代でも、田舎は田舎のままなのだろうか。テレビはCSアンテナを立てれば東京と変わらぬプログラムを見ることが出来るし、インターネットはなおさら言うまでもなく東京との差は全く感じられない。物流も余程の田舎に引っ込まない限り Amazon があるので、困るというほどのことはないだろう。少なくとも私の買うような物は全部あるし、今でも Amazon で買っている。それに食べ物が安くてボリュームがあるのは大事なポイントである。空気も美味いし、生活が長閑でギスギスしてないのが良い。良いことずくめである。これはやっぱり奈良に住むしかないかな。コンサートや映画は今も行っていないのだから同じだとも言える。と、ここまで考えたが、やっぱり田舎は田舎だよね。街の雰囲気というか住んでいる人の印象というか、何となく「ドン臭い」。少し文藝的に言えば「垢抜けない」のである。だがこの件は、もっと後に結論を出すことにしよう、10年後位に。
また本題から外れてしまった、元に戻そう。さて図書館に行った「お目当ての小松洋二の本」だが、少し薄めのだいぶ気合いが入った本という印象である。2階の閲覧室に持って行き、読書している人の間に入って空いている席に座った。日本国の始まりをその前段階から説き起こした本で、まず白村江の分析から入る記述の仕方は丁寧かつ理論的である。だいたい日本の歴史といっても弱小部族の離合集散を書き連ねるだけでは、本当の歴史の大筋を掴むことはできない。小松洋二の視点は百済・高句麗に新羅を加えた韓国の三つ巴の戦いを解明することで、同時にそれに影響された倭国内の覇権争いを描くというものである。これは実に理にかなっていると思う。今日は第一章と第二章を読んだが、倭国の船団を「輸送船団」と考え、唐の戦闘船団との戦いを描いている点は史実を見る目が冷静で具体的であるように感じた。古代史の本を読む時には滅多にない事であるのだが、「この著者は信頼できる」なと直感した。読書室は静かなのだが、新聞を読んでいる連中が下品なのには閉口する。バサバサと音を立てて頁をめくるのは仕方ないとしても、なんだか「うんうん言って奇声を発している」オジサンがいるのには、正直言って腹が立った。私は、新聞は図書館に置くべきではないという意見である。だいたい品性が無い。土台、新聞を読む人と本を読む人とでは、最初っから全く人種が違うのである。何やかやとゴシップを漁って居酒屋でのバカ話の種を見つけようとする低俗な連中と高尚な歴史の本を研究しようという我々とを、一緒の部屋に詰め込むこと自体もう無理なのである。図書館で読書室なんて呼ぶところに新聞を置いてあるのがそもそもの間違いである。しかし柏市立図書館の名誉のために言っておきたいが、スペースの都合もあるのだなと理解した。柏程度の市立図書館に過大な期待をしてはならない。
月曜日休館で5時までだから、一冊読むにはちょっと足らない。まあ3日くらい通って一冊というペースである、ちょうど良い。しかし小林恵子の本が多数置いてあってびっくりした。何分内容が過激すぎて、普通の感覚ではとてもついていけない危険な本だと思っていたが、よくもまあ市立図書館で蔵書に入れたなあと感心した。要するに、本を選ぶ基準は「よく言えば広く、悪く言えば雑多に」色々な本を集めて棚を埋めているのである。市立図書館に「歴史に対する眼を持て」と言うのも無理な注文だが、本を選ぶ方向性がないと「雑学」になってしまい、結局何か研究しようという真面目な読者を呼び寄せることは不可能になってしまうのだ。DEEPな読者というかコアな読者というか、図書館というのは結局はそのような真摯な読者で支えられているのではないだろうか。現在多くの美術館はそのような特集を組み合わせて特徴を出しつつ、見るものの興味を堀り起こそうとしているではないか。だが、図書館もそうすべきだとは思わない。市立の図書館は大量に販売されている出版物を集めているだけであり、古書や稀観本などの滅多にない愛好家向けのコレクションで人を集めているわけではないからだ。ある意味、買わずに読もうという人の要望に答えるのが設立の目的である。目的が違えば寄ってくる人も異なるのはしょうがない。
帰りがけにしばらく棚に並んでいる本の背表紙を眺めてチェックして見たが、読みたいと思う本は3冊ほどしか見当たらなかった。ということはこの3冊を読み終えたら「この図書館も用済み」となる。次は電子版にチャレンジして見るしかない。メモリーにもよるが、どれだけ買っても何より場所を取らないのが嬉しい。それに読み終えた本の始末もブックオフなどに売らなくても良いというメリットがある。いずれにしても「電子版が出ているかどうか」にかかっているわけで、歴史の分野もこれからはどんどん作品が電子化されるという時代に入ってくるのだろう。私も「時流」に乗り遅れないようにしようっと。
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