最近本が読めなくなってきた。目が悪くなったのも一つの理由だが、他に「面白く感じる題材が少なくなった」というのもある。中身が面白くないと、どうしても長いこと読むのがシンドくなるのだ。ところが今回の南北朝は、今までになく久々に面白かった。特に読み進めるうちに「今までの歴史観を大幅に変えるような視点」を得られたのが良かったと思う。
歴史の理解はすなわち、人間の理解である。私は朝日新書の「南北朝」林屋辰三郎著を、数日前に読み切った。今思えば私にとって、歴史を再発見した「キッカケの本」と言っても過言ではない。では、この本の「どの辺り」が画期的なのか。答えを言えば、本が凄いのではなく「私の歴史の理解が」まだまだ幼稚だった、ということに気付いたのである(林家辰三郎さんには何の罪もない)。
歴史というのは奥が深く、究めようとすればいくら時間があっても足りないが、表面のエピソードだけをサッと眺めようとすれば、それでも面白おかしく楽しめてしまう。以前、会社の後輩に三国志の登場人物にやたらに詳しい男がいて、その知識に並々ならぬものを感じたので中国史の勉強はどこでしたの?と聞いたら、悪びれることもなく「テレビゲームで覚えました」だって!?。世の中そんなもんである。
一般の人に取っての歴史とは、英雄や偉人のエピソードを知って「こんなことがあったよね」と記憶に留める程度の、知識の断片だ。つまり雑学である。何々時代に誰がどんなことをしてたというのも、それらを繋げて「一つの全体像」を築き上げるなどというのは、よっぽど歴史が好きな人に限られると思う。そんな歴史好きの中でも私がのめり込んでいる古代に比べれば、まだ幕末や鎌倉・足利時代はエピソードも豊富だし、資料も沢山あって史実なども調べやすい。だからついつい勇猛な武将などの豪快なエピソードに偏りがちになるのだが、そこが今までの私の「歴史理解」に足りなかった部分である。
つまり歴史というものは(楽しみで読むのでない限り)個人の伝記を見るだけでなく、「全体の流れ」を把握することがより大事なのだ。それを教えてくれたのが、この林屋辰三郎の「南北朝」である。教えてくれたと言っても、私が勝手に気が付いただけなのだが、・・・まあ、どっちでもいいか。
1、南北朝動乱の全体像
平安末期に平氏を倒して権力を握った頼朝以下の鎌倉武士団は、陰謀・謀略の果てに北条氏が政治の実権を握った。この経緯はテレビの「鎌倉殿の13人」に描かれているので、ご存じの方も多いであろう。そして、蒙古襲来あたりから政権基盤が怪しくなり、源平の争いに続いて再び動乱が勃発する。そんな中、好機と見た醍醐天皇が武士の世を平安貴族の時代に戻そうと割って入り、天皇親政の幻想に日本国中を戦乱の渦に巻き込んだ。それが南北朝である。しかし時代は守護や地頭などの荒くれ者の集団が、それぞれの利益を主張して土地の領有を争う「下剋上の世」が静かに始まっていて、もはやどうやっても後戻り出来ない「ジェットコースター」に、そうとは気付かず乗り込んでしまった・・・って感じだ。
2、日本の国家体制の変遷
こうして奈良平安から鎌倉南北朝と歴史を通観してみれば、多くの人々の華々しい活躍の裏に、一つの、一方向に向かって流れている「社会の在り方」が見えてくる。社会は新しい食料生産技術の発明でますます人口が増え続け、膨れ上がった民衆の勢いが、安定した生活を求めて政治の表舞台に溢れ出して来る。そして徐々にではあるが、国家体制を「否応無しに変革する」ような大きなうねりに結集するのである。今までの価値観がガラガラと崩れる前触れが「承久の乱」で始まって、それに続いて「何でもありの南北朝」で爆発した。この「節操の無さ」は何所から来たのであろう。
3、個人の開放
こう考えると歴史の流れというのは、下層で虐げられている民衆が最初は部族として、次には律令体制の奴隷として、そして南北朝の頃には「武士を中心」とした郷単位の集団にと、それぞれ参加した「民衆の意識」が現れているのではないか。歴史とは1個の人間が、社会の中で「どう自分の存在を主張していくか」という、言わば「段階を踏んで」目標に到達していく壮大なドラマだとも言える。
また違った言い方をすれば、歴史は個人が「本当に個人として存在する社会」に向かって、たゆまなく動いているのだ。色々と紆余曲折がありながらも、結局は不可逆的な一方向に流れている。そう考えると今までの歴史を見る目が、より大きな「広い視野」で眺めらる気がする。人類はまだ、民族または国家または宗教集団などの形をとって「集団の利益」を奪い合っている状態だが、いずれそれぞれに属していた個人というものが開放され、もはや「集団の一部」として行動するのではなく、個人が「個人として」存在を主張するようになるはずである。
白人や黒人といった人種からは当然抜け出して、中国人や日本人という国家の線引きをも離れ、男とか女ですら自らの意識から消えて、いわば「一つの個人(または一個の宇宙)」という存在自身でいられる社会を、人類は太古の昔からずっと目指していた。歴史は大きく見れば、そんな社会に向かって歩き続けた行動の結果である。・・・こう考えて初めて「歴史を通観する視点」を持てるのだと思う。
秦の始皇帝からアレキサンダー大王やチンギス・ハーンを経て、現代のトランプ・プーチン・習近平までを「一つの歴史の必然性」の中に描き切ること。歴史が見えてきた「かも」知れない・・・
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この後、会田大輔著「南北朝時代」・森三樹三郎著「梁の武帝」・吉川忠夫著「王羲之」・小島毅著「中国思想と宗教の奔流」、そして檀上寛著「朱元璋」。以上5冊、全部まとめて Amazon で購入した。まだ読んでないが、なんか中国の王朝の盛衰に興味が湧いてきた。本ってやっぱり面白い!
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