明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

大岡信「紀貫之」を読む(1)

2018-06-20 22:08:45 | 芸術・読書・外国語
大岡信の「紀貫之」を読んでいる。と言ってもまだ40頁だが、ふと気がついたことがある。外国映画とくに私の好きな海外ドラマではよく、キーツやシェイクスピアやイェーツの短い文章を普通の会話の中で引用している場面が出てくる。生活の中に有名な誰でも知っているような詩やエッセーの言葉を引用することで、一つの複雑な他の言葉で説明することが難しい感情や思想を「相手と共有する」ことが習慣になっているのだ。これは文化でもあるのだろうと思う。日本も平安貴族社会の日常は、殆ど事あるごとに過去の歌を本歌取りして、重層的に自分のアイディアを加えて新規な作品にするということが行われていたと想像される。多少は意味合いが異ってはいるが、過去の文化的遺産が現代の生活に溶け込み活用されコミュニケーションの一つの有力な道具として意識されていた、というのは面白い。

現代では絶景を目の前にした時はすぐさまスマホのカメラに撮って、「インスタなどのSNSに上げる」ことで他人と感動を共有する。それは今目前にある景色の素晴らしさまたは自分の心に覚えた興趣を、誰か他の人に説明し理解して「いいね!」と言ってもらいたいという願いでもある。自分の感じた高揚する感情を誰かと分かち合いたい、と思う衝動は、人間共通のコミュニケーションを求める心と相通ずるものなのだろう。それは余りに美しい現実に「何か現実以上のもの」を見出しているということにほかならない。人は皆芸術を理解する能力は持っているのだ。ただ強弱・深浅・高低の差はもちろんある。作品の良し悪しを何となく感じてはいても、それを批評家のように言葉で上手く表現できないのが普通の人である。

私の紀貫之への理解は、大岡信の文章によってかなり開かれたと言える。というか、以前古今集に感じた平安初期貴族社会の「作り物の理屈っぽいやり取りに堕した」社交辞令じみた和歌に辟易してしばらく本を閉じていたのを、また読み直してみようという気にさせてくれそうな斬新な解釈と、詠み手の気持ちに沿った解説に感心したのである。詠み手の目の前の現実を美しいと感じるのは「単に現実の色・形・構造が綺麗だ」というだけで十分であるが、それでは単なる景色を賞味するという当たり前の感覚でしか無い。富士山を素晴らしいとどれだけ褒めても、それだけでは芸術と言うのには足りないのだ。その現実が「何か他のものと重ねることまたは、ほかの想像力を掻き立てる物語と絡めること」によって、つまり複雑な二重構造が相互の化学反応を及ぼし合う事によって「現実を超えた世界」を表出するのでなければならない。聞くものあるいは読むものの個人的な「過去の経験や有り得べき未来の出来事」と渾然一体となって混じり合うことにより、一層高い世界が生まれてくる。つまりは、それが一つの芸術体験なのである。

芸術は人と人の間のコミュニケーションを純粋に精神的に昇華させたものであるから、土台には必ず「共通の現実」がなくてはならない。古典期、すなわち万葉の時代はもとより伊勢物語の書かれた平安初期の宮廷文化華やかなりし頃から古今集の撰進された全盛期に至るまで、「現実」は常に目の前にあった。その明確な現実に対して「空想の味付けをする」のが言葉遊びであり「優雅な人となり」の証しであった。その空想がダジャレの場合もあれば、心を揺さぶる悲痛な想いを吐露する場合もまた日常的に行われていたのである。それらすべてをひっくるめて「和歌」だったのだ。

だが現代に置いては共通の現実と呼べるものはあっても「些末な諸事に埋もれて」しまい、ほとんど広範な個人を結びつけるコミュニケーションと位置づけるには余りに多様過ぎて役に立たないのである。さらに芸術を混迷の隅に追いやってしまった「驚くほど現実化した空想」の技術がある。古典期には空想とは目に見えないものだったが、今では体験が「現実と大差ないリアルさ」で我々に迫ってくる。いまや心に思い描くことの出来るものは「現実となって体験する」時代になってしまったのだ。VRとAIの進化が仮想世界と現実の垣根を超えて、もはや映画マトリックスの描くように「どちらが現実なのかわからなくなる」時もそう遠くないのではないだろうか。そのような時代的環境の中にあって我々の芸術に対する感覚はどんどん現実から離れて、もはや「まるごと空想の世界」に向かっている。もう、現実と仮想の二重構造は成立しないのだ。だから古今集が理屈を述べるだけの皮相な言葉遊びに終始していると私が感じたのも、ある意味では致し方ないことなのかもしれない。

大岡信の「紀貫之」は難しい本である。まだ40頁ほど読んだ時点だが、私はこのような理解をした。この先もまだまだ色んなことを考える事になるだろうが、少なくとも私の古典文学、就中和歌に関する鑑賞の「誤解」を解いてくれたのは望外の収穫である。

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