くまがえ先陣問答 ⑥
善光寺の如来様のご加護が、確かにあったのでしょう。桂の前は、無事に能登の国
に辿り着くと、早速に忠純の屋敷を訪ねました。熊谷次郎直実の姫であることを告げる
と、驚いた門番は、すぐに直家に取り次ぎました。久しぶりの兄弟の対面が、ようやく
実現したのでした。
忠純は、兄弟二人が揃ったことを、大変に喜びながらも、継母と季重の非道を大いに
憤り、
「父、直実殿の行方は知れぬが、この上は、鎌倉に下り、直家の本望を遂げてやろう。」
と、兄弟を連れて、鎌倉目指して下向することにしました。
鎌倉にやって来た忠純は、宿に兄弟を残して、御所に出仕しました。頼朝公の御前に
居並ぶのは、和田、秩父を左右にして、千葉、小山、宇都宮等々、八カ国の諸大名です。
頼朝公は、忠純をご覧になると、
「やあ、珍しや六弥太。北国に変わりはないか。」
と、声をお掛けになりました。忠純は畏まって、
「ははあ、君のお恵みが深いので、民の竈(かまど)も賑わい、に至まで、君、万
歳(ばんぜい)と仰いでおります。あっぱれ、尭舜(ぎょうしゅん:中国古代の伝説の
帝王)の御代をも凌ぎまする。一重に、源氏の御威光は、行く末久しい証拠です。」
と、申し上げました。頼朝公は、大いに満足されましたが、忠純は、直家のことを、ど
うやって切り出そうかと、思案をしていました。やがて、忠純は思い切って、秩父に向
かって、こう切り出しました。
「それがし、不肖の身をもって、能登の守護を給わりますこと、お家の面目、世の聞こ
え良く、この君恩に報いることにかけては、何事をも厭いません。しかしながら、その
一門に置いて、家の瑕瑾(かきん:傷)となることが起こりましたが、残念ながら、国
元にあり、お力になれませんでした。私が鎌倉に居れば、人手には掛けないで、私の手
で討ち捨たものを、大変に無念に思っております。重忠殿。」
さて、言われた秩父も、一座の人々も、勿論、頼朝公も、何のことか分からず、あっけ
に取られています。忠純は、即座に、
「やはり、このことは、頼朝公は、ご存じ無いのだ。平山と継母の計略であることに間違いはない。」
と思い、さらに続けて、こう言いました。
「されば、君の仰せにより、熊谷の小次郎直家は、平山の手勢によって討たれました。」
聞いた、頼朝は、そんな命令は下していないと、大いに驚いて、すぐに、平山を召し出
すように命じました。やがて現れた平山季重に、頼朝公は、
「いかに、平山。誰が命じて熊谷の小次郎を討ったのか。」
と、言いました。季重は、はっと思いましたが、さわらぬ様子で、
「ははあ、直家、信濃の国で討たれたとの知らせを受けて、私も親類縁者でありますの
で、無念に思い、急いで、君に報告をし、敵を討とうと思っておりましたが、山賊に襲
われたものか、同輩の恨みによって討たれたのか、事の子細が判らず、調べをしており
ますうちに、これまで、時を過ごしてしまいました。私が討ったなどということは、思
いもよらぬこと、宜しく敵討ちをお申し付けください。」
と、まことしやかに答えました。そこで、忠純は、
「いかに、平山殿、私が、能登で聞いた話では、君のご命令で、御辺が、討ったと聞い
たのじゃが、それは、我らの空耳であったようじゃの。しかしながら、ここは御前であ
るぞ。少しの虚言もいたされるなよ。ほんとにそうなのだな。」
と、ねじ込みました。季重は、
「これは、情けないことを、岡部殿は、彼らと親しき仲とはいえ、そのような僻事(ひ
がごと)を言われる謂われはない。私とても、どこにも逃げようもない。そなたこそ、
なんの証拠があって、御前で、そのような僻事を申されるか。」
と、涼しい顔で、言い訳を押し通しました。忠純はこれを聞いて、
「さてさて、それでは、私が誤りましたか。しかし、もし証拠がでてきたなら、その時
の返答をよっく考えておくんだな。」
と、言い捨てると、忠純は、頼朝公に向かって、
「さて、君に申し上げます。直家は、戦場にて討ち死にするところを、郎等安高の諫め
によって、能登の国に落ち延びました。そのことを直々に言上申すため、直家を止め置
き、この度、召し連れて参りました。君の御慈悲によって、何卒、直家を召し出されて
事の次第をお尋ね願いたく存じます。」
と、申し上げました。早速に、使いを立てて直家を迎えにやると、やがて、直家が御所
に上がりました。直家は、平山を見るなり、
「やい、平山。いつぞや、私が物詣での折りに、やみやみと打ち負けたこと、未だ無念
の極み。既にその時、討ち死にする我が身ではあったが、平山が私軍の企みを暴くため、
後ろを見せて落ち延びたのだ。定めし、御辺は、直家討ったりと思ったか。季重。」
と、睨み付けました。これには、弁舌達者な季重も、何の返答もできず、赤面して俯く
ばかりでした。頼朝公は、
「前代未聞の曲者なり、季重に切腹申しつけよ。継母は、女のことなれば、助命して国
払いとせよ。さてまた、直家には本領安堵。妹桂の姫は、五條の中将俊実に縁付かせよ。
父、直実は、都、黒谷(比叡山)に有ると聞く、桂の前を都に上らせ、父が先途を見届
けさせるのだ。」
と、ご英断なされて、やがて御判を下されました。
直家は、謹んで、有り難し、有り難しと、三度戴き、意気揚々と御前を立ちました。
その後、平山は切腹。北の方は、武蔵の国から追放されました。桂の前は、都に上り
俊実卿の御台と備わったのです。さて、直家は、熊谷に凱旋し、富貴に栄えました。
かの直家の威勢の程
貴賤上下、おしなべて
皆、感ぜぬ者こそなかりけり
おしまい
天満八太夫正本 (宝永年間)
大伝馬三丁目
鱗形屋孫兵衛板