しだの小太郎 ③
小山太郎は、信田殿が浮嶋大夫の城に身を寄せ、戦の準備を始めたことを知ると、
「まだ、力を付けない内に、先手を取って討ち滅ぼせ。」
と、横須賀を大将にして、出陣しました。五百余騎で、攻めましたが、敵わず、大勢の
死者を出して敗走したのでした。二番手は、小山の舎弟、三郎行光が、三千余騎の兵力
で城を取り囲みましたが、それでも手に負えませんでした。これを見た小山は、驚いて、
総力を挙げて、小山自身が出陣することになりましたので、常陸・下総の両国が、から
っぽになりました。さすがに浮嶋の城も、大軍に攻められて、一の木戸、二の木戸が
破られ、浮嶋大夫の軍勢は、詰めの城に閉じこもることになりました。浮嶋大夫は、大
手の櫓に上ると、大音声に言いました。
「如何に、子ども達よ。世にある人を主人とすれば、命も惜しくなるが、今日を生き延
びて、出世をしようなどと思うなよ。さあ、子供ども、討ち死にせよ。我も心静かに
最期を迎えるぞ。子供達は何処へ行った。」
それから浮嶋の大夫は、大弓を手にして、矢櫃(やびつ)三つを肩に掛けると、
「やあ、女房よ。こっちへ来て、狭間(さま)を開けてくれ。」
と、言いました。女房は、生年56歳。残り少ない髪の毛を、唐輪(からわ:髪型)に
結って、大手の櫓に駆け上がると、
「どうしたのじゃ、子ども達は。遅いぞ、何をしておる。」
と、出陣を急かしました。
さて、浮嶋大夫は、その日が最期と覚悟して、堂々たる装束でした。龍を縫った直垂を着て、
鬼形を描いた籠手をはめています。熊の皮で拵えた揉みの足袋を履き、白銀で縁金した
白檀磨きの脛当てを、開口高(あぐちだか:上に引き上げて)しっかりとはきました。
獅子に牡丹の脇楯(わいだて)に、緋縅(ひおどし)の鎧を付けて、肩上(わたがみ)
を懸け、草摺りを長く垂らしました。上帯をしっかりと締めるその姿は、今こそ、巳の
時に輝くばかりです。
さらに、右の脇には、九寸五分の鎧通し(短刀)を差し、左の脇には、一尺八寸の打
ち刀に、三尺八寸の赤銅造りの太刀を差し、背中には、切斑(きりう)の矢を四十二本、
筈高に背負いました。五枚兜の緒をきりっと締めて、白綾の母衣(ほろ)を被ると、塗
籠弓(ぬりごめゆみ)の四人張りに攻めの関弦(せきづる)を懸けさせた、剛の者しか
扱えない弓の真ん中を横持ちにするのでした。
そして、七寸八分(ななきはちぶ:馬の丈四尺を基準として、それよりも七寸八分高
い)の六歳馬に金覆輪(きんぶくりん)の鞍を着けて、ゆらりと跨がるのでした。
やがて、兄弟4人がそれぞれの馬に乗って、場外へと出陣しました。敵も味方も、あっ
ぱれな武者ぶりであると、誉めない者はありません。浮嶋大夫は、櫓からこれを見て、
「おお、あれを見なさい、女房よ。何れも劣らぬ器量の子ども達よ。これほど立派な
子ども達を、世に送り出しておきながら、領主にしてやることもできずに、殺してしま
う口惜しさよ。早、死ね子供どもとは、言いながら、今日を限りのことであるから、今
一度、よっく顔を見せよ。」
と、さすがに剛の浮嶋も、涙をはらはらと流すのでした。女房もこれを見て、涙が溢れ
て仕方ありませんが、悲しみを振り払ってこう言うのでした。
「老いぼれたか、大夫殿。泣いている場合じゃ無いぞえ。ええ、如何に、子ども達よ。
戦は、心が剛であるばかりで、兵法を知らなければ勤まらぬぞ。味方が、無勢である時
の攻め方は、「魚鱗」「鶴翼」の陣形ぞ。魚鱗というのは、魚の鱗の形で突っ込み、鶴翼
とは、鶴の羽の様に、敵を包囲するのじゃ。
駒の手綱さばきがへたくそでは、向かう敵を切られぬぞ。向かう敵を切るときは、蹴
上げの鞭をちょうど打て。表返しの手綱をすくって、拝み切りに切り捨てよ。左側の敵
には、反対の手綱をさっと引いて、葱行(そうこう)の鞭を打って、切るのじゃ。父も
母も、これにて見ておるぞ。桟敷の前の晴れ戦に不覚を掻くな。子供ども。」
浮嶋の女房は、子ども達に檄を飛ばし、勇気づけるために、狭間の板を打ち叩いて、か
んらかんらと笑うのでした。さあ、血気盛んの子ども達は、父にも母にも、気合いを入
れられ、叫び声を上げて駆け出しました。敵勢に駆け込んでは、さっと引き、また、駆
け込んでは、さっと引き、五、六度の競り合いで、河原の石より多いのは、敵の死人でした。
女房は、これを見と、我慢ができなくなって、
「ええ、子ども達が面白いように戦うわい。よし、後ろ詰めをしてやろう。」
と、被っていた布を、ぱっと脱ぎ捨てると、その下は、なんと武者姿です。紅の袴に、
膝鎧(ひざよろい)をつけ、脛当てもしています。大夫が使っている黄楊(つげ)の棒
を、持ち出すと、大手の門を押し開いて、馬に打ち乗り駆け出しました。
「只今、ここに、進み出たのは、津の守頼光(らいこう:源頼光(みなもとよりみつ))
に五代なる渡辺党(渡辺綱)の大将軍、弥陀の源次が娘、弥陀夜叉女(みだやしゃにょ)であるぞ。
二つと無きこの命を、信田殿に奉る。我と思わん者は、いざ、尋常に勝負せよ。如何に、
如何に。」
と呼ばわったのでした。浮嶋大夫は、その有様を櫓の上からつづくと見て、
「おお、子供が剛なるのも道理である。これほどの者達が、親子兄弟、夫婦となって、
ここで戦うのも、不思議な巡り合わせ。如何に、信田殿。こちらへお出でになり、女の
戦をご覧下さい。
平の将門公の御目には、瞳が二つあり、八カ国の主となられました。あなた様にも
左の目に瞳が二つありますから、必ず坂東八カ国の主となられます。我等も、そのお姿
を目にしたいとは思いますが、武士としての恥を掻かぬ為、皆、討ち死にの覚悟。
あなた様は、小山に生け捕られても、命長らえて喜びの時をお待ちなされて下さい。
必ず、二十五歳までには、ご出世なされることでしょう。さて、最早これまで、さらば。」
と、言い残すと、櫓からゆらりと、飛んで降りました。
浮嶋太夫は、大荒目(おおあらめ)の袖を引き抜いて、からりと捨てると、胴の鎧だけとなり、
箙刀(えびらかたな)、首切り刀を三腰まで差しました。更に、その日の最後の武器と
して、女房の長刀を手にすると、四尺五寸の柄を、更に二尺伸ばしました。数矢(かず
や:足軽の矢)を取って、ばっさりと切り捨てると、
「むう、なかなかの切れ味。」
と、打ち肯いて、
「南無三宝、南無三宝。どれ程の者達がこの長刀に当たって、死ぬことか。さあ、最期に
目に物見せてくれる。のう、女房よ。」
と言うと、夫婦諸共、城外へと駆け出ました。余りの勢いに、向かって来る者もありません。
さて、棒を使う兵法には、芝薙ぎ、石突き、払い打ち。長刀の兵法には、浪の腰切り、
稲妻きり、車返し。やあとばかりに、女房が突進して行けば、大夫が後から切り回り、
敵陣に向かって切って入りました。これを、物に例えるならば、天竺州(天竺将棋)の
戦いで、歩兵(ぶひょう)が先を駆け回れば、王行(おうぎょう)角行が、駆け出で、
金銀桂馬が駆け回れば、太子が襲いかかるようなものですが、弥陀夜叉女と浮嶋大夫
の戦いぶりは、将棋盤の戦いには比べものにもならない程の凄まじさでした。しかし、
寄せ手の軍勢は数多く、やがて、五人の子ども達も散り散りとなり、とうとう一人も残
らず討たれ、大夫の長刀は三つに折れ砕けてしまいました。それでも浮嶋大夫は、大手
を広げて、打ち組むと、敵の首を捻じ切り、引っこ抜き、人礫に投げ飛ばし、また幹竹
割(からたけわり)に引き裂いて、死力を尽くしましたので、向かって来る敵もいませ
んでした。やがて、浮嶋大夫は、
「こんなに沢山の人を殺したのでは、未来の業となる。さあ、これで最期。いざ、姥御前よ。」
と、互いに刀を抜き持つと、刺し違えて往生したのでした。この二人を惜しまぬ者は
ありません。
つづく
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