猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 3 説経松浦長者⑤

2011年11月19日 18時00分05秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

まつら長者(小夜姫)⑤

 祭壇の三階に取り残された小夜姫は念仏を唱えて続けています。群衆は、今か、今かと大蛇の出現を待ちながら、ざわめいておりましたが、待てど暮らせど、何も起こりません。やがて、人々は、神主がいらざる唱え事をしたから、大蛇が機嫌を損ねたと言い出しました。大騒ぎになった群衆は、恐ろしいことになったと浮き足立つと、我先にと逃げ帰り、家の木戸を閉じて屋内に閉じこもり、物音ひとつしなくなりました。

 誰もいなくなった池の祭壇で、なおも小夜姫は、一人ぽつねんと念仏を唱えていましたが、やがて、俄に空がかき曇り、激しい風雨となりました。雷が鳴り響き、突風が吹き、池が波立つと、その丈、十丈あまりの大蛇が水を蹴立てて、忽然と姿を現しました。

 大蛇は、小夜姫をひと飲みにしようと、口より火炎を吹き出して襲いかかろうとします。大蛇が首をもたげて祭壇の三階に顎を乗せましたが、小夜姫は凛として騒がず、父の形見の法華経を掲げると

「いかに大蛇、汝も生ある者ならば、少しの暇を得させよ。汝もそれにて聴聞せよ。」

と言うと、法華経を声高らかに読み上げました。

「一者梵天、二者帝釈、三者魔王、四者転輪聖王、五者仏神、

 うんが女身、即身成仏、そもこの提婆品と申せしは、

 八歳の龍女、即身成仏の御理(ことわり)なれば

 汝も蛇身の苦患(くげん)を逃れよ。」

そして、小夜姫が、経をくるくると巻き上げて、大蛇の頭を打つと、十二の角がはらと落ち、さらに、この経を戴けと、上から下へと撫でまわすと、一万四千の鱗が、一度にざざっと落ちました。その有様は、三月の頃に門桜が散り行くようです。すると大蛇は、そのまま池に入ったかと思う間もなく、十七八の女の姿となって、現れました。

「いかに、姫君。私は、子細あってこの池に棲むこと九百九十九年。その年月の間に九百九十九人の人身御供を取りました。今ひとり服すれば千人というところで、あなたのような尊き人に出会うとは、誠に有り難き幸せです。お経の功力(くりき)によって、たちまちに大蛇の苦しみから逃れ、成仏得脱いたしました。お礼に、この竜宮世界の如意宝珠を差し上げます。この玉は、思う宿願の叶う玉。目が悪ければ目に、腹が悪ければ腹に当ててなでれば、たちまちに治ってしまいます。」

龍女の話を、呆然と聞いていた小夜姫でしたが、玉を受け取ると、ようやく安心をして、ほっと溜息をつきました。龍女はなおも続けて、

「私の生国は、伊勢の国の二見浦(三重県伊勢市二見町)ですが、継母の母に憎まれて、

家出をいたしましたが、人商人にだまされて、あちらこちらと売られて、ここの十郎左右衛門に買い取られました。その昔、ここには川が流れておりましたが、橋を架けても毎年流されてしまいます。そこで、陰陽の博士に占ってもらった所、見目良き女房を人柱にすれば、橋は流されなくなるという占いが出ました。まったく、恐ろしい占いです。

村の人々は、そんなら神籤(みくじ)を作ろうということになって、身御供の役を引いたのが主人の十郎左右衛門でした。そうして、私が、人柱に沈められることになったのです。私は、あまりの悲しさに、こう言いました。『八郷八村の里に人多いその中で、私だけを沈めるなら、丈、十丈の大蛇となって、村の者達を取っては服し悩ましてやる』

私は、そうわめきながら、沈められ、とうとう大蛇になってしまったのです。九百九十九年に一人ずつの人を取り、その報いには、鱗の下に九万九千の虫が棲み、この身を攻める苦しみは、例えようもありません。このような時に、あなたと出会えたことは、一重に仏様の引き合いです。」

と、喜ぶのでした。食べられても構わないと覚悟していた小夜姫でしたが、ようやく得心して、龍女に向い、

「いかに大蛇、私は、大和の国の者であるが、奈良の都に、母一人を残してきました。母が、どうしておられるかが、一番の気がかりなのです。」

と言いました。すると、龍女は、

「それでは、私が送ってあげますので、ご安心なさい。」

と言いました。

 小夜姫が、太夫の館に戻ると、太夫夫婦は飛び上がって驚きました。小夜姫が、事の次第を語って聞かせると、太夫夫婦は大層喜んで、都に帰らずにここに留まるように勧めました。しかし、小夜姫は、その申し出を断って、早々に館を出ると、こんなところにいつまでも居られないと、再び池へと急ぎました。

 池で待っていた大蛇は、小夜姫を龍頭に乗せると、そのまま池の中へどぶんと入りましたが、瞬きもしない間に、大和の国は奈良の都、猿沢の池(奈良公園)のほとりに小夜姫を担ぎ上げたのでした。

 さて、この大蛇は、姫を降ろした途端に龍となって天に昇り、再びこの池に戻りませんでした。この池を「去る沢」の池と言うようになったのはこの時からです。そしてこの大蛇は、衆生済度を行うため、壺阪の観音様となったのでした。

 大蛇と別れた小夜姫は、急いで松谷の館に帰りますが、館の荒廃は著しく、人の住む気配もなく、母の姿はありませんでした。

つづく


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