天満八太夫 宝永年間 (説経正本集第3(34)天理本)
幸若の「信田」(幸若小八郎:慶長十六年)の簡略版という風情の作品である。残って
いる本の所属や出版年代は不明で、天満八大夫、宝永年間と推定されている。幸若の「信
田」と比較すると無理矢理な省略が、随所に散見される。人売り、流浪、道行きと、説
経らしいモチーフは、有るにはあるが、やや粗雑な作りになっていると言わざるを得な
い。古説経の凋落を感じさせる作品である。
常陸の国を治める相馬家は、平将門の末裔である。ところが、嫡子である信田小太郎
は、姉婿の小山に追われて、落ちぶれて流浪を余儀なくされる。姉も追い出され、小太
郎を捜して流浪する。小太郎と姉は再び巡り会い、最後には、敵を討ち、自分の国を取
り戻す。
しだの小太郎 ①
承平(しょうへい:931年~938年)年間は、七年間で終わり、天慶(てんぎょう:
938年~947年)の九年間の後、天暦十年(956年)の3月の末のことでした。
相馬殿の姫君は、小山の太郎行重(おやまのたろうゆきしげ)の所に嫁ぎました。父の
相馬殿は、既に亡くなっておりましたので、小山は、相馬殿の供養を、大変厚く営んだのでした。
信田(しだ:信太郡、茨城県の霞ヶ浦西岸部)にいらっしゃった、御台様は、この様子を聞くと、
「小山殿は、心の優しい方ですね。どうでしょう、浮嶋大夫(相馬家家臣)。相馬殿は、
御最期の時、きっと忘れてしまわれたのだと思いますが、沢山の領地があるにもかかわらず、
姫には、一所も所領をお与えになりませんでした。婿の小山殿の望みもありことですから、
信田の庄を、半分、小山殿に与えては、如何でしょうか。そうすれば、信田にとって
頼もしい後ろ盾になることでしょう。百騎二百騎の雇い兵を頼まなくても、小山が、先
に立って守ってくれるでしょう。どうですか。」
と、仰いましたが、浮嶋は、返事もせずに、俯いたままです。しばらくして、浮嶋大夫は、
「どうか、剛の者の悪い行いを、お忘れならぬように。弓取りの娘は、必ず、他人とな
り、婿は、居城の近くに置くべきではありません。移り変わるのが、世の習い。人には、
貪欲、虚妄(こもう)という欲心を内に秘めており、いくら親しくとも、すぐに疎まし
い関係になるものです。できることならば、折々の引き出物の宝を尽くしても、所領
においては、一切、お与えになってはいけません。」
と、すっぱりと言うと、御前を下がりました。御台所は、これを聞いて、
「相馬殿に過ぎ遅れて、いつしか、家臣の者さえ、私を軽んじるようになりました。果
報も尽き果ててしまったようです。もっともらしい顔をして、家を持って暮らしていて
も仕方無い。」
と、息子の信田殿(信田小太郎)に、暇を乞い、遁世すると言い出しました。驚いた信田殿は、
「もう、明日は、なんとでもなれ。たった一人の母上のお考えを、かなえてあげましょう。」
と、信田の庄を半分、母上に献上したのでした。喜んだ御台所は、信田の庄の半分を
小山の太郎へと与えました。これには、小山も喜んで、姫君を伴って、早速、信田の
館へと移って来たのでした。
相馬家代々の郎等は、小山に従い、日々に出仕しましたが、浮嶋大夫親子六人は、従
いませんでした。浮嶋大夫は、
「御台からの信頼も失って、万事につけて、悪いことばかりが重なり、世の末も危うい。
しかし、最早、没落は避けられまい。いつまでも、相馬家にしがみついていても仕方ない。」
と、思い切ると、下の河内(河内郡:こうちぐん:信田郡の南部)に隠居してしまいました。
御台は、このことを聞くと、
「浅はかな浮嶋大夫じゃな。大夫が居ないとは、世間体も悪い。しかし、小山が居れば、
問題はないであろう。」
と、思うのでした。相馬家を支えていた浮嶋大夫が居なくなり、まだ、信田殿も幼少
であったため、御台は、家に伝わる宝物や重要な文書を、小山に預けることにしました。
小山は、預けられた、将門代々の証文を見て、つぶやきました。
「何々、信田、玉造(現茨城県行方市:霞ヶ浦北西岸部)、東条(信田郡の東側地域)
は、八万町。なんと、広大な領地であろうか。このうち、一万町でも手にするだけでも、
何の不足も無いところだ。ましてや、常陸、下総の長官となるならば、思うがままだ。
俺以外に、それに相応しい者は、この国はおるまい。」
小山には、むくむくと、大欲心が湧き上がりました。小山は、熊野詣を口実にして、
直ぐに都へ上り、朝廷に参内すると、相馬家の弱体化を報告し、自分に本領を安堵する
ように奏聞したのでした。朝廷への数々の貢ぎ物の効果もあって、やがて、小山に対し
て本領が安堵されたのでした。小山は、喜んで常陸へと帰りました。小山は、邪魔にな
る、信田殿と御台所を、殺してしまうかとも思いましたが、流石に、表だった理由も無
いので、国外追放にすることにしました。
信田の館に、突然、国払いの使いがやって来ました。御台所は、
「いったい、小山殿の心には、如何なる天魔が入り込んで、その様に、狂ってしまった
のでしょうか。ああ、浮嶋大夫の言葉通りになってしまった。なんということでしょう。」
と、泣き崩れる外はありません。しかし、情けも無い小山は、手のひらを返して振る舞
い、嘆願を受け入れなかったので、御台所と信田殿は、泣く泣く御所を後にしたのでした。
御台所は、甲斐の国の板垣(現甲府市里垣町)の知人を頼って、落ちることにしました。
しかし、『いたがき』(居るに掛ける)と言うのに、尋ねる人は、居ませんでした。仕方なく、
御台と信田殿は、とある荒ら屋に宿を借りておりますと、そこに、譜代の郎等達が駆け
つけて来ました。猿島兵衛、村岡五郎、岡部彌太郎、田上左右衛門ら、以上十一名です。
御台の喜びは一入です。猿島兵衛は、こう言いました。
「私の祖父が、相馬家の家臣となってから、私で三代。承平の合戦よりこの方、一度も
不覚は取ったことがなかったのに、信田殿も幼く、私も若輩者で、小山に卑しめられて、
無二の本領を取り上げられたとは、無念の限り。このような事態に、いつまで我慢でき
ましょうか。敵は、多勢ではありますが、無勢の我々にできることは、夜討ちを掛ける
事以外にはありません。勝手知ったる御所に、三方より火を掛け、一方より切って入れ
ば、千騎万騎が来ようとも、小山を討つことができまする。」
岡部彌太郎は、これを聞くと、
「何を、しょうもないこと。こちらに理があるのに、殊更事を荒立てることは無い。
一問答、二問答、三問三答(さんもんさんとう:訴訟手続き)を行って、敗訴しても、
越訴付款(おっそふかん:再審請求)と言って、再度、訴訟を取り上げるのが法というもの。
ましてや、この事は、一度も訴訟に掛けたわけでは無い。君に報うためには、これより、
申し直しをして、安堵を給わることであろう。小山は、全くの他人。若君が、相馬家の
御曹司であることは、世に隠れ無き事実である。例え、証文が、小山の手元にあったとしても、
盗み取られたとの所見を立て、何とかして、取り返そうではないか。」
と、理路整然と言うのでした。人々もこれに賛成すると、信田殿にお供して、都を目指して
旅立ちました。この人達の心中を誉めない者は、ありませんでした。
つづく
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