なぜ侍たちは、茶の湯に魅せられたのか?
武士はいつも死と隣り合わせにいました。
命を賭してその任務に就いていた彼らは、
いざという時には迷いを断ち、自己の限界に挑んだのです。
そんな彼らを精神的に支えたのが禅です。
鈴木大拙老師は、
「禅は、道徳的には決めたことはやり遂げる意志の力と行動力。
哲学的には、生と死を無差別に取り扱うことで彼らに受け入れられたのだ。」
と説明しています。
生と死は、対照的でコントラストが鮮やかです。
侍は常に死を覚悟していましたから、だから生が輝いたのです。
現代は、死が見えない、といより、死は隠蔽されています。
誰も死なないと思っているかのように私たちは日々生活しています。
生きる・死ぬ、の境が見えてこないのです。私たちは、生きていない。
生き生きと生きていないのです。
だから、いとも簡単に死を選んでしまうのかもしれません。
死を覚悟したとき、その対面にある生が輝きます。
闇があるから光が輝くように・・・。
死は忌むべきものではなく、生きるために避けて通ることはできません。
かけがえのない命を賭して物事に臨むからこそ、
物事が成就するのではないでしょうか。
そんないつも死と隣り合わせにいた彼らを
別世界へいざなってくれたのが、
茶の湯です。
再び、鈴木大拙老師によると、
「禅の茶道に通うところは、いつも物事を単純化せんとするところに在る」
と述べています。『禅と日本文化』
茶の湯は、掃除をし、水を汲み、火をおこし、食事の用意をし、
しつらえを行い、お客様をお迎えします。毎日の生活そのものです。
言語を用いず、坦々と行動することで、
トランスに入っていたのではないでしょうか?
トランスというのは、変性意識状態です。
リラックスしていますが、集中している状態のことです。
剣は闘争の中でトランス状態を作り出しますが、
茶の湯は自然と平和の中でそれを作り出すことが出来たのです。
入門を許可されることそれ自体が、
彼等にとって大きなステータスでしたが、
一つ一つの稽古を行い、
積み重ねて学び、成長することは、
常に高みに登らんとすることを自らに課していた侍たちには
魅力的だったことでしょう。
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