本来の「TVドラマ」とはまったく「別の品」という意味では,本当に「べっぴんさん」だった。
半年を費やして,一人のヒロイン,ひとつの家族,ひとつの企業等々の盛衰を,数多くの登場人物に幾つものエピソードを語らせながら綴っていく。そういう朝ドラのフレームワークを,完全に無視することから生まれたドラマは,信じられないほど貧弱で,ドラマの抜け殻と言うしかないものになっていた。
そもそも「キアリス」の一企業としての成功譚がきちんと描けていないというのが決定的な欠点ではあったのだが,すみれ(芳根京子)の家族,特に娘や孫娘の成長に関するエピソードは,幼すぎる役者を抜擢したキャスティングのミスも含めて,目を覆うばかりだった。カメラを分解した孫が,靴の製造過程に興味を持った祖母と共通した性向をもつことが分かったとして,それが一体如何なることを表現したかったのか,ひたすら理解に苦しんだ。
更に言えば,急成長したAISが凋落の一途を辿るというプロットも,予兆やそれに対して栄輔が対抗策を取るといったエピソードがまったくないために,説得力を持ち得なかった。唐突に制作された「育児映画」に至っては,悩めるお母さんのためになる以前に,頭の中に無限の「?」を生じただけなのではなかったか。
そもそも劇中の会話という会話が,やり取りによって感情や論理が転がっていくという一般的なパターンを意識的に拒否しているためなのか,すべて尻切れトンボに終わってしまうというのが致命的だった。
ドラマであるのに基本となる会話を書けない脚本家,特に万博以降の時代,役者に加齢を意識させるためなのか数少ない台詞を過剰にゆっくりと喋らせたり,導入も展開もないのにいきなり余韻過剰に持って行く演出,主役4名の笑顔のカットバックがお約束の編集,白玉流しを多用した叙情過多の音楽,途中退場した登場人物のその後がまったく描かれない展開,役者の年齢を狭い幅に集中させ過ぎたために経年変化が「わざとらしい」を通り越して,痛々しい領域に達していたキャスティング,ありとあらゆる要素が「史上最低の朝ドラ」という勲章を,必至になって輝かせているようだった。
最終週の同窓会的な感傷の押し付けは,この前代未聞のドラマの本質を象徴するという意味では,一種のスペクタクルと言っても良かった。とにかく空疎な15分の積み重ねが予想通りの展開で締め括られたことに安堵しつつ,出演した俳優に呪いがかからないことを祈る。
☆
(★★★★★が最高)
半年を費やして,一人のヒロイン,ひとつの家族,ひとつの企業等々の盛衰を,数多くの登場人物に幾つものエピソードを語らせながら綴っていく。そういう朝ドラのフレームワークを,完全に無視することから生まれたドラマは,信じられないほど貧弱で,ドラマの抜け殻と言うしかないものになっていた。
そもそも「キアリス」の一企業としての成功譚がきちんと描けていないというのが決定的な欠点ではあったのだが,すみれ(芳根京子)の家族,特に娘や孫娘の成長に関するエピソードは,幼すぎる役者を抜擢したキャスティングのミスも含めて,目を覆うばかりだった。カメラを分解した孫が,靴の製造過程に興味を持った祖母と共通した性向をもつことが分かったとして,それが一体如何なることを表現したかったのか,ひたすら理解に苦しんだ。
更に言えば,急成長したAISが凋落の一途を辿るというプロットも,予兆やそれに対して栄輔が対抗策を取るといったエピソードがまったくないために,説得力を持ち得なかった。唐突に制作された「育児映画」に至っては,悩めるお母さんのためになる以前に,頭の中に無限の「?」を生じただけなのではなかったか。
そもそも劇中の会話という会話が,やり取りによって感情や論理が転がっていくという一般的なパターンを意識的に拒否しているためなのか,すべて尻切れトンボに終わってしまうというのが致命的だった。
ドラマであるのに基本となる会話を書けない脚本家,特に万博以降の時代,役者に加齢を意識させるためなのか数少ない台詞を過剰にゆっくりと喋らせたり,導入も展開もないのにいきなり余韻過剰に持って行く演出,主役4名の笑顔のカットバックがお約束の編集,白玉流しを多用した叙情過多の音楽,途中退場した登場人物のその後がまったく描かれない展開,役者の年齢を狭い幅に集中させ過ぎたために経年変化が「わざとらしい」を通り越して,痛々しい領域に達していたキャスティング,ありとあらゆる要素が「史上最低の朝ドラ」という勲章を,必至になって輝かせているようだった。
最終週の同窓会的な感傷の押し付けは,この前代未聞のドラマの本質を象徴するという意味では,一種のスペクタクルと言っても良かった。とにかく空疎な15分の積み重ねが予想通りの展開で締め括られたことに安堵しつつ,出演した俳優に呪いがかからないことを祈る。
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(★★★★★が最高)