子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「ブルー・バレンタイン」:苦い結末を許容するハリウッドの懐を垣間見る

2011年05月07日 20時36分52秒 | 映画(新作レヴュー)
ライアン・ゴズリングにミシェル・ウィリアムズ。アメリカという国は映画大国ではあっても,押しも押されぬメジャー・スター二人を配しながら,こんなビターでダークな恋愛劇を作る所だとは思わなかった,というのが正直な感想だ。冥界のヒース・レジャーも,元婚約者の勇気と創意に溢れた仕事に拍手を送っているかもしれない。

感触が似ている作品としてニコラス・ケイジとエリザベス・シューによる「リービング・ラスベガス」を思い出したが,あれは正確に言えば,アルコール中毒の悲劇を取り上げた「失われた週末」以来ハリウッド映画の伝統となった,由緒正しき「破滅型ヒーロー」ものに連なる作品だった。
そう見てくると,本作のように登場人物が抱える個人的な問題を扱ったサブ・プロットを挟まずに,男女間の感情の揺れと動きだけにスポットを当て,愛し合っていた男女が望まない破局に向かって転がっていく姿を執拗に追いかけた,正統派の夫婦映画というのは極めて珍しいような気がする。

夫婦二人の間に,取り立てて何か大きな事件が起こる訳ではない。特殊なシチュエーションといえば,二人の間の娘が,夫(ゴズリング)の実子ではなく,妻(ウィリアムズ)の元の恋人との間に出来た子供であるという点と,冒頭で一家で飼っていた犬が逃げ出し,轢死体で見つかるという事故が描かれるくらいだ。
敢えて言えば,夫が定職に就いておらず,一家の家計を看護士である妻が支えているということが,二人の力関係に影を落としてはいるが,それ以上に物語を動かしていく大きな力は,二人の会話のすれ違いが積み重なることによって生ずる摩擦熱に外ならない。
だからこれは,燃え上がるような感情が時間の経過と共に冷めていく過程を冷静に見つめる「ハードな恋愛映画」であると同時に,継続的な意思疎通というものの困難さを描いた,コミュニケーションに関する映画にもなっているのだ。

だが,そういった視点から見ても普遍的な成果を挙げているのかと問われたならば,正直なところ,答には窮してしまいそうだ。
監督のデレク・シアンフランスは,構想から11年に亘って脚本を改訂し続けたと言うことだが,二人の感情と理性の流れを的確に捉えるために採った,時間軸を自由に動かす手法は,ゴズリングの頭髪とウィリアムズの表情の変化によって一定の効果を挙げながらも,結局は「過去の輝きは取り戻せない」という諦念に収斂されていく展開は,たとえハリウッドでは珍しくとも,日本のウェットな私小説を読み慣れている観客には紋切り型に映ってしまう危険性が高いだろう。
ウィリアムズの演技からほとばしり出る熱は,忘れ難いものがあるが,黄金週間の日本で多くの観客を唸らせることは難しいと見た。
★★★
(★★★★★が最高)


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