Are you Wimpy?

次々と心に浮かぶ景色と音。
そこからは絶対に逃げられないんだ。

★「ネット小説大賞」にもチャレンジ中★

16.パリの風景

2020年01月17日 | 日記
賑やかな話し声で僕は目を覚ました。

サイドテーブルに置いてあった小さな時計に目をやると8時ちょっと前を指している。

昨夜は着の身着のまま熟睡してしまった様で,ホテルのセントラルヒーティングのお陰でホカホカとした部屋の中で快適な朝を迎えて気分は爽快だった。

布団の上でヒトらしく眠るのも3週間ぶりだ。

牧師は昨夜出掛けたまま戻っていない様子で,僕は半開きのドアの向こうから聞こえる賑やかな声に吸い寄せられるみたいにフラフラと部屋の外へ出た。

入り口すぐ右手のフロントから威勢のいい声が聞こえた。

「ボンジューフ️」

反射的に片仮名の「ボンジュール」で答えると,フロントで歓談中だった若い男性2人が愛想の良い笑顔で話しかけてきた。何を言ってるのか全く理解できなかった僕は「メルシー」とだけ言ってから逃げる様にして階下へと降りた。急いで駆け降りる僕の背中に投げられた嫌味のない笑い声が心地良かった。

ホテルの前に飛び出してみると,昨夜とは違った動的な雰囲気が漂っていて少しドキドキしたが,朝の澄んだ日差しの中で陽気な声が溢れているのに安心感を覚えて,そのままトボトボと無意識に僕は歩き始めた。

すれ違う人たちがこちらへ軽く視線を向けるのが気になる。髭や髪の手入れをしていないアジア人がモスグリーンのフィールドコートのポケットに両手を突っ込んで背中を丸めながら歩いていたらさぞかし不気味なんだろうと納得して,僕は誰とも目が合わないように下を向いて歩き続けた。

石畳の繋ぎ目を追う様にしてそそくさと歩いていると,通りを挟んだ向こう側からオモチャのラッパみたいな音がパッと聞こえた。

咄嗟にそちらを見ると,中年のパリジェンヌ2人が僕の方を見ながら尻の辺りで手をパタパタとさせて笑っていた。

その様子に思わず吹き出した僕はちょっと元気が出て「ボンジュール」と呼び掛けた。その女性2人も手を挙げてニコニコしながら挨拶を返してくれた。

「11時まで時間があるな。1時間くらい歩いて戻れば丁度いい頃か」

余り腹も減っていなかったし,何だかとても楽しい気分になって,今度はしっかりと顔を上げてスピードを上げながら通り沿いを真っ直ぐ進んで行った。

10分もしないうちに黄葉のコントラストが絶妙なバランスをとった,思わず溜め息が漏れるほど美しい並木通が僕を歓迎してくれた。

まるで絵画にでも描いた様な風景に気をとられながらも速度を緩めずに歩いていると,更に10分ほどしてどことなく見覚えのある広場が視野に入った。

「ここは・・・」

そのまま森の様な並木通を抜けて広場に 辿り着くと,左手に広がる人工的な石造りの公園の向こう側にエッフェル塔が佇んでいた。

ドイツで見た大聖堂と似た畏怖も感じたが,どことなく優しさを纏いながら気品高く立っているその姿に心を奪われて一瞬見とれたのも束の間,突然目眩のような感覚が僕を襲った。

フラッシュバックの様に景色が歪んで,砲弾の音が耳の奥で木霊する。

とうとう立っていられなくなった僕は両耳を塞いだまましゃがみ込んで目をつぶった。

すると畳掛ける様に僕が見送ってきた何人もの人たちの最期の息遣いが甦る。

聞いたことがあるだろうか・・・。老人も子供も,男も女も関係なく漏れるあの声を。

あれは遠い昔,神という存在が土を使って象った人間の体に吹き込んだ息吹が戻る音なのだと牧師は説明した。

しかし,それは決して神々しいものではなく,僕には不快で恐ろしいものにしか思えなかった。

ニット帽の女の子の笑顔,ビクターの笑い声,人々の笑顔,道端の遺体,ジェイ・・・次から次に浮かび上がる記憶に交じってあの不気味な音が聞こえる。

僕の心臓はもはやそれに耐えられそうになかった・・・。

15.後悔

2020年01月17日 | 日記
午後7時頃,まだ日が高いブライトンに戻り予定通り学校の前まで来ると,イーゴがたった一人重たい面持ちをして僕たちを待ち構えていた。

僕たちが降車するとすぐイーゴが青ざめた顔でぽつりと呟いた。
「明日帰らなきゃならない」

一瞬時間が止まった様な気がした。受け入れがたい現実を突然叩き付けられて,誰もが言葉を失ってしばし呆然とした。

「明日,朝6時,ガトウィック・・・」

イーゴの言葉を遮るようにアジャが自国語で話しかけた。意味はわからなかったが声の調子から動揺と哀しみが滲み出ていた。イレイナも加わって3人がしばらく話し合っているのを円山さんと僕はただ見つめるしかなかった。

イーゴが泣き出したアジャを抱きしめて頭をなで始めると,イレイナが僕たちへ近づきながら大きな深呼吸を1つして,決心した表情で語りかけた。

「パリ,本当に楽しかったわね」

イーゴ達の国の情勢が悪化してイギリスから出る飛行機に制限が加えられ,その週の内に帰国しなければならなくなったのだ。イーゴやイレイナの家族との連絡も取れなくなってしまった。飛行機が数回臨時で運行されるが,イギリス中にイーゴ達と同じような身の上の若者が大勢散らばっているから,混み合う前にと慌てたホストファミリーがチケットを予約してくれたのだという。

円山さんが翌朝ガトウィックまで送り届けることを提案するとイレイナが円山さんに抱きついて静かに泣き始めた。するとアジャが僕の方へ駆け寄ってしがみ付きながらしゃくりあげる様にして号泣した。

混乱した僕は状況を整理できないでいた。学校の入り口の階段にイーゴがしゃがみ込んで肩を震わせているのが見えた。

僕はアジャのカールした金色の髪を撫でながら慰めるように優しく囁いた。
「大丈夫だよ。すぐまた会えるからね」

アジャは小刻みに何度か頷きながら泣き続けていた。

「少しの間会えないのが寂しいけど,絶対に会いに行くよ」
「ソーヤン,本当?」
「うん,絶対。君の国に行ってみたい」
「手紙も書くわ」
「勿論」
「約束よ」
「1日に100回書くよ」

僕のくだらない冗談に少しだけ笑ったアジャのことが物凄く愛しくなって,まだ震えている柔らかい体を力強く抱きしめた。アジャも抱き返してくれた。

そのうち僕たちは自然と5人で抱き合って額を合わせたまま「大丈夫」と何度も言い合った。もっとそうしていたかったけれど時間がなかった。

落ち着きを取り戻したイレイナが鞄を持ち上げて声をかけると,アジャもイーゴもそれに呼応して歩き始めた。

円山さんが「送るよ」と言うとイレイナが優しく断った。
「明日迎えに来て。今は歩きたいの」

円山さんと僕は彼らの姿が見えなくなるまでじっと見送った。上り坂の上で3人が腕を高く上げて大きく振ったのを合図に2人で車に戻ってから,僕のフラットに寄って荷物を下ろした後円山さんの自宅まで行って待機する段取りをした。

車が走り出してからの道中は円山さんも僕も黙り込んだままだったが,1つだけ独り言の様に円山さんが呟いた。
「このまま行かせてもいいのかな・・・」

その言葉はあれ以来心に突き刺さったまま未だに僕を苦しめ続けている。

本当は何があっても帰すべきではなかった。今なら分かるけど,それでもあの時はそれが間違った選択だったなんて知る由もなかったんだ。

14.天国と地獄

2020年01月17日 | 日記
短い間だったけれど,25歳で最年長の円山さんを筆頭に,僕と同い年のイレイナ,1つ下のイーゴ,イーゴのガールフレンドでスイスフレンチのサンドリン,アジャと6人でつるむ様になって僕の留学生活はある意味充実することになったのだから,僕はイーゴとのいさかいに大いに感謝しなければならなかった。パターゴルフにも出掛けたしタミーバーガーやトッポリーノでもよく食事をした。夕方にはほぼ毎日ブランズウィックで落ち合って映画を見に行ったり海で景色を眺めたりして家族の様に何時間も過ごすことさえあった。

唯一の問題はイーゴとイレイナの口論で,国の話になると決まって収まりがつかなくなる。そのうち英語が余り流暢ではないイーゴが母国語で話し始めてイレイナも興奮して応戦するなんてことが時折あって,円山さんと僕が止めようとしても難しく,最後はアジャが涙声で説得するパターンが出来上がった。そんな時イーゴは不機嫌なままアジャを連れて帰ってしまうから,帰り際のアジャの申し訳なさそうな目がとてもいたたまれなかった。

イーゴ達の国では民族間の争いが徐々に表面化しつつあり国土の分断の機運が高まっていた。イーゴが通っていた大学内でも小さな小競り合いが絶えず毎日の様に怪我人が出るほどだったという。3月には自治軍同士の間に衝突が起こって死者が出る程まで悪化していて,イーゴはいずれ支持する自治軍に加わって自分たちの国家独立の一翼を担いたいと考えていたがイレイナは分断には反対していた。イーゴとアジャが帰ってしまうと,イレイナは宗教や文化の違いで自分たちが分断される様に仕向けられていることへの恐怖と憤りを丁寧な英語で訴えた。彼らが英語の勉強という名目でイギリスへ避難させられているということもやるせないと洩らしていた。

2週間もするとイーゴがアジャと僕の関係を細かく確認してくる様になった。しつこいくらいに「手は握ったか」とか「キスはしたか」とか,兄と言うよりはもはや親みたいな探り様に,「お前の大事な妹だろう。僕も宝物の様に思っているよ」とだけ答えると,イーゴは嬉しそうに僕の額にキスをするなんてことが何度かあった。円山さん達が手を繋げばアジャの方から僕の腕をギュッと掴んで歩くほどだったから僕たちも互いに惹かれ合っていたといっても過言ではないかもしれない。恋人の様にしていても僕にとってアジャは妹の様な存在で一緒にいることがこの上なく愛しいことだけは間違いなく,イーゴの気持ちが手に取るように分かった。

ある日,円山さんがバンクホリデーのある3連休をパリで過ごさないかという提案をしてきた。円山さんが勤める工業デザイン会社は地元ブライトンにあったが,その保養地というのがパリ郊外にあって無料で使えるのだという。円山さんの愛車で行けば実質食事代だけで済むという話に僕たちはは色めき立った。イーゴとサンドリンは既にブリストルへの1泊旅行を決めていて即座に参加しないことになったが,円山さんの車は5人乗りだったから,今思えばイーゴたちが僕たちに気を遣ったのかもしれない。

フランス旅行に出発する朝,学校の前で待ち合わせをして車に荷物を載せていると,サンドリンと一緒に見送りにきたイーゴが「ソーヤン,アジャを頼んだよ」と言いながらふざけて僕の額にキスをした。アジャは両頬を僅かに赤らめながら「ホントはイーゴがソーヤンと一緒にいたいのよ」というとイーゴが僕の首に腕を掛けたまま「実はな!」と大笑いした。

2泊3日のフランス旅行は最高に楽しかった。宿泊していた施設からは車で30分も行けばパリの中心に行けて,そこから電車を使ってベルサイユ宮殿へも足を伸ばしたりした。円山さんがおごってくれたフルコースのフランス料理も,エッフェル塔から見下ろす夕方のパリの黄昏も最高の思い出だけど,円山さんとイレイナの仲睦まじい様子や,僕の真横にいつもいてくれるアジャの存在が何よりも旅を幸福なものにしてくれた。

復路でホワイトクリフが見えてきた頃,フェリーの船尾に纏わり付く海鳥たちを見上げているアジャの頬の産毛を太陽が金色に輝かせていた。彼女のリンゴのパフュームの優しい香りを海風が運んできて,旅の終わりを惜しむような淡い気持ちが湧き起こってきた。

しかし,そんな余韻に浸る間もなく僕たちは突然奈落のどん底へと落とされることになった。