□ バス通勤の道脇の満開の桜
(高尾山自然公園・大分市明野山手)
◇ 静けさの中に始まり、静かに終えようとしている一日。
「エイプリル・フール」が明日であることも忘れてしまっていた一日。
毎日が「エイプリル・フール」であるかのような冗談じみたの一日。
どこまでがホントでどこまでがジョーダンか、その繰り返しの一日。
□ 私のお気に入りの桜(大分市明野南)
(una poesia di oggi)
春や昔 十五万石の 城下哉 正岡子規
□ どこを見ても、満開の桜(高尾山自然公園・大分市明野山手)
◇ 北野武が、左肩を揺するのは「照れ隠し」だと、以前言っていました。
元々人と話すのが苦手だった私、今でも聞き役にまわります。
言葉遊びの駄洒落連発で、人の輪に入って行くしか能がなくて…。
話に中身が伴わないので、とっさの洒落でオブラートに包んでいます。
□ 帰宅時はここでバスを降りて、あとは徒歩(大分市明野南)
□ 私の帰り道(大分市明野南)
(una poesia di oggi)
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ
我が身ひとつは もとの身にして 在原業平
◇ ところで「年相応」も含めて、「自分らしさ」って一体なんでしょう。
意思かそれとも無意識か、「自分らしさ」は「印象」や「表現」であり「結果」
真心に偽らないのが「自分らしさ」ならば、努力はしても確率100%は無理。
せめて「一期一会」の心を持ち続けていたい、偽らざる思いなのです。
□ 高いところの花が、夕日に映えて(大分市明野南)
(una poesia di oggi)
願はくは 花の下にて 春死なむ
そのきさらぎの 望月の頃 西行
□ 空さえ隠れる花、花(大分市明野南)
◇ 日本特有の「年度」という新しい始まりには、何かしら思いがあるもの。
折りしも、桜の花がわが世の春、満開の日を迎えた、そんな年度変わり。
ブログ日記、もうすぐ500回、心の中でブログへの思いをリセットしました。
振り返って最長三日も経てば忘れてしまう、よくあるいつもの一日でした。
□ 別保橋(べっぽ)より、東側方面、割と会社に近い(大分市中鶴崎)
※ 自然と口をついてきました
著作権の関係もありますが、歌ったままをこの日記に綴ります。
(una poesia di oggi)
さくら 森山直太朗
ぼくらは きっと待ってる
君とまた会える 日々を
桜並木の みちの上で
手を振り 叫ぶよ
どんなに 苦しい時も
君は 笑っているから
くじけそうに なりかけても
頑張れる 気がしたよ
かすみゆく 景色の中に
あの日の歌が 聞こえる
さくら さくら 今咲きほこる
刹那に散りゆく さだめと知って
さらば友よ 旅立ちのとき
変わらないその想いを 今
今なら 言えるだろうか
偽りのない 言葉
輝ける 君の未来を
願う ほんとの言葉
移りゆく 街はまるで
僕らを せかすように
さくら さくら ただ舞い落ちる
いつか生まれ変わる 時を信じ
泣くな友よ 惜別のとき
飾らないあの笑顔で さあ
さくら さくら いざ舞い上がれ
とわにさんざめく 光を浴びて
さらば友よ またこの場所で会おう
さくら舞い散る みちの
さくら舞い散る みちの上で ♪
□ 空元気であっても、明日から装いを新たに(!?)
普段着で少しだけ頑張ってみます。
これは、今夜の枕元の本です。
自然公園が近いので、
小鳥もよく飛んできますが、知らなくて…。
(高尾山自然公園・大分市明野山手)
◇ 静けさの中に始まり、静かに終えようとしている一日。
「エイプリル・フール」が明日であることも忘れてしまっていた一日。
毎日が「エイプリル・フール」であるかのような冗談じみたの一日。
どこまでがホントでどこまでがジョーダンか、その繰り返しの一日。
□ 私のお気に入りの桜(大分市明野南)
(una poesia di oggi)
春や昔 十五万石の 城下哉 正岡子規
□ どこを見ても、満開の桜(高尾山自然公園・大分市明野山手)
◇ 北野武が、左肩を揺するのは「照れ隠し」だと、以前言っていました。
元々人と話すのが苦手だった私、今でも聞き役にまわります。
言葉遊びの駄洒落連発で、人の輪に入って行くしか能がなくて…。
話に中身が伴わないので、とっさの洒落でオブラートに包んでいます。
□ 帰宅時はここでバスを降りて、あとは徒歩(大分市明野南)
□ 私の帰り道(大分市明野南)
(una poesia di oggi)
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ
我が身ひとつは もとの身にして 在原業平
◇ ところで「年相応」も含めて、「自分らしさ」って一体なんでしょう。
意思かそれとも無意識か、「自分らしさ」は「印象」や「表現」であり「結果」
真心に偽らないのが「自分らしさ」ならば、努力はしても確率100%は無理。
せめて「一期一会」の心を持ち続けていたい、偽らざる思いなのです。
□ 高いところの花が、夕日に映えて(大分市明野南)
(una poesia di oggi)
願はくは 花の下にて 春死なむ
そのきさらぎの 望月の頃 西行
□ 空さえ隠れる花、花(大分市明野南)
◇ 日本特有の「年度」という新しい始まりには、何かしら思いがあるもの。
折りしも、桜の花がわが世の春、満開の日を迎えた、そんな年度変わり。
ブログ日記、もうすぐ500回、心の中でブログへの思いをリセットしました。
振り返って最長三日も経てば忘れてしまう、よくあるいつもの一日でした。
□ 別保橋(べっぽ)より、東側方面、割と会社に近い(大分市中鶴崎)
※ 自然と口をついてきました
著作権の関係もありますが、歌ったままをこの日記に綴ります。
(una poesia di oggi)
さくら 森山直太朗
ぼくらは きっと待ってる
君とまた会える 日々を
桜並木の みちの上で
手を振り 叫ぶよ
どんなに 苦しい時も
君は 笑っているから
くじけそうに なりかけても
頑張れる 気がしたよ
かすみゆく 景色の中に
あの日の歌が 聞こえる
さくら さくら 今咲きほこる
刹那に散りゆく さだめと知って
さらば友よ 旅立ちのとき
変わらないその想いを 今
今なら 言えるだろうか
偽りのない 言葉
輝ける 君の未来を
願う ほんとの言葉
移りゆく 街はまるで
僕らを せかすように
さくら さくら ただ舞い落ちる
いつか生まれ変わる 時を信じ
泣くな友よ 惜別のとき
飾らないあの笑顔で さあ
さくら さくら いざ舞い上がれ
とわにさんざめく 光を浴びて
さらば友よ またこの場所で会おう
さくら舞い散る みちの
さくら舞い散る みちの上で ♪
□ 空元気であっても、明日から装いを新たに(!?)
普段着で少しだけ頑張ってみます。
これは、今夜の枕元の本です。
自然公園が近いので、
小鳥もよく飛んできますが、知らなくて…。
通勤途中で、家の近くで、また会社の近くで
こんなきれいな桜が見られるなんていいですね!
帰り道のお散歩も心弾み一時でしょう?
ウチの近くの絵木の向こうの桜並木、
今日車で走ったらまだ2分咲きぐらい?
これからですね、桜のトンネル・・・
近場で今年もお花見になりそうです!
いよいよバラの4月に突入ですね~~
クレマもかなり大きくなって咲いてるのもあるんですね?
やはりそちらはかなり暖かいんでしょうね~!
あと少しで今年も三か月が過ぎたことになります。
本格的な花の季節に入りますね。
ここ数日寒い日が続きまして、桜も満開のまま、
どうしたらいいのか、考えあぐねているかのようです。
今日は、お昼頃から晴れて、青空に淡いピンクが映えました。
いよいよ晩春に向かいます。
とはいえ、明日は気温がそんなに上がらないとの予報でした。
バラは少しずつ蕾が上がって来て、これも昨年より早目です。
その前に牡丹が…うちの庭での順番です。
そうこうしているうちに、チューリップが咲いて、
やがてバラの一番花を迎えることになるはずです。
クレマチスはモンタナ系のポットがたくさん店頭に出ていて、
6品種くらいでしたか、リベンジに買いました。
以前から残っている早咲き系の大輪に蕾がついて、
もう少ししたら、咲き始めることでしょう。
「楽しみ」「喜び」が、庭のあちこちでかくれんぼしているかのようです。
とってもよくマッチして、私の心へも響いてきました。
折節さんの帰り道や会社の付近に美しく咲く桜。
美しく明るく楽しくもあり、物悲しかったり淋しかったり侘しかったりする。
桜って不思議な花ですよね。
朝見るのと昼間見るのと、夕暮れに見るのでも心への響き方がまるで違う。
>自分らしさってなんだろう
思春期の中にいるようなその言葉も。。。
私の思う自分から見た「自分らしさ」もつかめそうでつかめなくて、歳を経て、少しづつ自分らしさも変わっていくようで。
そして自分の思う「自分らしさ」と他人から見た「あの人らしさ」はまるで違うものだったりして。
でもきっとそれでいいんですよね。
自分でさえ自分自身を掴みきれないのですから。
今日から四月、雨でスタートです。
区切りの時って、何かしらもの思うことが多いようです。
月の終わり、年度の終わり、年の終わり…。
その時点でこれまでを振り返ってみる「習性」があるようです。
おっしゃるとおり主観的な「自分らしさ」と他人の思う「あの人らしさ」
よく違うことがありますね。
私を「話好き」と思ってらっしゃる人が、周りに結構多いのに驚きます。
確かに話はしますが、笑う、茶化す、そんな場面が多いのにも気づいています。
そんなときに、年相応に言動一致できないなんて、何と薄っぺらいことよ。
心の中で半分泣いているような気持になることがあるのです。
たぶん「真面目」でありたいのに「生真面目」って思われたくない。
そんな心地なのかもしれません。
でもここまで来たら、これこそ「我が道」
客観的には、巧拙があっても善悪は不明、それがどうしたっ!?
居直ったり、しょげてみたり、表に出たり、内に秘めたり。
一本道でも、心に映る光景は実に様々ですね。
生きているって実感って、こういうことなんでしょう。
去年は近くの公園を一人で見た桜も
今年は娘と一緒で・・・まさに森山さんの
「さくら」を歌いながらお散歩でした。
こちら福岡はもう散り始めましたが
さくら吹雪の中 淡いピンクの絨毯を歩くのは
やや幻想的で 静かで穏やかな春のある日の情景に佇む
娘との時間に密かな幸せを感じました。
そして「新年度」を迎えて
昨日「絵本よみきかせ会」に通い始めました。
「らしさ」というものが何かと問われれば
自分に関してはうまく説明出来ませんが
娘の音葉に関して言えば 個性が日に日に
芽生え始めたのでそれを感じ嬉しく思います★
昨日の絵本の会で私が
「音葉らしさ」について新たに知ったこと
彼女が同じくらいの子より 絵本に、
おそらく絵に強い興味があるということ。
これからもっと色んな「音葉」に出会えること
それが楽しみです♪
私が思う「折節さんらしさ」は
「折節」という名前そのものです。
今年は私にとって花粉症の「特異年」みたいで、
治り切っていたはずが、くしゃみ連発の日々です。
そろそろ散り初めの桜、満開の花の下は、
どこもしんと静まり返っているような感じです。
これはいつの年の春も感じている、不思議な気分です。
音葉ちゃん、興味を示す対象がきっと見えて来たんですね。
「絵」「イメージ」そして「想像力」
温かい心を育むのに大切なものが自然と芽生えて、
個性つまり「らしさ」が創られていくんですね。
私の娘も絵本が好きで、添い寝して読んであげるのが日課でした。
それも十冊も二十冊も…目が爛々としてなかなか寝ないのです。
こちらがバタンと寝たことも何度か…。
そのうちに「字」が読めなくても「本」を読むようになりますよ。
聞いたままを憶えてしまいますから…幼子は♪
「寒の戻り」もどうやら今日まで、明日の日中からは、
「折節の移り変わり」を感じられる分岐点になることでしょう。