座右の銘を持つならば、単に人から聞いたり本から拾った借り物よりも、自分の人生から導き出した言葉にすべきだろう。
さらに言えば、その言葉は時々において変化していくほうが良いのかもしれない。
それは決して変節ではなく、進歩の証だと考える。
そんな思いのおいらだが、今はこんな言葉に惹かれている。
◆浜までは海女も蓑着る時雨かな(はままではあまもみのきるしぐれかな)
詠んだのは、江戸時代の俳人滝瓢水(たきひょうすい)だ。
これから海に潜る海女が、雨を避けるために蓑を着て浜に向かう光景だ。
どうせ海に入れば濡れてしまうのに、それでも浜までは蓑を着て濡れずに行きたいものだ。
つまり人間は、自分を愛おしみ、最後まで無駄かもしれない努力を重ねるべき存在なのだろう。
それはこの句の「浜」を「死」と置き換えてみれば、一層味わいが深まる。
どうせ老い先短いのだからと投げやりになるべきではない、死ぬまではとにかく蓑を着るし頑張っていく。
どうせ仕事はもうやめたのだからとか、老い先は短いのだからとかは、全く考えるべきではない。
雨が降れば、蓑や傘を、日が照り付ければ日傘をさすべきだ。
そうして最後の瞬間まで前向きに、少しでも美しく立派と言われる生き様を重ねていくべきなんだろうなと思います。
悪あがきと言われるかもしれませんが、最後まで悪あがきを続けたいものです。
さらに言えば、その言葉は時々において変化していくほうが良いのかもしれない。
それは決して変節ではなく、進歩の証だと考える。
そんな思いのおいらだが、今はこんな言葉に惹かれている。
◆浜までは海女も蓑着る時雨かな(はままではあまもみのきるしぐれかな)
詠んだのは、江戸時代の俳人滝瓢水(たきひょうすい)だ。
これから海に潜る海女が、雨を避けるために蓑を着て浜に向かう光景だ。
どうせ海に入れば濡れてしまうのに、それでも浜までは蓑を着て濡れずに行きたいものだ。
つまり人間は、自分を愛おしみ、最後まで無駄かもしれない努力を重ねるべき存在なのだろう。
それはこの句の「浜」を「死」と置き換えてみれば、一層味わいが深まる。
どうせ老い先短いのだからと投げやりになるべきではない、死ぬまではとにかく蓑を着るし頑張っていく。
どうせ仕事はもうやめたのだからとか、老い先は短いのだからとかは、全く考えるべきではない。
雨が降れば、蓑や傘を、日が照り付ければ日傘をさすべきだ。
そうして最後の瞬間まで前向きに、少しでも美しく立派と言われる生き様を重ねていくべきなんだろうなと思います。
悪あがきと言われるかもしれませんが、最後まで悪あがきを続けたいものです。
>そうして最後の瞬間まで前向きに、少しでも美しく立派と言われる生き様を重ねていくべきなんだろうなと思います
私もこのご意見に大賛成です。
なにがあろうが、自分の人生の最後の一瞬まで命の炎を燃やしながら、よりよい人生にすべく『悪あがき』をしたいものです。
人生を途中で放棄するようなことはしたくありませんよね。
またこうすることが人間だけに許された特権だと思います。
一見、立派なことを書いていますが、これは自分自身への決意表明で、まだ実行できているわけではありません。
今後もよろしくお願いします。