仮題「心なき身にもあわれは知られけり」
(3)の改稿
文字のなかった古代日本社会の様子はもっぱら中国が日本につい
て書き残した文献に頼るしかないが、その中国は3世紀後半に所謂
『魏志倭人伝』が載った『三国志』が書かれた三国時代の後に「五
胡十六国時代」と呼ばれる群雄割拠する戦乱の時代を迎えて、海の
向こうの島国日本に関心を向ける余裕などなくなり、中国の書籍か
ら日本に関する記述が消え、文字を持たなかった日本の歴史は3世
紀末から4世紀末まで「空白の4世紀」と呼ばれる時代を迎える。
とは言っても人々の往来は頻繁に続いていて、やがて帰化人たちに
よって「漢字」がもたらされた。そして、我国最古の歴史書と言わ
れる「古事記」が漢字によって編纂されたのは712年、続いて「
日本書紀」は720年と「空白の4世紀」は後から「神話」によって
埋められた。そもそも文字が伝わるということは当然書籍が伝わると
いうことで、書籍は必然的に現前性を超えた思想を伝えようとする。
こうして文字、つまり漢字は仏教思想とともに急速に広まった。とこ
ろで、『古事記』『日本書紀』には中国の正史として扱われる『三国
志』の中の所謂『魏志倭人伝』が伝える「邪馬台国」や「卑弥呼」に
関する記述はいっさい見当たらないが、それに代わってその実存が疑
わしい仲哀天皇の皇后である「神功皇后」を「卑弥呼」に見たてた「
新羅征伐」の物語が語られる。しかし、そもそも「卑弥呼」は皇族の
祖先であり、そして「邪馬台国」は大和朝廷へと繋がる古代国家であ
るとすれば、記紀の編纂者たちは当然『魏志倭人伝』を目にしたにも
かかわらず、何故「邪馬台国」「卑弥呼」の記述を知りながら敢えて
それには触れずに、実存しない「神功皇后」に置き換えなければなら
なかったのだろうか?つまり、『魏志倭人伝』が書かれた3世紀末か
ら『記紀』が編纂された8世紀始めまでの間に「卑弥呼」の「邪馬台
国」はそのまま「天皇」の「大和朝廷」へとは繋がらなかったからで
はないだろうか。つまり「邪馬台国」と「大和朝廷」はまったく別の
国だったのではないのだろうか?ところで、かつて早稲田大学の水野
祐氏(1918年~2000年)は「応神天皇は応神王朝という新しい
王朝の始祖である」という考えをはじめて学界に提出した。(『日本の
歴史』①神話から歴史へP375~「水野学説」) 応神天皇とはその実
在が疑わしい仲哀天皇と神功皇后の子だが、「確実にその実在をたし
かめられる最初の天皇であるといってよいであろう。」(同書) 水野説に
よると、詳細は割愛するが、「3世紀の昔、耶馬台国は狗奴(くな)国と
争い、一度はその勢力をくじかれたのだが、邪馬台国が晋朝の南退(31
4年) によって後援を失うに及んで狗奴国が北九州を席捲した。」(同書)
「この狗奴国王家はさかのぼればツングース族で、早くから九州地方に
侵入し、倭人を征服して原始国家を形成したものであろう。」そして、
「応神天皇はその狗奴国王の後身である。」と言うのだ。つまり、伝説
の存在でしかない初代神武天皇から代を繋いで、その実在が確実な最初
の15代応神天皇とは、「卑弥呼」の「邪馬台国」ではなくツングース
族を祖先にする狗奴族の後裔で、言語の詳細な分析から「狗奴国つまり
応神王朝が、かつて朝鮮半島から渡来した征服王朝であったことの証拠
である。」と言うのだ。つまり、我々大和民族のルーツとは「卑弥呼」
の「邪馬台国」ではなく、朝鮮半島を南下してきたツングース族が北九
州を席捲し、そして「邪馬台国」を征服した狗奴国であると言うのだ。
(つづく)
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