博客 金烏工房

中国史に関する書籍・映画・テレビ番組の感想などをつれづれに語るブログです。

『昭和史 戦後篇1945-1989』

2011年07月27日 | 日本史書籍
半藤一利『昭和史 戦後篇1945-1989』(平凡社ライブラリー、2009年6月)

同じシリーズの『戦前篇』に続いてこちらも読んでみることに。ただ、ネタとしては『戦前篇』の方が面白かったなあと。タイトルに『戦後篇1945-1989』と銘打ってありますが、実際は昭和47年(1972年)の沖縄返還のあたりまでの話が中心です。以下、本書で面白かったネタ。

1 日本国憲法制定
1945年10月にマッカーサーと会見した近衛文麿。この時にマッカーサーが近衛に憲法の改正を要求したとされますが、実は「constitution」(ここでは(政府の閣僚などの)構成という意味。Constitutionと大文字にすると憲法の意味となる)という言葉の通訳上の取り違いにより、憲法の改正など全く考えていなかったマッカーサーが会談中に改正の必要性に思い至り、また近衛が自分がマッカーサーから憲法改正の仕事を委任されたと思い込んだという説があるそうな……

で、近衛は京大出身の憲法学者佐々木惣一を起用し、松本委員会案などと比べてかなりしっかりした憲法草案を作らせたということですが、この近衛がA級戦犯に指定されるに及んでGHQが「あんたに憲法改正を任せた覚えはない」とぶっちゃけ、佐々木案も闇に葬られることに。その後はご存知のように近衛は東京裁判でA級戦犯として裁かれることを苦にして自殺…… 憲法改正をめぐる話を読んでると、カオスすぎてもう何が何だかという気がしてきます(;´д⊂)

2 東京裁判
その東京裁判ですが、連合国側は当初ナチス・ドイツに対するニュルンベルク裁判と同じような感じで裁判を行おうとしたのですが、ヒトラーをはじめとして責任の所在が極めて明確であったドイツと比べて、日本の場合は首相・閣僚・軍事指導者がコロコロ変わっており、戦争責任の所在が極めて不明確。しかも諸事情により昭和天皇は戦犯として扱わないというのが規定の方針であったので、誰にどの責任を押っつけるかで色々難儀したとか…… 指導者がコロコロ変わって責任の所在が不明確……今と大して変わってませんね。

しかも2年半ほどかけて長々と裁判を行っている間に、米ソの対立が深まるなど世界情勢が緊迫してきて仲良く裁判で検事をやっている場合ではなくなり、A級戦犯を28人裁いたところで、後に首相となる岸信介ら残るA級戦犯容疑者はみな無罪放免ということにし、裁判を強制終了。A級戦犯として処刑された人々と生き残った人々との差は紙一重だったんだなという気が……

3 昭和天皇とマッカーサー
昭和天皇は昭和20年9月から26年4月まで11回にわたってマッカーサーと会談を行い、この会談の内容が随分と占領政策や戦後の体制づくりに影響したということで、本書では戦後日本の占領期間は昭和天皇とマッカーサーの合作であると評価しています。ちなみにこの会談の内容は双方が秘密にするという約束を交わしており、昭和天皇は約束を守って終生会談の内容を口外することはなかったということですが、マッカーサーはお喋りで、帰国後にちょこちょこと秘密をバラしていたらしい。……マ、マッカーサーさんっ!!(´;ω;`)

4 おまけ
「この作者の鋭敏げな感覚はジャーナリストや興行者の域を出ていない。決して文学者のものではないと思っている。また、この作品の美的節度の欠如を見て最も嫌悪を禁じ得なかった。」これは何かというと、石原慎太郎が芥川賞を受賞する時の選考会での佐藤春夫による論評です。当時にあっては佐藤春夫は新しいセンスが分からない頑迷な人物と見られたのではないかと思いますが、今となってはこの評価はいいところを突いていたんじゃないかという気が……
コメント (3)
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