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なぜ念仏を称えるのか。念仏を称えると極楽浄土に行けるのか?

2024-05-09 07:10:50 | 仏教・神道・その他宗教

今日、秋葉原親鸞講座を聴いて、講師の意図とは全く違うとは
思うんだけど、講義を聴いて、
なぜ浄土真宗では(親鸞は)念仏を称えるのか
が、はっきりと分かった気がするので、
その内容をシェアしたいと思います。



念仏でもなんでもいいけど、
自分の意思なり努力なりで、浄土に行けるかどうかは、
逆に、
今この世(穢土)にみんな生まれてきたわけだけど、
 そのとき、自分の意思なり、努力で生まれてきましたか?
を問うてみればわかる。

スピリチュアルの人は、答え違うと思うけど、仏教の人は
 (あるいは一般的には)自分の意思で生まれて来たのではなく、
 生まれさせられたという形をとっている。
この、この世に生まれさせた働きこそが、「阿弥陀仏の働き」である。



この世に生まれたのが、阿弥陀仏の働きであるならば、
あの世(浄土)に生まれる働きも、阿弥陀仏の働きである。
自分か決めるのではない、。

そして、阿弥陀仏は弥陀の本願により、
 みんなが浄土に生まれない限り、自分は仏にならない
と誓願を立てられた。
ということは、阿弥陀仏のおかげで、浄土に生まれるという
方向性は決まっているのだから(でも現世は穢土に生まれちゃったけど)
あとは阿弥陀仏にお任せして、ついて行くしかないのではなかろうか?
自分はどう匂出来ないことなのだから



このことに気づいたとき、
私は、浄土を求めるので、阿弥陀について行きます。帰依します
となり、心から、南無阿弥陀仏が出てくる。

そして困難なことに当たった時、
自分ではどうすることができないとき
きっと、阿弥陀様の慈悲で、よくなるに違いないと
信じて、心から、南無阿弥陀仏が出てくる。

つまり、自然と心から、南無阿弥陀仏が出てくるものである
(これを講義では、言わされるものであると説いていた)



そもそも、念仏を何回称えたら、どうやったら極楽浄土に行けますか
という問いを立てる人は、浄土というのは自分にとって良いところで、
他人はさておき、自分が浄土に行きたいと考える人たちである。

しかし、極楽浄土とは、阿弥陀仏のいるところ、
すなわち、自分はさておき。他の人が幸せになってほしい、
他の人が浄土に行くことを願う世界である。
つまり、自分が浄土に行きたいと考える人たちとは真逆の世界である。
そんな世界に行って、やっていけるのか・・・



つまり、
念仏を何回称えたら、どうやったら極楽浄土に行けますか?
念仏を称えると、本当に極楽浄土に行けますか?
という問いを立てる時点で、極楽浄土とは程遠い人間である。

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