【 2024年10月 記 】
近頃、新たに本を買うことが少なくなってきた。というのも、『これ以上本を買ったら重みで家がつぶれる!』と妻に再三言われ控えているのだが、本のない生活など考えられない。先日の新聞で、「一ヶ月間全く本を読まない人が、6割を超えている」という記事を見た時は、ほんとに驚いた!(毎日新聞9/17付け)
ネットで記事を見ても、表層的な内容では納得できない。新しい話題で、図書館でも間に合わなく、どうしても読みたいものはつい買ってしまうが、そうでもない時は、昔の本を引っ張り出して読んでいる。
その中で、興味深い本に最近再び出合った。奥村宏さんの著作の『判断力』。2004年刊行の新書で、その当時一度は読んだが、再度取り出して中身を読んでみると現在の事を書いているように感じる。登場人物は小泉首相(純一郎)だったり竹中平蔵なのだから、現在の事ではないのは分かるが、固有名詞を除けば、現在と全く変わっていない状況が描かれている。20年前と少しも変わっていないのだ。いや、30年以上、日本の社会は-少なくとも日本の支配構造は-全く変わっていないことに改めて驚かされた。
奥村さんは経済学者(当人は経済学者という呼称が好みでないで、「おくづけ」には《経済評論家で元新聞記者》と書いてある)で、本文では『日本の経済学は、経済学でなく《経済学》学』だという都留重人の言葉を好んで引用していて、他の本でもよく言及している。
〇 〇 〇
以下、なるほどと思い、印象に残った部分を1つ挙げると、
【 専門家と経済学者 ]
『われわれは、医者の診察を受けたり病院に入院したりするとき、専門家の手に身をゆだねる。(中略)航空機の乗客も専門家の手にゆだねられる。(中略)専門家は、いま世界中で認められている適切な責任規定に従わなければならない・・・自分を信頼する人々の利益に個人的な利益や都合を優先させてはならない。』
という他者の著作の引用に続けて、
「医者や航空機パイロットと同じように学者やエコノミストにも責任があるはず・・」だと。小泉首相のブレーンであり、とんでもない主張を展開し地位を利用して私腹を肥やした竹中平蔵を念頭に置いて、徹底的に批判している。
専門家面した、自称《経済学者》がコメンテータとしてテレビで好きなことをしゃべる。言っている事がくるくる変わるのに、その自覚さえない。人々に判断する材料を提供するすることを職業とする学者やエコノミストなどの《専門家》も、間違いがあれば、それなりの責任を取らねばならないが、今の日本では(ずーっと30年以上も)そうなっていない。
『バブル崩壊以後、日本の学問の堕落、衰退が、とりわけ経済学の分野ではっきりと表れている。』と著者は指摘する。(P-73)続けて、
『学者やエコノミストは職業としての専門家でないということになる。・・・テレビのお笑いタレントとどこが違うのか・・・』、と。(P-75)
その最近のいい例が、大阪でのテレビである。(参照『お笑い維新劇場』)
大阪に限らず、政治屋と自称専門家とタレントが好き放題、めちゃくちゃなことを言って、げたげた笑って世間を惑わしている。晩の7時台の番組はどのチャンネルを回しても似たようなもので、見るに堪えない。
その大きな要因として、筆者は、《大阪には地方紙がない》ことを挙げている。東京には「東京新聞」があり、京都には「京都新聞」があり、その他の地方にも名だたる地方新聞がある。読売も朝日も毎日も首根っこは財界や政府にがっちり抑え込まれていて自由がきかない。しかも大企業で上位下達でしっかり統制され、しかも異動が多く知識が蓄積されず、記者の創意工夫が発揮されにくいと来ている。
だから、政権を監視し、権力者の批判をするという新聞社の役割が充分発揮されないという。
内容は盛りだくさんである。
30年前と同じ紋切り型の国会答弁をする新総裁の石破首相にも他の多くの裏金疑惑の議員らにも聞かせてやりたい内容の本である。
〇 〇 〇
『失われた30年』という言葉は、賃金や物価や日本の生産力など、《経済分野》で言及されられることが多いが、政治腐敗や人権や制度の問題にしても多くは同様のままである。
《30年間、賃金は少しも上がっておらず》、《日本の生産力は停滞し》、《男女格差は解消されず》、《利息はほとんどつかず》、《円の価値は下がり続け》、《軍事費だけが増大する》。
それらを放置し、金融緩和だとか言ってゼロ金利政策を維持しインフレ目標を2%にすることが妥当だと、もっともらしい説を展開する《経済学者》と専門家集団。
実際は、インフルどころか米不足や流通麻痺がおこるし、日々の物価はどんどん上がるし、災害が起こっても被災地は放置されたままだし、不安は募るばかりである。
そして若者と多くの国民は博打まがいの「新ニーサ」と夢洲のカジノに誘導される。
この間、経済状況も多くの事も何も進歩していないばかりか、停滞もしくは後退しているのだ。
皮肉なことだが、20年前、30年前に買った本が、今でもその効用が失われていないで、役に立つ。
困ったことだ。
近頃、新たに本を買うことが少なくなってきた。というのも、『これ以上本を買ったら重みで家がつぶれる!』と妻に再三言われ控えているのだが、本のない生活など考えられない。先日の新聞で、「一ヶ月間全く本を読まない人が、6割を超えている」という記事を見た時は、ほんとに驚いた!(毎日新聞9/17付け)
ネットで記事を見ても、表層的な内容では納得できない。新しい話題で、図書館でも間に合わなく、どうしても読みたいものはつい買ってしまうが、そうでもない時は、昔の本を引っ張り出して読んでいる。
その中で、興味深い本に最近再び出合った。奥村宏さんの著作の『判断力』。2004年刊行の新書で、その当時一度は読んだが、再度取り出して中身を読んでみると現在の事を書いているように感じる。登場人物は小泉首相(純一郎)だったり竹中平蔵なのだから、現在の事ではないのは分かるが、固有名詞を除けば、現在と全く変わっていない状況が描かれている。20年前と少しも変わっていないのだ。いや、30年以上、日本の社会は-少なくとも日本の支配構造は-全く変わっていないことに改めて驚かされた。
奥村さんは経済学者(当人は経済学者という呼称が好みでないで、「おくづけ」には《経済評論家で元新聞記者》と書いてある)で、本文では『日本の経済学は、経済学でなく《経済学》学』だという都留重人の言葉を好んで引用していて、他の本でもよく言及している。
〇 〇 〇
以下、なるほどと思い、印象に残った部分を1つ挙げると、
【 専門家と経済学者 ]
『われわれは、医者の診察を受けたり病院に入院したりするとき、専門家の手に身をゆだねる。(中略)航空機の乗客も専門家の手にゆだねられる。(中略)専門家は、いま世界中で認められている適切な責任規定に従わなければならない・・・自分を信頼する人々の利益に個人的な利益や都合を優先させてはならない。』
という他者の著作の引用に続けて、
「医者や航空機パイロットと同じように学者やエコノミストにも責任があるはず・・」だと。小泉首相のブレーンであり、とんでもない主張を展開し地位を利用して私腹を肥やした竹中平蔵を念頭に置いて、徹底的に批判している。
専門家面した、自称《経済学者》がコメンテータとしてテレビで好きなことをしゃべる。言っている事がくるくる変わるのに、その自覚さえない。人々に判断する材料を提供するすることを職業とする学者やエコノミストなどの《専門家》も、間違いがあれば、それなりの責任を取らねばならないが、今の日本では(ずーっと30年以上も)そうなっていない。
『バブル崩壊以後、日本の学問の堕落、衰退が、とりわけ経済学の分野ではっきりと表れている。』と著者は指摘する。(P-73)続けて、
『学者やエコノミストは職業としての専門家でないということになる。・・・テレビのお笑いタレントとどこが違うのか・・・』、と。(P-75)
その最近のいい例が、大阪でのテレビである。(参照『お笑い維新劇場』)
大阪に限らず、政治屋と自称専門家とタレントが好き放題、めちゃくちゃなことを言って、げたげた笑って世間を惑わしている。晩の7時台の番組はどのチャンネルを回しても似たようなもので、見るに堪えない。
その大きな要因として、筆者は、《大阪には地方紙がない》ことを挙げている。東京には「東京新聞」があり、京都には「京都新聞」があり、その他の地方にも名だたる地方新聞がある。読売も朝日も毎日も首根っこは財界や政府にがっちり抑え込まれていて自由がきかない。しかも大企業で上位下達でしっかり統制され、しかも異動が多く知識が蓄積されず、記者の創意工夫が発揮されにくいと来ている。
だから、政権を監視し、権力者の批判をするという新聞社の役割が充分発揮されないという。
内容は盛りだくさんである。
30年前と同じ紋切り型の国会答弁をする新総裁の石破首相にも他の多くの裏金疑惑の議員らにも聞かせてやりたい内容の本である。
〇 〇 〇
『失われた30年』という言葉は、賃金や物価や日本の生産力など、《経済分野》で言及されられることが多いが、政治腐敗や人権や制度の問題にしても多くは同様のままである。
《30年間、賃金は少しも上がっておらず》、《日本の生産力は停滞し》、《男女格差は解消されず》、《利息はほとんどつかず》、《円の価値は下がり続け》、《軍事費だけが増大する》。
それらを放置し、金融緩和だとか言ってゼロ金利政策を維持しインフレ目標を2%にすることが妥当だと、もっともらしい説を展開する《経済学者》と専門家集団。
実際は、インフルどころか米不足や流通麻痺がおこるし、日々の物価はどんどん上がるし、災害が起こっても被災地は放置されたままだし、不安は募るばかりである。
そして若者と多くの国民は博打まがいの「新ニーサ」と夢洲のカジノに誘導される。
この間、経済状況も多くの事も何も進歩していないばかりか、停滞もしくは後退しているのだ。
皮肉なことだが、20年前、30年前に買った本が、今でもその効用が失われていないで、役に立つ。
困ったことだ。