後縦靭帯骨化症の闘病記録

突然発症した治療法の無い難病に、少しでも希望を探すために闘病記録を書くことにしました。

早過ぎた職場復帰

2017年05月12日 21時51分11秒 | 日記
退院してから、毎日リハビリを続けても、首と手足の痺れと痛みは取れず歩行障害も良くならない、じっと耐えるしかなく心配と不安感で心が砕ける日々が続きました。自主トレで歩けないくなった時、夜痺れと痛みが強くて眠れない時、もう楽になりたいと考えてばかりでした。毎日、痛いところや痺れているところ、麻痺しているところ、悪いところばかりが頭に浮かんできました。
起きているだけでも、腰や下半身の痺れと痛みが強くなり、夜も痛みが残り眠れず、先生に何度もそのことを相談して腰のレントゲンとMRI検査をお願いしました。でも、腰の後十字靭帯にも骨化している部分は見られるけど、そこまで痛みが出たり痺れたりするほどの異常ではないと言われました。頚椎の神経が圧迫されていた後遺症が残っているのではないかとのこと言われました。
早く復帰しなければ、家族や職場に迷惑をかけるとの焦りや心配もあり心の負担は増していくばかりでした。
そうして、ひと月近くが経ち少し歩けるようになり、7月11日からの職場復帰を決めました。
いざ職場復帰すると回りは、心配しながらも容姿はありません。職場復帰したのだから、当然仕事はできるものとして扱われ、残業までしなければならない状態でした。
単身赴任に戻り、家事もこなし、そんな状態でリハビリなど休みを取れるはずもなく、手足の痺れ痛み、歩行障害は悪化し始めました。通勤も歩行が辛くなって自転車に変え頑張りました。
そうした中で、8月25日に異動内示がありました。
当然、この様な病気を患い単身赴任をしてきたなか、家族の元に戻れると思っていましたが、次の異動先は石川でした。さすがに、これ以上の単身赴任は無理であり、どのような待遇でも地元に戻れるよう懇願したところ、降格を条件に戻ることになりました。
辛く苦しい思いして耐えたひと月余りは、一体なんのためなんだろうと、悔しくて口惜しくてたまりませんでした。無理をして身体を悪化させただけで、頑張った評価はされずに、病気になった役立たずとしか評価されなかったのでした。
それでも、家族の元に戻れた安心と家族の励ましで、仕事をしながらリハビリを再開して頑張りました。
だけど、降格後の給与明細を見たときには本当に落ち込みました。7万円近くが減額されていたのでいろいろ調べてみましたが、労基上では10%を超える減額処分はしてはならないとあったので労働組合に相談しましたが、本人が降格になっても良いと認めてしまったのでどうしようもないと言われました。
また、当時の上司たちが皆んな定年や異動でいなくなっていた、新しい上司が理解ある人たちであることが救いでした。

今だから言える教訓、自分のことは自分で守るしかない。他人に理解して貰おうと思う前に、自分自身の現状を理解すること。不利な条件は自分からは絶対に出してはならない、休んで処分を待った方が良い。
自分のことも守れないのに家族のことを守れるはずがない。
辛くて苦しい時には、無理をしないでワガママになっていいんだ。迷惑かけたなら元気になってから、お返しすればいい。



闘病生活の始まり

2017年05月10日 20時49分51秒 | 日記
闘病生活の始まり
手術して2日間は、首に装具を着けてベッド上で寝ているだけ、首が痛くて手足が痺れて辛くて仕方がありませんでした。手術して3日目にベッドの上に起き上がることができるようになって、ベッドの上でリハビリが始まりました。
4日目にトイレに行けるようになったけど、足に力が入らず歩行器を使ってやっとの状態でした。オシッコはなんとか行けるようになったけど、出しにくいのと残尿感がありました。それから、お腹に力が入らずウンコが出せなくて下剤を飲んで浣腸までして、6日目にやっと出せました。肛門が切れて便器が血で真っ赤になっていました。
手術して7日目、首に装具を着けてリハビリ室で運動リハビリが始まりました。寝ながらの足の運動、腹筋のトレーニングなど体幹と下半身の運動が1時間、それから手と腕の運動と指を使った作業など上半身の運動が1時間ずつありました。毎日少しずつ運動の質が重くなって行き、退院前には病院内の売店や図書室にも自由に行けるようになりました。
入院中、同室の人たちがみんな明るい人たちだったのが救いになりました。両足を骨折した人、腰椎ヘルニアで手術した人、右手を複雑骨折した人、みんなで励まし合いながらリハビリを頑張った。そんななか、入院が長くなった人たちは、別の病院への転院を勧められるようになりました。
毎日のリハビリで、少しずつ筋力が回復して2週間で首の装具が取れ、シャワーの許可もでました。シャワーを浴びて身体を洗ったときは、首から下の皮膚の感覚が麻痺しているのにすごくショックを受けました。
何と言っても、首の骨を無理やり広げて人工骨を入れ固定した状態なので、曲げたり捻ったりするのがすごく怖く感じました。
リハビリは、段々と苛酷になり、毎日汗だくになるようになりました。
手術して3週間、歩行器なしでなんとか歩けるようなったところで、そろそろ退院するように言われました。まだまだ首に痛みと手足の痺れ麻痺があり入院を希望しましたが、医療保険制度の決まりだとか言われ受け入れて貰えませんでした。弱者は、常に切り捨てられる、そんな世の中なんだとしみじみ感じました。
人は、その立場になって初めて、その立場がどんなものなのか分かります。
6月13日退院、その夜は首の痛みと手足の痺れが強く不安で眠れませんでした。
退院して翌日から、毎日、妻に送り迎えしてもらって通院リハビリに通う日々となりました。
やはり、自宅での生活は、病院と違って容態を見てくれる看護師さんもいないので不安になり眠れない日々が続きました。そんなある日、睡眠剤を飲み過ぎたのか、夜中に一人で、台所の椅子に座ってお菓子を食べたり、冷蔵庫からお茶を出して飲んでいたそうですが、まったく憶えていませんでした。
病院にリハビリに行っている時間は、不安はありませんでした。今もあまり変わっていませんが、かなり精神がまいっていたかと思います。

続く

遅くなった、難病の治療開始

2017年05月07日 18時06分20秒 | 日記
突然の異変…
2016年3月になり、突然足に力が入らなくなり歩行障害が起こりました。通勤は徒歩で15分の距離でしたが、半分も歩かないうちに足に疲れを感じるようになり、それから足が重たく前に出なくなり、25分ほどの時間がかかるようになりました。
そのうちに、手に痺れも感じるようになり、以前に通院していた整形外科に受診しました。けれど、大した検査もなく以前と同じ首のけん引とマッサージ治療を受けるだけでした。

でも、歩行障害は良くならず、翌月に地元に帰って赤十字病院を受診して検査を受けました。
その結果、頚椎後十字靭帯の骨化症が進み神経を圧迫していることが判明しました。
このまま歩行障害がひどくなるなら首の手術が必要と言われましたが、首の手術と言われ正直怖くて直ぐに手術することは考えられませんでした。

頚椎弓椎拡張手術…
それでも足に力が入らず、歩行障害は酷くなるばかりで、5月に入ってすぐに手術することを決意しました。
ところが、狭心症の治療で血液をサラサラにする薬を飲んでいたため、この薬の効果がなくなるのを2週間まつ必要があり、その間に手足の痺れと麻痺は見る見る進んで、入院した時には壁をつたい歩くような状態まで悪化していました。手術は、病気の進行を止めるためのもので、悪化した時にはすぐに手術した方が良いと言われていたので、この2週間の進行は本当に痛手になりました。先生には、4月に受診した時に伝えた置いたのに、もっと早く薬を止めることができたと思っています。

それから、入院して担当医師から、この病気、後十字靭帯骨化症は、国の難病に指定され、根本的な治療方法がない病気で、手術は病気の進行を止めるためのもので障害を改善させるものではない。障害の進行を止めるためには、できるだけ早く手術した方が良い。障害の改善は、その後のリハビリで、どこまで戻せるかにより個人差が大きいとの説明を受けました。
また、病院の事務の人からは、申請をすれば都道府県から医療費の助成を受けられると説明を受けましたが、すでに入院していたため、妻に県の保険センターに手続きに行ってもらいました。
ところが、単身赴任で住所を京都に移していたため、京都市の保険センターに手続きをするように、それから申請書類を保険センターで受け付けした日からしか助成出来ないこと、申請には本人の住民票や所得証明書などが必要で不備があると受け付けされないと言われたそうです。しかし、本人はすでに地元の病院に入院していて郵便で京都市から住民票、所得証明書を取り寄せてから保険センターに再度郵送するという手順を踏まなければならず入院期間の一部は助成が受けられませんでした。
病院も入院前に受診した時に説明して欲しかったと思います。
この時に、国や都道府県の対応が事務的で、弱者に冷たいということ。なんのための制度か、弱者を救うための制度ではないのかと怒りが込み上げました。

そしてようやく、2016年5月19日に約8時間の手術を受けました。
首の骨、第3頚椎から第7頚椎までの5本の骨を割って広げて固定する手術です。
頭近くまでメスで切開するためと、手術中に頭が動かないよう、頭の骨に金具を取り付けるために丸坊主にしました。
手術室に入って、手に点滴をされて意識がなくなりました。
手術が無事終わり、麻酔から目が覚めた時には、集中治療室に寝かされ首が固定されて身動き出来ない状態でした。
やはり、首がすごく痛くて手足も痺れ感覚が麻痺していました。天井の模様が人の顔に見えたり虫が這っているように見えたりしてすごく辛かったことを覚えています。
もし、全身麻酔でそのまま死んだとしたら、これほど楽な死に方はないと思います。
なぜなら、この後、何度も何度もそう考えるほどの辛くて厳しい現実が待っていました。

続く