由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

悲劇論ノート 第4回(ハムレット)

2015年08月06日 | 


  ギリシャ時代から幾世紀かを経て、神といへば、人間とはまるで次元の違ふところにまします者といふ信仰がヨーロッパで一般的になると、悲劇もまた、より直接に人と人の「あひだ」で起きるものを題材とせざるを得なくなる。そこで「誤解」は大きな役割を果たす。
 誤解(misunderstanding)とは何か。理解(understanding)しそこなふ(mis)ことである。人と人のあひだではそれは、コミュニケーションの「意味」を取り違へることを指す。ディスコミュニケーション状態が続いて起こる。そこで人は、「私」は「あなた」とは違ふ、と痛感させられる。即ち、人間の個別性が際立つ。その結果、人間関係が緊張し、揺れ動く。これはそのまま、劇、と呼べさうである。
 とはいへ、単なる思ひ違ひによつて右往左往するのは、悲劇のヒーローには相応しくないと考へられてゐたのだらう。古代では、さういふ者は喜劇の主人公になつた。
 しかしまた、悲劇と喜劇とはそんなに遠いものではない。少し目のつけどころを変へれば、滑稽なものが悲惨にも、またその逆にも、見える。さういふものだ。

 シェイクスピアは、「間違ひの喜劇」以来、実際にはありえないやうな誤解(双子を使つた、人物の取り違へなど)に基づいた喜劇を多数書いてゐる。悲劇ではさすがにそれは使へなかつたが、もつと深刻な認識の違ひなら、ほとんどすべての作品に見られる。
 「マクベス」は、予言の言葉の曖昧さ、その二重性(double sense)そのものを劇の動力にしてゐる。オィディプスなど、ギリシャ悲劇のヒーローが躓いたものが、ここでは最初から企まれたものとしてある。このやうな予言をもたらすものは、もはや神とは呼ばれない。「魔」である。それでも、予言の性質は変はらない。結果だけを、正確に告げるのだ。
 多少の工夫はあつて、一番有名な「バ―ナムの森がダンシネーンに向かつて来ない限り、マクベスは滅びない」は、「バーナムの森が……来るとき、マクベスは滅びる」を二重否定で表現してゐる。かう言はれると、最後だけが印象に残つて、「マクベスは滅びない」といふことだと思ひ込むのは、なるほど、ありがちな人間心理である。それだけマクベスは、神話的な英雄から、普通の人間に近づく。
 彼がからうじてヒーローであるのは、予言の真の意味が明らかになつた後でも、戦ひをやめないからだ。
「バーナムの森がダンシネーンに向かつて来やうと、敵のお前が女の胎から生まれた者でなからうと、俺は最後まで戦ふぞ。盾などは捨てる。かかつてこい、マクダフ! 先に『待て、もういい』と言つたはうが地獄行きだ」。
 この絶望的な戦ひは、まちがひなく彼のものである。即ちここに、他の何者でもない、彼自身がゐる。

 「オセロ」では、主人公を致命的な誤解に導くのは、超自然的な魔ではなく、邪悪な意図を持つた人間である。「リア王」になると、意図と呼べるほどのものさへなく、人の世によくある単純な追従を、主人公がそれと見抜けなかつたところから、国家全体の破滅に到る大騒動が始まる。
 それには一応理由があつて、彼らは、他人の上に絶大な権力を揮へる高い身分の者たちなので、単なる思ひ違ひが、一個人の範囲をはるかに超えたところまで被害を及ぼしてしまふのだ。さうでなければ、シェイクスピアも、他の誰も、これを悲劇の題材とすることはできなかつたであらう。
 それはさうでも、彼らの誤つた認識の下に始めた行為によつて、最も影響を与へられるのは彼ら自身であることは疑へない。
 そんなのは当たり前だ、と思へるかも知れないが、さうでないことは現実にいくらもある。リアが、三人の娘のうち上の二人に領土を譲つた直前か直後に、安らかな死に見舞はれたとすれば、彼の誤解によつて傷つくのは、追従を言ふことを潔しとしなかつたために冷たく扱はれた末娘のコーデリアと、彼女を支持する人間たちだけといふことになるだらう。例へばそんなやうなことは、けつかう起きるものだ。

 別人の悲劇だと、ラシーヌ「フェードル」では、テゼー(テセウス)は新しい妻フェードル(パイドラ)と息子との間に起きたことについて偽の情報を与へられ、その誤解に基づいて罪のない息子を呪ひ殺す。フェードルは、義理の息子への恋慕と、その結果彼を死なせてしまつたことへの自責の念に耐えきれず、自害する。一人残されたテゼーは、嘆くことしかできない。誤解し、決定的な行為をしたのは彼だが、彼は悲劇のヒーローではあり得ず、むしろ、妻と息子の悲劇の外側に置き去りにされた男である。
 だから、ヒーローの資格は、彼が何に基づいて何をしたか、に掛かつてゐるわけではない。その動機はなんであれ、彼が現にしたことの結果を、全身で受け止めることこそが要件なのだ。オセロは自死によつて、リアは狂乱によつて、自らの誤つた動機による行為の結果に対応する。彼らが「責任をとつた」ことになるのかどうかは難しい。しかし、彼ら自身と、彼らの行為とを改めて結びつけるやうな結末はつく。完結した悲劇が、そこに立ち現れるのである。

 いはゆるシェイクスピア四大悲劇のうち、最後の一つについてこれを見ると、どういふことになるだらう。主人公の境遇はオレステスとよく似てゐる。彼は身内の者によつて殺された王を父に持つ。そして母は、父の殺害者と結婚してゐる。これだけの条件がそろつたら、彼がやることは単なる復讐劇では終はれない。
 と、我々は予測する。劇の観客の特権は、実際は自分よりはるかに優れてゐるはずの人物が見通せない未来まで見通し、彼らがドラマのただ中にゐるがゆゑに斟酌できない事情まで考慮に入れることができる点だ。アリストテレスは、劇は叙事詩に比べると、限られた場所で起きた、より短い時間のできごとを描くので、鑑賞者が全体を見通しやすいのが長所だと言つてゐる(「詩学」)。
 ならば我々は、観客席に坐つた以上、かう思ふ権利があるのだらう。
「なるほど、こんな複雑な事情なのでは、ただ父親の仇を討つだけでは終はれないな。もつといろんな葛藤が生じるのだらう。よろしい、それを見せてくれ。全く予想もつかない事件が起きてもいつかうにさしつかへない。でも、最後には、ああ、かうなつたのはかういふ事情からなのだな、と必ず納得させてくれよ」。
 これに反して、最後まで見たのに、見通せない事情が劇の中にまだあると感じられたら、我々はひどく居心地の悪い思ひをしなければならなくなるだらう。
 もっとも、現代では、観客の、当然だつたはずのこの特権に挑戦するのだ、などと言つて、敢えて見通しを与へないままに劇を終へる劇作家も珍くない。さういふ時には、我々は別のやり方で納得する。わけのわからない劇世界の向かうに、世界をそのやうなものとして提示したがる作者の、心情を読み取るのである。それで感動ないしは満足が得られるのかどうかまではわからない。ともかく、劇がイベントとして、興業として成り立つ以上は、劇を作る側と受け取る側に、なんらかの黙契が存在してゐなければならない。それは確かなはずだ。

 「ハムレット」の見通しの悪さは、たぶん上に述べたやうなこととは違つてゐる。主人公は、何をどうなすべきか、最後の最後になるまでよくわかつてゐないやうだ。それだけなら、劇の世界でも物語の世界でも、よくあることだ。しかし、主人公とともに我々観客も、もしかすると主人公以上に、よくわからないまま、置き去りにされるかのやうな感覚がある。そんな劇と、我々はどのやうな黙契を結べるのだらうか。
 たぶんそのために、「ハムレット」は古来多くの批評家を悩ませてきた。いつたいこれは悲劇なのだらうか。
 人と人のあひだで、彼のものとされた役割を担ふこと、さうすることによつて、他の誰でもない、彼自身になること、自分の目にも他人の目にも。それが悲劇のヒーローの最低条件であるはずなのだ。役割は、苛酷なものほどよい。悲愴な感じが強まるから。オイディプスは知らぬうちに父を殺して母を娶り、しかも王者の義務として自らそれを明らかにする。オレステスは王の一族に連なる者の義務として、母殺しの大罪を犯す。このやうな並はずれた「義務」を背負ひきれる者が果たしてゐるのだらうか。ゐてもらひたいものだ。その願望と可能性をこそ、悲劇は示すのである。
 現実に生きてゐる者であれば、次のやうに言つたところで、我々は同じ人間として、人間の弱さを知るなら、決して非難はできないはずだ。
「オレは好きこのんである者の子どもとして生まれてきたんじやない。それなのに、お前はだれそれの子だから、当然何々をすべきだとか、すべきではない、とか、すべてオレ自身のせゐでもあるかのやうに言はれるなんて、全く不当だ」
 これで役割から逃げ出す者は、つまり平凡な人間である。とはいへ、こんな言ひ草がけつかう普通に聞かれるやうになつたのは、比較的近年のことであるかも知れない。「お前はAだ。だからaをやるべきだ」と言はれるのに対して、「オレは本当にAなのか。オレがaをやらねばならない理由は本当にあるのか」と問ひ返すのは、他人にばかりではなく自分にも問ふのは、自分自身に対する意識、即ち「自意識」と呼ばれ、優れて近代の産物だと考へられるから。
 ところで、ハムレットはかう言ふ。
「この世の関節がはずれてしまつたのだ。なんの因果か、それを直す役目を押しつけられるとは!」
 王子である彼自身に与へられた役目を、「なんの因果か」と、理由の分からぬもののやうに言ひ、「押しつけられた」とそれを担ふことへの不満も口にする。彼は「近代的自意識」の持ち主なのだらうか。さうも見える。それはこの端倪すべからざるヒーローの、特質の一つである。

 最初に亡霊が城壁に出現する。急死した先王ハムレットそつくりの姿をしてゐて、いかにも不吉だが、このときは見た者に予兆をもたらすだけで、何も告げない。
 次に、舞台は、一夜明けて、新王クローディアスの戴冠式直後の場面になる。ここで初登場する、父と同じ名を持つ王子は、昨晩の予兆も知らぬまま、不満をかこつてゐる。
 父の死の直後、父の弟、即ち彼の叔父が、王位と、先王の妃にして彼の母ガートルートの両方を手に入れた。「オイディプス王」と同じ設定。王が急に変はつた場合、王妃はそのままで、つまり新たな王と再婚する、といふことは、古来どれくらゐ実例があつたかは知らない。しかし、先王の所有物をそつくり引き継ぐのが次の王だとすれば、妻もその中に含まれるのも、女性の人格があまり尊重されない時代にあつては、自然なことに思はれたらうとは想像がつく。
 ただ、さうだとすると、「新王は、妃の夫にはふさはしくない」と言へば、それはそのまま、王たるに相応しくないことになるだらうか。多少の疑問は残るが、シェークスピア劇の鑑賞では、細かいことにこだわるのは禁物であるやうだ。ともかく、王子が最初に口にする不満はそれである。
「おなじ兄弟とはいふものの、似ても似つかぬあのやうな男と。それも、たつた一月。(中略)おお、なんたる早業、これがどうして許せるものか……いそいそと不義の床に駆けつける、そのあさましさ! よくないぞ、このままではすむまいぞ、いや、待つた、こればかりは口が裂けても、黙つてをらねばならぬ」
 この最初の独白に、既に、ハムレットの真骨頂が余すところなく示されてゐる。
 ガートルートは「不義の床」に行つたわけではない。前夫の死後一ヶ月で再婚するのは、当時の、そして今も、一般的な風習からして、早すぎるとは言へても、いはゆる不貞と同じだとは誰も言はない。ハムレットにはそれも許せない。母が、よりにもよつてあんな男と。それを皆が認め、祝ひさへするとは。彼は、「このままではすむまいぞ」と物騒なことまで口にする。
 この段階では誰も、劇中の人物たちも劇を見てゐる者たちも、この感情は、息子のものとして多少は共感できるとしても、正義に適つたものだとは言はないだらう。それはわかつてゐるからこそ、「口が裂けても、黙つてをらねばならぬ」のだが、その分彼の怒りは内攻し、その矛先は、だらしない母ガートルードをはるかに超えて、世界全体にまで向けられる。
「この世の営みいつさいが、つくづく厭になつた」
と、この独白の最初に彼は言つてゐた。この男の感情は、登場したときから過剰なのである。

 その夜ハムレットは、亡霊から真相を明かされる。
 新王こそ、先王を暗殺した張本人なのだつた。先王の霊は、仇討を依頼する、ただし、母を責めてはならぬ、と条件をつけて。
 今やハムレットの憎しみは明確な理由と対象が与へられた。あとはまつすぐに、使命を果たせばよい。オレステスは、仇討の相手が実母だつたにもかかはらず、さうしたのだ。他人からみてもそれが正義と言へるのかどうか、考へるのは他人に任せればよい。「オレステイア三部作」はそのやうな道筋を示してゐる。
 しかしハムレットは、この道を辿るにしては、複雑なものを抱へ過ぎてゐる。彼は、非道な方法で新王となつたクローディアスその人より、非道な王位継承を結果的に良しとしたデンマーク王国全体に疑惑の目を向ける。ガートルートはその代表者なのである。
 彼女を初め、誰もが真相を知らないのだから、で済む話ではない。王の人格は王国全体の性質を決定すると考へられるのであれば、王たるに相応しくない男が、王に相応しくない方法で現に王位についたデンマークは、それだけで腐つた国と呼ばれてよい。
 さらに話を複雑にする要素があつて、それはハムレット自身がデンマークの王子なのだから、腐つた体制の一翼を担つてゐる、とも見られることである。これはまた、ハムレットの、それまでの悲劇のヒーローとは違つた、特殊な位置である。
 オイディプスもオレステスも、生まれからすれば正当な王位継承者なのに、自力で回復するまでは、継承権を奪はれてゐた。ハムレットは、先王の死後すぐに王位を継ぐべきであつたのに、クローディアスに妨げられたのだらうか。そこはよくわからないが、前述の戴冠式直後の場で、他ならぬクローディアスが、ハムレットこそ自分の次の王となるべき者、と宣言したのである。あるいはこれは、彼がガートルートを我がものにするための条件だつたのかも知れない。
 これらを勘案し、さらに、知らなかつたではすまいない、といふほどに厳しい見方をするなら、ハムレットは、クローディアスとガートルートの次ぐらゐには、責任を問はれるべき存在だとされねばならない。

 もう少しさかのぼつて考へることもできる。悲劇のヒーローとは、状況が強いてくる「お前は何者だ」といふ問ひに、全身で向き合ふ者である。
 では、ハムレットとは誰か? デンマークの王子だ。誰が、どのやうにしてさう決めたのか? 先王ハムレットがノルウエーのフォーチンブラスと争ひ、一対一の決闘によつてその地位を得た。それを息子に譲るのなら、自然なこととして、全員ではないとしても(これまた父と同じ名を持つフォーチンブラスは、デンマークの王位奪還を狙つてゐる)、多くの者が納得し、何よりハムレット自身が納得し、「お前は何者だ」の問ひは、彼に関する限り、そこで終はつたであらう。
 その継承の間に叔父が割り込み、母もそれを良しとしてしまつたために、問ひは続いた。そして、続けば続くほど、この問ひは呪はしいものになつていかざるを得ない。
 ハムレットは、問ひに答へられぬままに、問ひ返し続ける。お前は何者だ。女郎屋の亭主か。違ふのか。ではせめて、その程度には正直であつてほしいものだな。お前は何者だ。美しい女か。では、亭主に角を生えさせぬやうに、尼寺へ行くがいい。デンマークとは何だ。牢獄だ。世界は牢獄だと言つていいのだらう。しかしデンマークは、中でも、最もたちの悪い牢獄だ、少なくとも俺にとつては……。
 彼は諧謔を弄んでゐるのか、あるいはさう見せかけて、彼にとつての真実を伝へようとするのか。おそらく自分にも定かではないだらう。どちらにもせよ、周囲にとつては、自分で持て余さざるを得ない自分を、臆面もなく人前にさらすような輩は、気違ひとしか扱ひやうがない。身分が高いために、捕へてどこかに押し込めるやうなことは簡単にできないのが厄介なところである。

 別の見方では、本来は世直しに着手すべき立場の者としては、ハムレットはひどく女々しいふるまひをしてゐる。彼自身も時にさう感じ、自分を叱咤する。
 とはいへ、現実に復讐に着手する前に、冷静に考へて、やつておくべきことはある。亡霊の告げたことは真実かどうか、確認しなければならない。彼はマルティン・ルターが教授をしてゐたこともあるウィッテンベルグ大学で学んでゐたのだから、幽霊の存在にはもともと懐疑的であつたはずだ。
 かくて第三幕の、宮廷内での芝居の上演がある。芝居の題名は「ゴンザーゴ殺し」。ゴンザーゴと呼ばれる王が暗殺され、その犯人が、遺された妃を、言葉巧みに誑かし、まんまと我が物とする、といふ筋だ。ハムレットはそこに新たな科白を追加し、亡霊から聞いた、実際のできごとへと芝居をより近づける。この芝居を見たときの王の様子から、彼が実際に罪を犯したものであるかどうか、窺はうとするのが、一応、目的だとされる。
 しかし、王夫妻といつしよに、大勢の廷臣たちの前で演じられ、さらに芝居をよく知つてゐる野次馬よろしく、ハムレットが解説的な野次を飛ばすものだから、この上演は、彼がやつてきたことの集大成、即ち、諧謔を弄ぶやうに見せて、彼だけが知つてゐるデンマーク王国の醜聞を暗示するものとなる。
 さらにそれ以上のものも潜んでゐるやうだ。劇中の王を殺すのは、王の弟ではなく、甥になつてゐる。これは何を示すのか。自分がこれから叔父に対してなさうとすることを予言してゐるのか、それとも、先の王の殺害に関しては、自分もまた完全に潔白なわけではないと言ひたいのか。
 我々はかういふところに、この複雑な人物の核心を見るべきなのだらう。ギリシャ悲劇にも、シェイクスピア劇にも、予言に拠つて行動し、予言に因つて滅ぶヒーローはゐる。オイディプスの場合でもマクベスの場合でも、予言とは彼らの隠れた欲望を外在化させて見せたものと考へることもできる。だからわかりやすい。
 一方ハムレットは、ヒーローであると同時に、自分自身とデンマーク全体の、予言者でもあるのだ。「オレステイア三部作」第一部の「アガメムノン」に登場するカッサンドルは、アポロンから正真な予言の能力を授けられたのだが、彼女の言葉は狂気のものとしか人々には受け取られない。この事情は、ハムレット自身についてもいくらか当て嵌まる。
 ただし、あくまで「いくらか」である。すべてが見えてしまつた者は、ヒーローたり得ない。もう何も行動する必要がないからだ。ハムレットの言動にはいかにも予言者めいたところがたくさんあるが、彼自身がどこまで本気でさうしてゐるのか、明らかではない。あるいは、行動するために、敢へて明らかにはしないのかも知れない。

 芝居の後、ガートルートに呼ばれたハムレットは、彼女の部屋へ行く途中で、自分の犯した罪の恐ろしさに打ちのめされて、祈りを捧げるクローディアスを見る。今ならたやすく彼を殺せる。さう思ふのだが、実行に移せない。父は罪を告白する前に殺されたので、今煉獄の炎に焼かれてゐるのに、祈つてゐる最中のクローディアスを殺したのでは、こちらは真直ぐに天国へ行つてしまふ、あまりに釣合ひが取れないではないか、といふのがその理由である。
 さうしてハムレットが去つてから、我々は、クローディアスが、「心をともなはぬ言葉が、どうして天にとどかうぞ」とひとりごちるのを聞く。ハムレットの見込みは大外れだつたのだ。しかし観客は、彼の迂闊さを嗤ひはしない。これだけ大掛かりな復讐劇が、ただの偶然によつて幕が降りたとしたら、それこそ納得しやうがないのだから。
 次に、ガートルートの部屋で、ハムレットは不実な母をさんざんに詰り、あはや殺しさうにさへなるので、壁掛の後に隠れて様子を窺つてゐた者がつい大声を出してしまふ。ハムレットは、壁掛の上から、その者を剣で刺し殺す。それは王か、と見れば、かつて彼が宿屋の亭主並みに正直であつてくれれば、と諷した、クローディアスの忠臣ポローニアスだつた。こんなところでクローディアスが死んだのでは話にならない、いや、芝居にならないのは前と同じ。
 それにしても、ポローニアスは、自分は「直接、まつすぐを狙わず、間接かつ適確に的を射当てるコツを知つてゐる」と自負してゐた。それは本当はハムレットの特技だつたやうだ。彼はいつもことごとく的を外してばかりゐるやうに見える。さうしながら、一歩一歩、最後の大目的、つまり、彼自身とクローディアスを含めて、先の王殺しに関りを持つ者全員を犠牲とする、デンマークの大浄化へと近づくのだから。

 ハムレットは境目に立つ人物なのだらう。彼は、たやすく亡霊や、そのお告げを信じることはできない。しかし、窮極のところで、自分の運命を、自分が他の何者でもない、自分自身にしかなれない瞬間がいつか来ることを、信じてゐる。
「一羽の雀が落ちるのも神の摂理。来るべきものは、いま来なくても、いずれは来る――いま来なければ、あとには来ない――あとに来なければ、いま来るだけのこと」
 我々にとつて、亡霊も予言も、もはや信ずるに足るものではない。それでも、運命がどうしたかうしたとは口にするが、それが何なのかは、皆目わかつてゐない。私にももちろんわからないが、なんとなく、次のやうなことは言へさうな気がする。
 「自分とは何か」の問ひには、つひに答へは得られないだらう。もしこの問ひがもはや尽き果てた、と感じられるときが来たら、そこで我々は自分の運命と、「自分自身」と出会つてゐるのだらう。いずれにしても、道は真直ぐであるはずはない。我々がこの世の中に生きるとは、人と人のあひだの、隘路を通ることでしかないのだから。あつちにぶつかり、こつちにぶつかり、躓いたり転んだりした果てに、いつかそのやうな瞬間が訪れると期待できるものだらうか?
 確信は持てない。我々は迷信をなくし、次いで「神の摂理」への信頼をもなくしたハムレットなのである。現代世界にも悲惨は満ち溢れてゐる。けれどそれから悲劇はもはや生まれない。悲劇といふジャンルは、人間が、「私は私だ。私は私以外の何者でもない」と断言できるほど偉大になり得る可能性に根拠を置いてゐる。さういふものは運命観といつしよに、とうに見失はれてゐるからだ。

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