由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

福田恆存に関するいくつかの疑問 その3(現代を舞台にのせること)

2014年10月06日 | 文学
メインテキスツ:『福田恆存全集 第八巻』(文藝春秋昭和63年)

サブテキスツ:現代演劇協會監修『福田恆存戯曲全集 別巻』(文藝春秋平成23年)


ケラリーノ・サンドロヴィッチ演出「龍を撫でた男」(平成22年、本多劇場)の舞台写真

 これまでは他人の見解への反論の形で福田恆存について縷々述べてきたが、やっぱり戯曲を正面から取り上ないわけにはいかない気になった。などと軽く言うのは恐れ多い。管見の限りで、福田の劇作を扱った論考は、日比野の「解つてたまるか!」論や拙稿「キティ颱風」論(『20世紀の戯曲Ⅱ 現代戯曲の展開』社会評論社平成14年刊所収)などがあるきりで、全体に渉る本格的なものはまだないから、以下の愚考は序説のそのまた入口にすぎないとしても、初の試みになりそうだ。もっともこういう事情は福田に限らない。彼自身が折に触れて述べてきたように、この国のいわゆる芸術文化の中で、新劇の扱いはごく小さいから、それに対する研究なども全般的に寥たるものなのは当たり前なのである。
 後付けの研究・評論ではなく、実践の場でこそ、先人の業績が肯定的にも否定的にも意識されることはほとんどないようだ。それが新劇の特色である。まあ、絵画や映画と違ってオリジナルは残らないし、ビデオでの記録だってごく最近のものしかない、という事情が最も大きいのは確かだが、それにしても。演劇人としての福田の最大の業績は、昭和30年、文学座による芥川比呂志主演「ハムレット」の訳・演出であり、これはわが国のシェイクスピア受容史上画期的なものだ、と私の大学院時代の指導教官だった河竹登志夫『日本のハムレット』(南窓社昭和47年)に書かれているが、その「ハムレット」を、知識として弁えている人もごくわずかであろう。

 と言ったら、思い出したことがある。私が福田恆存と言葉を交わしたほんの数回の、最初の時である。まだ大学院に籍があったはずだから、昭和55年頃だと思う。「『岸田國士とフランス演劇』というテーマで勉強しております」と言うと、福田先生は、「どうして岸田國士なの?」とお尋ねになる。なんと答えたか、正直、全然憶えていない。それは要するに、記憶に値するようなことは言えなかったからだから、惜しくも何ともない。しかし先生がさらにそれに対して答えた言葉ははっきりしている。「うむ、しかし私は日本の劇作家の中では真山青果しか認めないね。運命に立ち向かう人間を描けたのは彼だけだから」。
「では、ご自分の劇作はどうなるのですか?」と、今の私なら訊いたところだが、当時は二十代で、まださほど図々しくなかった。で、それなりになったのだが、福田が岸田を認めない、というのは、意外なようでも当然でもあるような気が同時にしたので、印象深かった。
 人間関係からすれば、岸田は福田の師と言ってよい。福田の戯曲が舞台に上ったのは昭和25年長岡輝子演出による「キティ颱風」が最初で、それは文學座の幹事の一人だった岸田に認められればこそだった。彼は昭和24年の10月に四、五日で二百枚以上ある同作を書きあげると、「他に先輩もないので思ひ切つて助言をお願ひ」(『福田恆存戯曲全集 別巻』より引用)するために、少しは面識があった岸田を訪れたのである。その時は岸田は留守だったが、数日経った11月初頭に葉書が届き、そこには簡単に「上出來だといふ結論と、すぐ會ひたいといふことが書いてあつた。私はうれしかつた」。
 ただ、この時の福田は知らなかったかも知れないが、岸田國士はそれ以前から福田に一応注目していたのである。昭和24年7月に発表された文章「新劇の黎明」には、この頃相前後して劇作活動を始めていた加藤道夫や三島由紀夫と並べて、「鋭利な批評家福田恆存は、「戯曲家の批評」と自ら称する「最後の切札」をもつてピランデルロを想はせる特異な作風を誇示した」(岩波書店版『岸田國士全集27』所収)と言っている。「最後の切札」は昭和23年に書かれ、同年雑誌『次元』に発表された。これをちゃんと読んで、作者の才能を認めたのだから、岸田の目配りは大したものであった。
 一方福田のほうは、岸田の死後三年経った昭和32年発表の『私の演劇白書四 リアリズムに還れ』にこう記している。「私は岸田國士や久保田万太郎を尊敬する。が、岸田國士の作品における「文學性」は小説の「文學性」である。さらにいへば、第一次大戰後の小説の衰退期に小説によつて戯曲の「文學性」を骨拔きにされたフランスの心理主義的戯曲文學の「文學性」なのである。ややこしい話だが、さういへよう」(同前)。
 私はこの岸田國士観には全く賛成しない。ただ、あくまで福田に即して言うと、岸田は、近代人、いや現代人の意識と心理を舞台上で活写することを目指した人だが、それは福田が演劇に求めたものではなかったことはわかる。ところが一方で、福田は現代劇の創作では、紛れもなく現代と現代人を描くことを課題の一つとしている。より正確には、「それは正面からは描けない」ということが主題になる場合がある。このような福田の立場こそ、「ややこしい話」であろう。

 例えばこういうことがある。「解つてたまるか!」には四人の文化人が登場し、ライフル魔事件の「解釈」を披露して、当のライフル魔村木にやっつけられる。そのうちの一人劇作家久田川順平は、こんなことを言う。「譬へば、私が戯曲を書く時、その登場人物達に殺人を犯させる事があります、しかし、それは單に殺人の爲に殺人を犯させるのではない、それなら通俗的なスリラー・ドラマになつてしまふ、劇作家としての私はさうではなく、殺人犯罪によつてしか證明出來ない或る何物かの存在を證明し現實化する爲に書くのです……」。対する村木の反応は、
スリラー・ドラマを書いたら良いではないか、書いて見ろよ、書けたら書いて見ろ……、書けないと書かないとでは大變な違ひだぞ、自分をごまかすなよ、藝術家振るなよ、この三文文士、スリラーが書けたら一人前だよ
 久田川のモデルは誰か、判然としないところがある。もう一人の登場人物で映画監督の「大濱茂」のほうはすぐに解る、それに比べれば、の話である。この頃、劇中の大濱と同じようなことをモデル氏がマスコミでしゃべっていたから。久田川のは、名前の一字が採られているところから、木下順二に落ち着くようだが、木下が上のようなことを言ったかどうか、私は知らない。
 むしろ福田は「くだくだしく言う」劇作家に仮託して、ここで些かの自己戯画を試みたのではないか、などと言えば明らかに穿ち過ぎではあるだろう。それでも私がこの思いつきを捨てられないのは、福田がスリラーを書きたいと思い、やってみたことがあると自分で言っているからである。昭和31年作の「明暗」がそれで、作者の死後に二度上演されているが、初演の時の評判はあまり芳しくなかったようだ(平成8年の、現代演劇協会による再演時のパンフレットにそう書いてあったと記憶する)。事実、遺憾ながら、スリラーとしてはそれほど傑作とは言えない。理由は単純で、中心になっている事件の全貌が観客の目に明瞭に写らないのである。
 それぞれに秘密を抱えているらしき多数の登場人物から成るスリラー劇、その同類を探すと、さしずめ、J・B・プリーストリー「夜の来訪者」やアガサ・クリスティ「ねずみとり」が思い浮かぶ。両作とも最後に「真相」が明らかとなり、またその結果や過程で、登場人物の人間像がくっきりと浮かび上がってくる。これによってサスペンス(宙吊り)状態が収まって安定感を得るのがスリラーの楽しみなのであって、最後まで見ても謎が残ってしまうなら、その分エンターテインメント性が薄れ、「芸術」と呼ばれるようなものになってしまう。劇ではないが、村上春樹のように、作中に多くの謎を散りばめておいて、そのままにして小説を終えるのは、「芸術」の悪用と呼ぶべきものだと思う。
 福田恆存にはそんなケチな根性はなかったろう。それにしても、「明暗」は、あまりにもすっきりしない。戯曲を読んでも舞台で見ても、全登場人物の血統、つまり誰が誰の子どもか、完全に把握できた人が何人いるか。複雑にからみあっているうえに、皆が嘘をつき、嘘には気がついても黙っているのが常態化している家族の話である。それで、第三幕の殺人の真相も、最終の第四幕(刑事が出てきて、普通なら解決編になるところ)で告白されても、それが「真実」かどうか、素直に胸に落ちてこないのだ。どうも作者は、わざとそうしているようにも思える。それならこの作品は、むしろアンチ・スリラーと呼ぶべきものである。
 ことは福田恆存の劇作の根底に関わっている。福田は、スリラーを「書かなかった」というよりは「書けなかった」のだろうが、それを技倆の問題としてはつまらない、と言うより、話が終わってしまう。福田を二流の劇作家として葬り去るのでなければ、そうなった事情を考えるべきだろう。

 根底にあるのは、何を真実としてどう伝えるか、極めて自覚的にならざるを得なかったところである。この点、福田恆存は明らかに現代劇作家なのだが、それについて評論で直截に語ることは殆どなかった。そこでは彼は「保守派」として、古典的な演劇の擁護者のようにふるまった。ただ古典と言っても、それはシェイクスピアを初めとする西洋演劇のことだから、日本の伝統とは関係ない。つまりそこでも何かを保ち守るというわけではなく、創始者でなければならなかったのである。
 この事情も興味深くはあるが、今回は劇作に的を絞ろう。岸田が言ったように、ピランデルロの影響は顕著だ。「最後の切札」は、「作者を探す六人の登場人物」を逆にして、「(満足な)登場人物が見つからない作者」の話という趣がある。いわゆるメタ演劇だが、創作上の問題を舞台で曝け出して見せる、という思いつき自体はどうということはない。それが現実世界とどのように相渉るのかが見えなくては、普通の観客には興味の持ちようがない。
 福田がピランデルロについて正面から論じたものとしては、昭和45年の「フィクションといふ事」(原題は「公開日誌・その五」『全集六』)があり、昭和39年に劇団雲が上演した「御意に任す」を採り上げている。この作品では、ある一家の奇妙なふるまいについて、「夫」と「姑」が全く違った説明をする。最後に登場する「妻」は、二つの矛盾する説明の両方を肯定して、人々をますます煙にまいた後で、「わたくし自身は、人が信じてくれる、その人間なのでございます!」(岩田豐雄訳)と言い放つ。
 もう少し細かく見ると、どうやら奥底には、災害によって、あるいはそれをきっかけにして惹き起こされた一家の悲劇がある。それを伝えることができるだろうか? 災害なら災害の「事実」は、マスコミを初め各種の「報告」で知ることはできる。しかし、そこで生きられた人々の「真実」は? 
 人は自分の体験を、自分の目というフィルターを通して眺め、自分の頭で編集・構成して語るしかない。言い換えれば、人生に唯一不変の真実はなく、人はそれぞれ自分についての物語を生きている。他から見て、それらが相互に矛盾をきたして、気に入らない、ということなら、どうぞご自由に、私はあなたが思うような人間になりましょう、と「妻」は言うわけだ。実際にはその通りにやれる人などいないから、この言葉こそ最大の嘘(フィクション)ということになるだろう。単一の真実をあくまで求めようとする人々(観客を含む)への贈り物としては、確かに相応しいようだ。
 ここを逆に見れば、他人の「理解」を求めても無駄だということになる。何しろ「正解」はないのだから、「それは誤解だ」などと言っても仕方ない。「(前略)誤解とは自分の自惚鏡に映つた自分の姿が、他人、或は世間の鏡に映つて崩壊することである。小林秀雄氏の言葉を私流に解釋すれば、自己の社會化とはこの崩壊に次ぐ崩壊の徹底的經驗にほかならない」(「フィクションといふ事」)。
 小林秀雄「私小説論」をこう解するべきかどうか、私にはわからない。この言葉はむしろ、福田の現代劇作法を自ら語ったものだとみたほうがよいようだ。それは崩壊の物語なのだ。個人の語る物語=フィクションだけでなく、細かいところには目をつぶってフィクションを共有することで成り立っている共同体が、そのフィクションを支えきれずに崩壊する。これこそ近現代に相応しいドラマだ、と彼は思っていたようである。

 私見では、福田の現代劇の最高傑作は、「龍を撫でた男」(昭和27年)だろう。【「總統いまだ死せず」は完成度の点で匹敵するが、こちらは福田後期の、思考実験劇であって、系統が異なる。前回記事を参照】。本人はT・S・エリオット「カクテル・パーティ」の続編を書いたらどうなるか、というところから構想されたと言っているが、むしろ、これまたピランデルロの、「ヘンリイ四世」をさかさまにしたような作品ではないか、と私は初読のときから感じた。正気と狂気の境が不安定に揺れ動いていく様相が劇の動因となるところが共通する。
 ピランデルロのでは、狂人とみなされている男が、自分がそうなることを望んでいる(意識的かそうでないかの差はある)人々に復讐する。「龍を撫でた男」は、主人公は精神科医で、家族を初め彼を取り巻く人々が皆どこかおかしい。精神科医は、非常な寛大さで彼らを支えているのだが、その寛大さとは無関心と見分けがつかない。クライマックスでは家族がそのことで彼を糾弾し、ために主人公は気が狂ってしまう。
 どちらも、正気―狂気を区別していた基準が曖昧になることで、というよりは元々確固とした基準はなかったことが明らかになって、劇中の世界は崩壊する。これはこれでなかなかスリリングではあるが、この結果、何かの「真相」が明らかになるわけではない。結末はあっても、その意味もまた曖昧なままなのだ。「ヘンリイ四世」の復讐は正当なものであったのかどうか。「龍を撫でた男」の家人の反抗は、主人公に甘え、依存しているからこそできたものであったことは終幕で示されるので、彼の狂気は今までやってきたことの報いであったと呼べるかどうか、わからない。このような曖昧さは、劇の結末が充分なカタストロフになることを妨げている。
 そうではなく、劇にきちんとした決着をつけたければ、嘘とは言わないまでもある手管が必要になる。引き合いに出した英国の二つのスリラーについて、別の言い方をすると、犯罪にはならないという意味で道徳的な罪を題材にしているが、だからといって、根本的に、「罪とは、そして罰とは何か」が追及されるわけではない。謎があり、その解決に観客の興味を誘導して、「真相」というカタストロフを与え、収まりをつけている。
 もっとも、プリーストリーの劇では、登場人物のうちある者は、罪の意識を背負っていくことが暗示されているようだが、余韻ではなく、それは彼らの生活の中で具体的にはどんな形になるのか、描くのは無理だろう。
 あくまでこだわろうというなら、なぜそれが「無理」なのか、そこのところに焦点を当てるしかない。
 そう言えば福田戯曲では何度か子供の死が語られている。「明暗」「龍を撫でた男」そして「ドン・キホーテ日本に現る」(昭和43)。いずれもその「真相」は曖昧である。それは主人公たちの上に暗い影を落としているのは事実だが、誰もが、それを正面から直視するほど強力ではないのだ。そういうのも紛れもなく、「現代」の特性であろう。

 少し違った観点から眺めるために、福田とは関係ない文章で何度か述べたことを繰り返してみたい。
 近現代とは、神とか民族とか国家とかの、人間を上からすっぽり覆っているように見えた「大きな物語」の力が、なくなったわけではないが、弱まった時代なのだ。おかげで、ソクラテスの時代なら、ごく少数の人が取り組めばよかった「汝自身を知れ」という要請が、かなり広い範囲まで届くようになった。その結果、人はある程度は「自分でなりたい自分になれる」ようにはなったが、他ならぬそのことが、「自分は本来は何者でもない」ことの証にもなる。
 さらに問題なのは、一般人にとっては、「自分は何者でもない」ことが、大した問題ではないところである。【我ながらひねこびた言い方だが、これに脱力感が持たれたとしたら、私が言いたいことの半ばは伝わったかなとも……】
 悲劇の主人公とは王侯貴族なのであって、彼らが何者であるかは、国家全体の問題に直結している。オイディプスの正体には、都市国家テーバイの命運がかかっているのだから、あくまで追求されねばならない。リアのまちがった選択は、彼が国王でさえなければ、彼一人が居所を失う結果だけで終わったのである。そういう老人は数多く、ありふれているからこそ、他人の興味を惹くのは難しい。だからそれを劇として提出するのは難しい。
 つまり、近代的自我の物語は、その根拠の薄弱さがすぐに見透かされるようなものであり、また、固執する意味もあまりないように感じられる。悲劇はとうてい成り立ち難い。この事情全体は喜劇的と言ってよいであろう。そこでは、どんな劇が可能なのか。
 岸田國士の、特に初期の短い劇作は、小市民の日常にふと訪れるささやかな違和感を叙情的に描いている。そこにも、「自分とは何か」に関する危機意識は読み取れるが、とても小さなもので、一瞬の驟雨のように現れては過ぎ去って、劇が始まった時と終わった時で、登場人物の境遇に変化はない。だからリアルであり、また安定感もある。
 福田は、それは劇ではない、劇だとしても衰弱したものだ、とみなしたわけだ。劇には行動がなくてはならない。その行動の意味も意義も疑わしいにしても。

 実質的な処女戯曲というべき「キティ颱風」に戻ると、全体が「はぐらかし」の技法でできているような芝居である。岸田國士の評言を借りると「人物の関係をことさら複雑に入り組ませたり、事件の中心を次第にぼかし、絶えず何かが起りさうで起らず、起りかけてはいつの間にか消える、言はヾ事件をはらむ雰囲氣の波狀の連續のなかに、一群の人物の心理と行動とを絶えずダブらせながら暗示的に誘導するといふ、まつたく常識的なドラマの逆を行く手法を用ひてゐる」(「福田恆存君の「キティ颱風」」『岸田國士全集二八』岩波書店平成4年)。
 普通の劇ではクライマックスになりそうな事件はある。ヒロインとその夫とが同じ夜に不審な死を遂げるのだが、作者はわざわざその意味を軽くすることに骨を折っているようだ。「太陽のやう」だと言われるヒロインは、サロンのホステスの風格があり、毎晩大勢の客に取り巻かれて過ごすことを喜びとしている。そこに集まるインテリの男たちの無意味な饒舌。その中に、この夫婦が抱えている深刻らしき問題が見え隠れするものの、舞台上でちゃんと追及されることはなく、いつの間にか忘れ去られるような感じになる。
 もっと端的なのは、一番重要な小道具である青酸カリの扱い。昭和25年なら、近衛文麿の自決に使われたことは多くの人の記憶にまだあったと思う。それが、まずドラ猫を退治するためにという理由で登場し、本物か偽物かもわからず、賭けの対象にされ(負けたほうが飲んでみる、という)、それもうやむやになった頃に、夫がそれを飲んで死んでしまう。それと同時刻に、妻のほうは崖から落ちて死ぬ。
 それでも劇は彼らの死の「真相」をめぐるスリラーにはならない。誰もそれを知ろうとする意欲を示さないのである。奇妙なサロンは解体し、人々はそれぞれの場へと戻り、どんな意味があるとも知れず、またそう問うこと自体に意義があるとも知れない生活を続けるしかない。ただ、不思議な喪失感はある。登場人物の一人がこう述懐する。

ごらんなさい、この光。もしこれが芝居だったら――そして、ぼくがその作者だつたら――あの事件のあとで、しかもこんな秋晴の光のもとに、ふたたび幕を開ける氣にはなれませんねえ……。残酷といふものですよ、そりやあ。夏の盛りを過ぎて、なほ生き殘つて蠢いてゐる人間のうへに、この明るさは……。残酷でなければ、皮肉で、諷刺だ、喜劇ですよ。

 「解つてたまるか!」の最後にも共通するこの明るい空虚。しかし、福田は「世界の終わり」に相応しい光景に強く惹かれる性向はあっても、決して絶望していたのではない。ここに直面し、ここを潜り抜けなければ、現代人にもまだしも可能な「真実」に到達することはできないことを、我にも人にも示したかったのだと思う。
 こういうことの全体をエンターテインメントにすることはできなかったろうか。ドストエフスキー「罪と罰」はそこにもっとも近づいた作品である。福田も、他の誰にも、そこまでいけないのはしかたない。だいたいドストエフスキーは、神を信じていたのだし。

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