一休ちゃんの、戦いは終わらない。でどうや?

よさこいの写真です。
フォトチャンネルのアルバムを
スライドシヨーで、フルスクリーンモードで
ご覧ください。

久しぶりに、

2013-03-19 08:53:30 | よさこい
一番派手な色の中でシャッターを切りました。

漆黒の画面の中に金糸の袖

動きの速い演舞

いつもは高速シャッターでほんの一瞬動きを切り取る。そういう写真が多いのですが

今回はせっかくの太陽の光に左右されない演舞なので

スローシャッターで写真の中で動いていただこうと思いました。

更に300mm強の焦点距離のレンズを手持ち撮影で移動しながらスローシャッターを切りながら

露光間ズーミングという、普通の概念では不可能だろうなと思いつつも

最近は多用しています。

大成功というほどの成果は得られていないけれども

それでも、不可能ではないんだということ。可能性を見出しています。

久喜総合文化会館の撮影の中でも何枚かはカタチになりつつあります。

視覚効果として表現できていますから。

一見、地味な写真に見えるかもしれませんが、

このブログに揚げたチャンネルの10000枚の写真の中では秀逸な写真です。

何度も見るうちに、何年かして見た時に

皆さんに再発見してもらえるような味のある写真です。





ファイナルよさこい。夕陽。逆光。だから残せる写真があるでしょ。

2013-02-01 20:45:12 | よさこい
写真の話です。
先だっての、坂戸・聖天宮・ファイナルよさこい で、感じたことです。

午前十時半 A流し会場での演舞が始まり、俺は喜んでいました。

演舞が進んでくる背景に太陽があったからです。

南から北に演舞が進んでくるからです。門の影から出た途端にファインダーの中で踊り子さんがキラキラと踊っていてきれいだったんです。

それで、A会場での流し演舞が済んだ時、思わずAJIちゃんに「すっげーきれいいかったよー」って訴えたたくらいに。

Bフリー会場でも、太陽の光が演じ手のうしろから差し込むような写真が撮りたくて、流し演舞の進行をするーして後ろ姿を撮ったりして。


でも、一番撮りたかったのは夕陽の中の演舞。

七月の天空よさこいでもこんな感じの写真が撮れると考えていたけれど、

夕陽は聖天宮の建物の影に落ちてしまい撮影は出来ず

結果的には昨年のファイナルよさこい以来、

まる一年を経てやっと撮影出来たのです。

二時三十分の光です。

出来れば、スライドモード、フルスクリーン表示でご覧下さい。



http://blog.goo.ne.jp/photo/218067?fm=entry

そして、地球の自転に任せた、なすがままなされるがままに与えられる光。

夕陽の中の四時の演舞。

http://blog.goo.ne.jp/photo/218181?fm=entry

演舞が済んでカメラをおろしたら身体が震えている事に気付きました。

屋外での撮影では天から降り注ぐ光を選ぶことは出来ずに

光の色・光の強さ・光の向き。光を感じ光と上手に話し会いながら

カメラの中に受け入れていく。

こんなきれいな光と演舞が結びつく機会なんて滅多に無い訳ですから

嬉しかったんでしょうね。


この日、最後に撮ったのがこの写真でした。

ファイナリストの演舞を撮れていたらば、

また別の感情が生まれていたのかもしれませんが。

演じての気持ちを感じながら、それが反映されるような写真を撮ることも

大切です。

でも、写真を撮る人は、光を感じ、光を受け入れ、光と共にあること、

光を生かし、光と遊び、光と戦うこと。光と戯れ、光を操る。

全てカタチはは光の中にあり、気持ちはカタチにやどり

光は気持ちを包む。

厳密に言えば、波長がとか反射がとかめんどくさいからいいやね。

年末だからついでに言えば、俺がステージを撮る時に、両袖から撮って

正面から撮らないのは、正面にはお客さんがいるから。

俺は観覧客ではなくてカメラマンだから、

お客さんに向いている演じ手の気持ちを撮るのが俺の役割りだから。

流し演舞で極力正面から撮るのは、道の両側にお客さんがいるから。

双方の距離感・空気感・気持ちは、踊り子さんの目線の先に何があって、

そこにどんな気持ちを向けて演じているのかを写す事が大切なんで。



今回は、疾風乱舞さんの天我凰翔を初めて拝見した時に、あの赤い扇子を

カメラと反対側からの光、逆光による透過光で撮りたいと考えてから、

やっとたどり着いた冬の洛陽の光での撮影。

逆光ほどドラマチックな演出をしてくれる光はないですから。

嬉しくて日記にしました。


当日、息をのむほど素晴らしい写真はどちらのチームでも撮れてましたが、

一つの演舞を100枚・ひと組のアルバムにまとめるには完成度に疑問があり

撮りおろしだけでは構成出来そうにないので、これからの作業になります。

ここに揚げた疾風乱舞さんは撮りおろしでほとんど手を加えてはいません。

以前に揚げた坂戸よさこいの演舞はお盆明けの真夏の直射日光を受けての

写真達。http://blog.goo.ne.jp/photo/196077

これは、貼り付けなくてもイイかなと思ったんだけれど“蛇足”です。

地方車のライトと逆光の太陽を入れたかったんだけれどもスレーミングが変

だわ。こりゃいかんわ。でも夏の光との違いを感じてもらえればと比較の為

に。

ワカパウォークの暖かい灯りの中。

光が丘の背景は真っ白な真夏の陽射しなのに踊り子さんには木漏れ日の

スローシャッターが切れたり。いろんな嬉しいがいっぱいです。


でも九時から六時とか、十時から四時半とか、ずぅ~と動きっぱなしでは

倒れてしまう。だからよさこいの撮影はキライ。



2013年1月3日です。追加で書き込みをします。

この日記はマイミクさんは一通りご覧になられた様子なので、

人目に触れる事はないかもしれませんが、あえて付け加えさせていただきます。

この中の夕陽の逆光の写真では、一つの画面の中に20人ちかく写りながら、

たった一人の顔も写っていない、全員後ろ姿の写真とか、

たった一人もしくわ数人で写っているのに表情のハッキリ見えないシルエットとか、

そんな写真がたくさんあります。

きっとよさカメ衆の写真ではありえない事なのかもしれないけれど、

踊り子さん達は、演舞を全身全霊を持って表現しようと、たくんの練習を積んで、

本番に望んでいるはずです。

彼らの演舞は、その背中からも、指先からも、舞う髪の流れからも、扇子の動きからも感じ取れます。

そのエネルギーが大きすぎて受け止め切れないほどです。

そんな想いで撮っている写真ですが、それがこの写真を見る人に伝わらないのは自分の力不足にほかなりません。

本気で性根を据えて挑まなければならないのだなと考えています。

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2012-10-29 06:30:39 | よさこい
久しぶりにセンターステージを真ん中真下で撮影しましたが、腕前は上がってます。

自分でもイイところを上手く撮っているなぁと(゜O゜)

感じたものを感じたように表現する。

感動したシーンを、感動してもらえる写真として形にする。

それが自分の役割ですから。

凄い写真を撮る皆さんを手本にして、高慢にならずにもっと考えていかないといけないとなりません。


発見。

2012-10-17 06:02:15 | よさこい
去る日曜日に、高崎雷舞フェスティバルに行ってきました。

もてなし広場のメインステージは大きかったです。

お客さんの席も巾・奥行共にボリュームがありました。

俺は、ステージ撮影では正面からの撮影だと多くの踊り子さんを一枚の画面に収めようとすると

多くのパースペクティブを必要として、一人一人の情報が小さくなってしまう。

パースペクティブを小さくしようとすると画角を小さくして一人分の情報は豊かになる。

それと引換に演舞全体の雰囲気を損ねてしまう。

そんな理由から、舞台に横一列で何層かに展開する構成を横一直線に写すことにしています。

一度に数人から数十人の踊り子さんの動きを一度に画面に留める事は

個々の動き・構成・雰囲気を一枚の画面に留める事が出来るからです。

ただ、左右どちらかの袖に立ってしまうと反対袖から撮ることが出来ない歯がゆさを感じていました。

ボリュームのある客席の後ろを回り込んで反対袖に移動するには時間が掛かる。

四分足らずの演舞の時間の中での移動は損失時間が多くて移動を断念せざるおうえなかったからのです。

いたしかたないない事かと思っていましたが、高崎では違いました。

バックステージを走って移動すれば、たったの十数秒で反対袖に移動出来たのです。

最初のうちはスタッフさんに訝しい目で見られましたが、続けるうちに黙認していただいた。

そんな感じです。

これは四分間の演舞の撮影に大きな表現力の可能性を見出しました。

ただパイロンの上に渡したバーを何度も超えるという身体的なリスクは大きかったです。

普段使わない筋肉を多用しまして、全身筋肉痛です。

いろんなところに筋肉があるんだなぁと、自分の体ながら再認識しました。

一度の演舞を両袖から撮った画像がどれほどのものなのかまだ確認は出来ていませんが楽しみです。

所沢では12000枚の画像を得て、その中から一つ一つの演舞をまとめながら構築していく。

そんな作業が重くてスランプ気味でしたが、スランプ脱出の糸口は掴めた感じがします。

他のカメラマンさんは、一つの演舞を一つにまとめようとはなさらないと思いますが、

四分間の演舞の流れを把握し伝えられる。そんな一つのアルバムを作る。

それが目的だったり結果になったりすると思います。

写真を撮ったら、その時点から全ては過去になる。二度と戻らない時間。

だから大切に育てないといけないと思います。

時間が経過し続ける以上、一度撮つた画像は育ち続けるのですから。

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2012-08-16 18:51:03 | よさこい
今日の午後は、朝霞襲雷華擊団の動画をたっぷりと拝見しました。

チョコチョコ白い帽子が邪魔だった。

でも、俺が撮っていた時の動画の演舞を見ていたら、なんであんな(自分の)写真になるのか理解できない。

そう思うくらい自分の写真ながら良く撮れている。

ファインダーを覗いているとイメージ出来ているというのは、それも面白い。

写真は、目の前にあるそのものを撮るのだけれども、

撮る側の気持ちも反映されます。

カメラの決めたピント一が適切なピントではないし、

カメラが決めた露出が撮り手の気持ちを反映したものであるとは限らない。

むしろ自分の気持ちを表現しようとしたならば、カメラ任せでは自分の気持ちは反映されないとさえ言えます。