前回は、奈川渡ダムから「野麦峠」へ向かうところまででした。
あれからナビを使って「野麦峠」へ向かいました。その「野麦峠」です↓
いろんな施設ができていました。
いろんな施設ができていました。
そもそも『野麦峠』とは・・・
岐阜県高山市と長野県松本市の県境に位置し、飛騨国と信濃国を結ぶ鎌倉街道・江戸街道と呼ばれる街道の峠。乗鞍岳と鎌ヶ峰の間にあり、標高1,672m。長野県道・岐阜県道39号奈川野麦高根線が通っている。
岐阜県高山市と長野県松本市の県境に位置し、飛騨国と信濃国を結ぶ鎌倉街道・江戸街道と呼ばれる街道の峠。乗鞍岳と鎌ヶ峰の間にあり、標高1,672m。長野県道・岐阜県道39号奈川野麦高根線が通っている。
そして、この峠は・・・
明治の初めから大正にかけて、当時の主力輸出産業であった生糸工業で発展していた諏訪地方の岡谷へ、飛騨の女性(多くは10代の少女)が女工として働くためにこの峠を越えた。
当時は飛騨の農家は貧しく、少しでも収入を得るには当時の日本の輸出主力品の生糸を作る工場へ勤めるしかなかったのです。
明治の初めから大正にかけて、当時の主力輸出産業であった生糸工業で発展していた諏訪地方の岡谷へ、飛騨の女性(多くは10代の少女)が女工として働くためにこの峠を越えた。
当時は飛騨の農家は貧しく、少しでも収入を得るには当時の日本の輸出主力品の生糸を作る工場へ勤めるしかなかったのです。
野麦峠が注目されたのは、昭和43年(1968)朝日新聞社から出された山本茂実のルポルタ-ジュの『あゞ野麦峠』です。山本氏はその当時の10数年におよび飛騨信州一円を取材し数百人の女工、工場関係者からの聞き取りを行ったという。その集大成がこの小説(事実といった方がいいかも)です。
その過程で出てきたのが弱冠20歳の若さで亡くなった女工の政井みねさんの話です。
山本氏はみねさんの兄からも聞き取りしていました。
山本氏はみねさんの兄からも聞き取りしていました。
その当時の女工さんの生活・仕事は今と比べられないほどひどいものでした。
周辺農村部から集められた大半の少女達は、山深い飛騨の山中の村々から連れてこられた貧しい農家の子供達であった。多くの少女達が半ば身売り同然の形で年季奉公に出されたのだった。工女たちは、朝の5時から夜の10時まで休みもほとんどなく過酷な労働に従事しました。工場では、蒸し暑さと、さなぎの異臭が漂う中で、少女達が一生懸命、額に汗をしながら繭から絹糸を紡いでいた。苛酷な労働のために、結核などの病気にかかったり、自ら命を絶つ者も後を絶たなかったという。
周辺農村部から集められた大半の少女達は、山深い飛騨の山中の村々から連れてこられた貧しい農家の子供達であった。多くの少女達が半ば身売り同然の形で年季奉公に出されたのだった。工女たちは、朝の5時から夜の10時まで休みもほとんどなく過酷な労働に従事しました。工場では、蒸し暑さと、さなぎの異臭が漂う中で、少女達が一生懸命、額に汗をしながら繭から絹糸を紡いでいた。苛酷な労働のために、結核などの病気にかかったり、自ら命を絶つ者も後を絶たなかったという。
それでも・・・
優秀な工女は「百円工女」と呼ばれました当時、百円といえば大変な大金だった。(家が一軒建てられるくらい)百円工女になることは彼女たちの誇りだった。だからこそ、無理をしてでも百円工女になるよう頑張った。
優秀な工女は「百円工女」と呼ばれました当時、百円といえば大変な大金だった。(家が一軒建てられるくらい)百円工女になることは彼女たちの誇りだった。だからこそ、無理をしてでも百円工女になるよう頑張った。
しかし・・・
そんな頑張りもつかの間のこと。重労働に疲れ、いつしか体は病気にむしばまれ、廃人同様となって工場の片隅に捨て置かれるようになってしまった。
そんな頑張りもつかの間のこと。重労働に疲れ、いつしか体は病気にむしばまれ、廃人同様となって工場の片隅に捨て置かれるようになってしまった。
岐阜県吉城郡河合村の角川から来た政井みねさんも「百円工女」でした。しかし、間もなく家族宛に「ミネビョウキスグヒキトレ」という工場からの電報が来ました。角川といえば高山からまだ七、八里(約30キロ)、奥越中(富山)との国境に近い、宮川沿いの小さなである。ここから岡谷まで七つの峠と30数里の険しい山道を、兄の辰次郎は宿にも泊らず夜も休みなしに歩き通して、たった2日で岡谷の山一林組工場にたどりつきました。病室へ入ったとたん、はっとして立ちすくんだ。美人と騒がれ、百円工女ともてはやされた妹みねの面影はすでにどこにもなかった。やつれはててみるかげもなく、どうしてこんな体で十日前まで働けたのか信じられないほどだった。病名は腹膜炎、重態であった。工場では辰次郎を事務所に呼んで十円札一枚を握らせると、早くここを連れだしてくれとせきたてた。工場内から死人を出したくないからである。
それから、松本で入院する事を勧めたが、自らの死を既に悟ったのであろうか、みねは故郷の飛騨へ帰りたいと兄の提案を拒否した。やむなく辰次郎はみねを背中に背負い、飛騨へ向かう事となった。
しかたなし辰次郎はまたそこもしょい出して、いよいよ野麦街道を新村、波田、赤松、島々、稲核、奈川渡、黒川渡、寄合渡、川浦と幾夜も重ねて、野麦峠の頂上にたどりついたのが11月20日の午後でした。
それから、松本で入院する事を勧めたが、自らの死を既に悟ったのであろうか、みねは故郷の飛騨へ帰りたいと兄の提案を拒否した。やむなく辰次郎はみねを背中に背負い、飛騨へ向かう事となった。
しかたなし辰次郎はまたそこもしょい出して、いよいよ野麦街道を新村、波田、赤松、島々、稲核、奈川渡、黒川渡、寄合渡、川浦と幾夜も重ねて、野麦峠の頂上にたどりついたのが11月20日の午後でした。
その時、峠から見えた野麦集落を見て↓
その言葉を言い残し、息を引き取った。1909年11月20日午後2時、弱冠20歳での死であった。
「みねは飛騨を一目みて死にたかったのであろう」、そういって辰次郎は六十年も昔のことを思いだして、大きなこぶしで瞼を押え声をたてて泣いていたそうです。
あぁ、飛騨が見える。あぁ、飛騨が見える。 |
その言葉を言い残し、息を引き取った。1909年11月20日午後2時、弱冠20歳での死であった。
「みねは飛騨を一目みて死にたかったのであろう」、そういって辰次郎は六十年も昔のことを思いだして、大きなこぶしで瞼を押え声をたてて泣いていたそうです。
くわしくは『あゞ野麦峠』を読んでください。(今度、買おうかな)
さて、自分が野麦峠に行った話に戻ります。あたりを見てみると↓
「みねの墓」とありますが、みねさんが亡くなったであろうと思われた場所に建てた碑があるだけです。
(実際のみねさんの墓は、岐阜県吉城郡河合村角川の専勝寺の真裏にあります)
時間と体力の関係で断念しました。(ヲイ!!)
「みねの墓」とありますが、みねさんが亡くなったであろうと思われた場所に建てた碑があるだけです。
(実際のみねさんの墓は、岐阜県吉城郡河合村角川の専勝寺の真裏にあります)
時間と体力の関係で断念しました。(ヲイ!!)
あとこんなものも↓
余裕がないので無理です・・・orz
余裕がないので無理です・・・orz
時間の関係でここで引き返しました。その途中でここを見つけました↓
『あゞ野麦峠』の一部ですね。
『あゞ野麦峠』の一部ですね。
こうして引き返し、そのまま松本へ。そしてそこから北上し、小谷温泉から笹ヶ峰を通り妙高高原へ抜けようとしましたが、『妙高高原へは抜けられません』との小谷村の看板があったので断念し、糸魚川から高速道路で上越へ帰りました。
最初は「旧 神岡鉄道」跡だけにしようかなと思ったのですが、最終的には『野麦峠』まで行ってきました。「野麦峠」についてはまた行きたいと思います。今度は鉄道ネタから離れてですが・・・
我々が今、当たり前だと思っていた生活。しかし、その生活の恩恵にあやかる事ができたのは彼女たちの頑張りもあったからも知れません。先人たちに感謝しつつ頑張って行きたいと思います。
最後に少し湿っぽい話でしたが、これをもって一連のシリーズを終了いたします。ありがとうございました。
Written by ブツクサ・ボヤッキー |
※なお本来なら非鉄ネタなので別HNですが、神岡鉄道へ行った事の延長のようなものなので鉄道専用HNで表示しました。