(一社)山口県バスケットボール協会顧問の枝折幸正氏が昨年10月に逝去されました。
常務理事 西村修氏の追悼文を掲載します。
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「故 枝折幸正先生を偲んで」 西村 修
「おー、西村ようー、どうかいのー」。
枝折幸正先生との話はいつもこのフレーズから始まった。包み込むようなあの笑顔にもう会えないことが、今もって信じられない。体育教官室のドアを開けて今にも顔をのぞかせそうな気がしてならない。
逝去の報に、県外からもひっきりなしに電話が鳴った。バスケットと酒席をこよなく愛し、面倒見のよかった枝折先生の早過ぎる死を悼む声に胸が詰まった。
先生との最初の出会いは、昭和52年、小野田高校3年生のときだった。春の中国大会予選準々決勝で27歳の枝折監督率いる岩国高校と対戦し、30点差で圧勝した。3位出場の中国大会1回戦では県立広島商高を20点差で下し、一ヶ月後に高校総体の準々決勝で再び岩国と相まみえても勝利を疑わなかった。ところが、こちらのプレーはことごとく読まれ、分断されたあげく20点差の完敗に終わった。思いもよらぬ敗戦のショックと枝折先生のしてやったりの表情は、今でもはっきり覚えている。
これが自分を指導者の道へと導く大きなきっかけになった。ただ、それから40年以上にわたって公私とも先生にお世話になろうとは、そのときは夢にも思わなかった。
教員になっての初任校は広瀬高校(現・岩国高校広瀬分校)で、岩国高校にはもちろん枝折先生がおられた。33歳の頃であろうか。また、高水高校では山本和久先生、田丸暁先生がチーム作りに余念がなかった。大会ごとの打ち上げの席はバスケット談義で盛り上がり、お開きが3時、4時となることはざらだった。先輩諸氏のバスケットにかける情熱は凄まじいものがあり、数年後に安下庄高校に着任した原守彦先生ともども、若い二人にとっては薫陶と刺激に満ちた場だった。
二人とも田舎暮らしだったため、教員大会などのたびに岩国市藤生の教員住宅の枝折宅に泊めていただき、お世話になった。というより、トイレを詰まらせたり道路を汚したりと大迷惑をかけた。二人の子供は、どうしてだか実家に帰らされていた。
今にして、最初の赴任地が岩柳地区だったのは自分にとって幸せなことだったと気付く。「あの憎き」のはずだった枝折先生なくして、教員・西村修はなかった。
広瀬高校から防府高校に転勤し、枝折監督の下、国体少年男子チームのアシスタントコーチを務めることになった。選手個々の持ち味や技倆を見抜く眼力、能力・適性を踏まえたチーム戦術・戦略の立て方を間近に見て、目から鱗が落ちる思いがした。
この時代、強く印象に残っているのが平成3年の高校総体予選である。5月の中国大会を制して大本命視されていた山口高校と準々決勝で対戦した岩国高校は、個々の能力で勝る山高相手にその弱点を鋭く突いて59対45と快勝した。まさに枝折マジックの面目躍如だった。会場の防府高校体育館は、まさかまさかの展開に異様な雰囲気に包まれたことを記憶している。勢いそのまま岩国高校は浜松インターハイ出場へと突き進んだ。ちなみにこのときの岩国のセンタープレイヤーは、現在スポーツライターとして活躍する三上太氏である。
枝折先生の功績は、コート上にとどまらない。40歳で高体連バスケットボール専門委員長に就任し、10年間にわたって県高校バスケット界を牽引した。活動の三本柱として「強化」「審判」「広報」を据え、次々と改革を断行した辣腕ぶりは今も語りぐさになっている。高校総体の組合せ公開抽選と一体化した「顧問会」の開催、機関誌「南風」の発行、県外強豪校視察、大会パンフレットの作製など挙げればきりがない。
当時、私は山防地区の専門委員だった。枝折先生はしきりに「物事を変えていくには波風を立てなければだめだ」と言われていた。我々若い専門委員には「やりたいと思うことを言え。援助は惜しまん」とハッパをかけてもらった。実に心強く、皆で自由にアイデアを出し合った。「南風」や大会パンフレットなどはそうした気運の中から生まれたものである。また、当時国際審判員として活躍されていた小池正夫先生を介して、世界的に高名な金聖徳氏や李慈玉氏(世界選手権2位コーチ)の指導を仰いだり、国体少年男子チームが遠征したりするなど、韓国との縁も深まった。李氏には山口県で指導者講習会まで開いていただいた。これも、枝折先生の強力なリーダーシップと幅広いバックアップがあっての快挙であった。
宇部工業高校に転勤した私は、枝折先生の後を継いで専門委員長を拝命した。12年の長きにわたり重責を果たすことができたのは、枝折委員長の時代に築かれた確かな礎があったからこそである。そのDNAは、私の後の山根委員長、そして現在の高部委員長にも受け継がれ、脈々と息づいている。
大会のたびにいろいろな話をさせていただいた。ゲームを見る目は的確で厳しいが、我々や若い指導者には気さくに声をかけ、アドバイスや時に叱咤激励される姿が懐かしく思い出される。
男子指導のイメージが強い先生ながら、若い頃は岩国高校の女子チームのベンチにも立ち、国体成年女子チームの監督をされたこともある。また、亡くなる前の数年間は、岩国中学校の女子チームの指導をされていた。葬儀の日、斎場の外まであふれかえった参列者の中には、かつての教え子はもとより、近年の教え子の女子高校生、中学生の姿も多く見られた。功労と人徳が偲ばれる光景だった。
旅と美味しいものに目がなく、奥様と連れ立ってよく出かけられていた。「西村よう…」と声を掛けられ何の話かと思えば、「この前どこそこに行ってのう、えかったでー。お前も奥さん連れて行ってこいや」。いかにも嬉しそうな姿が忘れられない。奥様とともに、お孫さんを抱きかかえて応援する姿もしばしば見かけた。酒が入り興に乗ると、目を細めて子息の健吾氏、康孝氏の話をされた。最近では、名門校・豊浦高校を率いる康孝氏を訪ねてたびたび下関まで足を延ばされていたと聞く。
定年退職の年には、その記念として岩国市総合体育館を借り切り錬成会を催された。枝折家挙げての懇親会は大いに盛り上がった。思えば、家族を支え、家族に支えられた生涯であった。
改めて、枝折先生が築き残されたものの重さ、大きさに気付かされる。感謝は尽きない。大事に引き継ぎ、発展させるのが残された者の務めだと思うと身が引き締まる。
今頃あちらでは、山本先生や田丸先生、原先生らとバスケ談義を肴に盃を交わしておられるのだろうか。今や山口県バスケット界を支える柱となった健吾氏と康孝氏の様子を、あの屈託のない笑顔で頼もしそうに見下ろされているに違いない。
枝折先生、ありがとうございました。そして、どうかこれからも私達を見守ってください。言葉は足りませんが、心から御冥福をお祈りして追悼の辞とします。合掌。
常務理事 西村修氏の追悼文を掲載します。
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「故 枝折幸正先生を偲んで」 西村 修
「おー、西村ようー、どうかいのー」。
枝折幸正先生との話はいつもこのフレーズから始まった。包み込むようなあの笑顔にもう会えないことが、今もって信じられない。体育教官室のドアを開けて今にも顔をのぞかせそうな気がしてならない。
逝去の報に、県外からもひっきりなしに電話が鳴った。バスケットと酒席をこよなく愛し、面倒見のよかった枝折先生の早過ぎる死を悼む声に胸が詰まった。
先生との最初の出会いは、昭和52年、小野田高校3年生のときだった。春の中国大会予選準々決勝で27歳の枝折監督率いる岩国高校と対戦し、30点差で圧勝した。3位出場の中国大会1回戦では県立広島商高を20点差で下し、一ヶ月後に高校総体の準々決勝で再び岩国と相まみえても勝利を疑わなかった。ところが、こちらのプレーはことごとく読まれ、分断されたあげく20点差の完敗に終わった。思いもよらぬ敗戦のショックと枝折先生のしてやったりの表情は、今でもはっきり覚えている。
これが自分を指導者の道へと導く大きなきっかけになった。ただ、それから40年以上にわたって公私とも先生にお世話になろうとは、そのときは夢にも思わなかった。
教員になっての初任校は広瀬高校(現・岩国高校広瀬分校)で、岩国高校にはもちろん枝折先生がおられた。33歳の頃であろうか。また、高水高校では山本和久先生、田丸暁先生がチーム作りに余念がなかった。大会ごとの打ち上げの席はバスケット談義で盛り上がり、お開きが3時、4時となることはざらだった。先輩諸氏のバスケットにかける情熱は凄まじいものがあり、数年後に安下庄高校に着任した原守彦先生ともども、若い二人にとっては薫陶と刺激に満ちた場だった。
二人とも田舎暮らしだったため、教員大会などのたびに岩国市藤生の教員住宅の枝折宅に泊めていただき、お世話になった。というより、トイレを詰まらせたり道路を汚したりと大迷惑をかけた。二人の子供は、どうしてだか実家に帰らされていた。
今にして、最初の赴任地が岩柳地区だったのは自分にとって幸せなことだったと気付く。「あの憎き」のはずだった枝折先生なくして、教員・西村修はなかった。
広瀬高校から防府高校に転勤し、枝折監督の下、国体少年男子チームのアシスタントコーチを務めることになった。選手個々の持ち味や技倆を見抜く眼力、能力・適性を踏まえたチーム戦術・戦略の立て方を間近に見て、目から鱗が落ちる思いがした。
この時代、強く印象に残っているのが平成3年の高校総体予選である。5月の中国大会を制して大本命視されていた山口高校と準々決勝で対戦した岩国高校は、個々の能力で勝る山高相手にその弱点を鋭く突いて59対45と快勝した。まさに枝折マジックの面目躍如だった。会場の防府高校体育館は、まさかまさかの展開に異様な雰囲気に包まれたことを記憶している。勢いそのまま岩国高校は浜松インターハイ出場へと突き進んだ。ちなみにこのときの岩国のセンタープレイヤーは、現在スポーツライターとして活躍する三上太氏である。
枝折先生の功績は、コート上にとどまらない。40歳で高体連バスケットボール専門委員長に就任し、10年間にわたって県高校バスケット界を牽引した。活動の三本柱として「強化」「審判」「広報」を据え、次々と改革を断行した辣腕ぶりは今も語りぐさになっている。高校総体の組合せ公開抽選と一体化した「顧問会」の開催、機関誌「南風」の発行、県外強豪校視察、大会パンフレットの作製など挙げればきりがない。
当時、私は山防地区の専門委員だった。枝折先生はしきりに「物事を変えていくには波風を立てなければだめだ」と言われていた。我々若い専門委員には「やりたいと思うことを言え。援助は惜しまん」とハッパをかけてもらった。実に心強く、皆で自由にアイデアを出し合った。「南風」や大会パンフレットなどはそうした気運の中から生まれたものである。また、当時国際審判員として活躍されていた小池正夫先生を介して、世界的に高名な金聖徳氏や李慈玉氏(世界選手権2位コーチ)の指導を仰いだり、国体少年男子チームが遠征したりするなど、韓国との縁も深まった。李氏には山口県で指導者講習会まで開いていただいた。これも、枝折先生の強力なリーダーシップと幅広いバックアップがあっての快挙であった。
宇部工業高校に転勤した私は、枝折先生の後を継いで専門委員長を拝命した。12年の長きにわたり重責を果たすことができたのは、枝折委員長の時代に築かれた確かな礎があったからこそである。そのDNAは、私の後の山根委員長、そして現在の高部委員長にも受け継がれ、脈々と息づいている。
大会のたびにいろいろな話をさせていただいた。ゲームを見る目は的確で厳しいが、我々や若い指導者には気さくに声をかけ、アドバイスや時に叱咤激励される姿が懐かしく思い出される。
男子指導のイメージが強い先生ながら、若い頃は岩国高校の女子チームのベンチにも立ち、国体成年女子チームの監督をされたこともある。また、亡くなる前の数年間は、岩国中学校の女子チームの指導をされていた。葬儀の日、斎場の外まであふれかえった参列者の中には、かつての教え子はもとより、近年の教え子の女子高校生、中学生の姿も多く見られた。功労と人徳が偲ばれる光景だった。
旅と美味しいものに目がなく、奥様と連れ立ってよく出かけられていた。「西村よう…」と声を掛けられ何の話かと思えば、「この前どこそこに行ってのう、えかったでー。お前も奥さん連れて行ってこいや」。いかにも嬉しそうな姿が忘れられない。奥様とともに、お孫さんを抱きかかえて応援する姿もしばしば見かけた。酒が入り興に乗ると、目を細めて子息の健吾氏、康孝氏の話をされた。最近では、名門校・豊浦高校を率いる康孝氏を訪ねてたびたび下関まで足を延ばされていたと聞く。
定年退職の年には、その記念として岩国市総合体育館を借り切り錬成会を催された。枝折家挙げての懇親会は大いに盛り上がった。思えば、家族を支え、家族に支えられた生涯であった。
改めて、枝折先生が築き残されたものの重さ、大きさに気付かされる。感謝は尽きない。大事に引き継ぎ、発展させるのが残された者の務めだと思うと身が引き締まる。
今頃あちらでは、山本先生や田丸先生、原先生らとバスケ談義を肴に盃を交わしておられるのだろうか。今や山口県バスケット界を支える柱となった健吾氏と康孝氏の様子を、あの屈託のない笑顔で頼もしそうに見下ろされているに違いない。
枝折先生、ありがとうございました。そして、どうかこれからも私達を見守ってください。言葉は足りませんが、心から御冥福をお祈りして追悼の辞とします。合掌。