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一般社団法人山口県バスケットボール協会公式ブログ

故枝折幸正氏 追悼文

2021-01-31 21:29:53 | 読み物
(一社)山口県バスケットボール協会顧問の枝折幸正氏が昨年10月に逝去されました。
常務理事 西村修氏の追悼文を掲載します。

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「故 枝折幸正先生を偲んで」 西村 修

 「おー、西村ようー、どうかいのー」。
 枝折幸正先生との話はいつもこのフレーズから始まった。包み込むようなあの笑顔にもう会えないことが、今もって信じられない。体育教官室のドアを開けて今にも顔をのぞかせそうな気がしてならない。
 逝去の報に、県外からもひっきりなしに電話が鳴った。バスケットと酒席をこよなく愛し、面倒見のよかった枝折先生の早過ぎる死を悼む声に胸が詰まった。

 先生との最初の出会いは、昭和52年、小野田高校3年生のときだった。春の中国大会予選準々決勝で27歳の枝折監督率いる岩国高校と対戦し、30点差で圧勝した。3位出場の中国大会1回戦では県立広島商高を20点差で下し、一ヶ月後に高校総体の準々決勝で再び岩国と相まみえても勝利を疑わなかった。ところが、こちらのプレーはことごとく読まれ、分断されたあげく20点差の完敗に終わった。思いもよらぬ敗戦のショックと枝折先生のしてやったりの表情は、今でもはっきり覚えている。
 これが自分を指導者の道へと導く大きなきっかけになった。ただ、それから40年以上にわたって公私とも先生にお世話になろうとは、そのときは夢にも思わなかった。

 教員になっての初任校は広瀬高校(現・岩国高校広瀬分校)で、岩国高校にはもちろん枝折先生がおられた。33歳の頃であろうか。また、高水高校では山本和久先生、田丸暁先生がチーム作りに余念がなかった。大会ごとの打ち上げの席はバスケット談義で盛り上がり、お開きが3時、4時となることはざらだった。先輩諸氏のバスケットにかける情熱は凄まじいものがあり、数年後に安下庄高校に着任した原守彦先生ともども、若い二人にとっては薫陶と刺激に満ちた場だった。
 二人とも田舎暮らしだったため、教員大会などのたびに岩国市藤生の教員住宅の枝折宅に泊めていただき、お世話になった。というより、トイレを詰まらせたり道路を汚したりと大迷惑をかけた。二人の子供は、どうしてだか実家に帰らされていた。
 今にして、最初の赴任地が岩柳地区だったのは自分にとって幸せなことだったと気付く。「あの憎き」のはずだった枝折先生なくして、教員・西村修はなかった。

 広瀬高校から防府高校に転勤し、枝折監督の下、国体少年男子チームのアシスタントコーチを務めることになった。選手個々の持ち味や技倆を見抜く眼力、能力・適性を踏まえたチーム戦術・戦略の立て方を間近に見て、目から鱗が落ちる思いがした。
 この時代、強く印象に残っているのが平成3年の高校総体予選である。5月の中国大会を制して大本命視されていた山口高校と準々決勝で対戦した岩国高校は、個々の能力で勝る山高相手にその弱点を鋭く突いて59対45と快勝した。まさに枝折マジックの面目躍如だった。会場の防府高校体育館は、まさかまさかの展開に異様な雰囲気に包まれたことを記憶している。勢いそのまま岩国高校は浜松インターハイ出場へと突き進んだ。ちなみにこのときの岩国のセンタープレイヤーは、現在スポーツライターとして活躍する三上太氏である。

 枝折先生の功績は、コート上にとどまらない。40歳で高体連バスケットボール専門委員長に就任し、10年間にわたって県高校バスケット界を牽引した。活動の三本柱として「強化」「審判」「広報」を据え、次々と改革を断行した辣腕ぶりは今も語りぐさになっている。高校総体の組合せ公開抽選と一体化した「顧問会」の開催、機関誌「南風」の発行、県外強豪校視察、大会パンフレットの作製など挙げればきりがない。
 当時、私は山防地区の専門委員だった。枝折先生はしきりに「物事を変えていくには波風を立てなければだめだ」と言われていた。我々若い専門委員には「やりたいと思うことを言え。援助は惜しまん」とハッパをかけてもらった。実に心強く、皆で自由にアイデアを出し合った。「南風」や大会パンフレットなどはそうした気運の中から生まれたものである。また、当時国際審判員として活躍されていた小池正夫先生を介して、世界的に高名な金聖徳氏や李慈玉氏(世界選手権2位コーチ)の指導を仰いだり、国体少年男子チームが遠征したりするなど、韓国との縁も深まった。李氏には山口県で指導者講習会まで開いていただいた。これも、枝折先生の強力なリーダーシップと幅広いバックアップがあっての快挙であった。

 宇部工業高校に転勤した私は、枝折先生の後を継いで専門委員長を拝命した。12年の長きにわたり重責を果たすことができたのは、枝折委員長の時代に築かれた確かな礎があったからこそである。そのDNAは、私の後の山根委員長、そして現在の高部委員長にも受け継がれ、脈々と息づいている。
 大会のたびにいろいろな話をさせていただいた。ゲームを見る目は的確で厳しいが、我々や若い指導者には気さくに声をかけ、アドバイスや時に叱咤激励される姿が懐かしく思い出される。
 男子指導のイメージが強い先生ながら、若い頃は岩国高校の女子チームのベンチにも立ち、国体成年女子チームの監督をされたこともある。また、亡くなる前の数年間は、岩国中学校の女子チームの指導をされていた。葬儀の日、斎場の外まであふれかえった参列者の中には、かつての教え子はもとより、近年の教え子の女子高校生、中学生の姿も多く見られた。功労と人徳が偲ばれる光景だった。

 旅と美味しいものに目がなく、奥様と連れ立ってよく出かけられていた。「西村よう…」と声を掛けられ何の話かと思えば、「この前どこそこに行ってのう、えかったでー。お前も奥さん連れて行ってこいや」。いかにも嬉しそうな姿が忘れられない。奥様とともに、お孫さんを抱きかかえて応援する姿もしばしば見かけた。酒が入り興に乗ると、目を細めて子息の健吾氏、康孝氏の話をされた。最近では、名門校・豊浦高校を率いる康孝氏を訪ねてたびたび下関まで足を延ばされていたと聞く。
 定年退職の年には、その記念として岩国市総合体育館を借り切り錬成会を催された。枝折家挙げての懇親会は大いに盛り上がった。思えば、家族を支え、家族に支えられた生涯であった。

 改めて、枝折先生が築き残されたものの重さ、大きさに気付かされる。感謝は尽きない。大事に引き継ぎ、発展させるのが残された者の務めだと思うと身が引き締まる。
 今頃あちらでは、山本先生や田丸先生、原先生らとバスケ談義を肴に盃を交わしておられるのだろうか。今や山口県バスケット界を支える柱となった健吾氏と康孝氏の様子を、あの屈託のない笑顔で頼もしそうに見下ろされているに違いない。

 枝折先生、ありがとうございました。そして、どうかこれからも私達を見守ってください。言葉は足りませんが、心から御冥福をお祈りして追悼の辞とします。合掌。




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〔夢追い人列伝〕 その四 佐浦益子伝

2020-09-24 23:20:47 | 読み物
昭和・平成の時代に山口県バスケットボール競技の普及・発展に大きく寄与した先覚者の取組をお伝えする「夢追い人列伝」第4回は、佐浦益子氏です。ぜひご一読ください。

夢追い人列伝
その四 佐浦益子伝(PDF版) 2020/09/24

◆佐浦氏が自ら執筆された、以下の文章もどうぞ。
  「気がつけば、この道40年」(PDF版)
   (高体連機関誌「南風」第7号(平成5年4月)-第12号(平成7年1月)に連載)
  「優れた指導者にめぐり逢えて」(PDF版)
   (山口県協会60周年記念誌「夢を追う」(平成19年2月)に寄稿)

※ご感想は、県協会事務局 yabba@goo.jp までお願いします。
※このページに掲載している文章の無断掲載を禁じます。
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これまでの掲載文
その一 渡辺一平伝 2019/11/23
その二 吉村旦伝 2019/12/22
その三 桑原英雄伝 2020/03/16















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〔夢追い人列伝〕 その三 桑原英雄伝

2020-03-16 23:33:20 | 読み物
昭和・平成の時代に山口県バスケットボール競技の普及・発展に大きく寄与した先覚者の取組をお伝えする「夢追い人列伝」第3回は、桑原英雄氏です。ぜひご一読ください。

夢追い人列伝
その三 桑原英雄伝(PDF版) 2020/03/16

◆紀伝にも登場する弘中幸雄氏による手記も合わせてお読みください。
  「青は藍より出でて藍よりも青し」(1997年5月「南風」掲載 2007年3月県協会ブログに再掲載)  

※ご感想は、県協会事務局 yabba@goo.jp までお願いします。
※このページに掲載している文章の無断掲載を禁じます。
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これまでの掲載文
その一 渡辺一平伝 2019/11/23
その二 吉村旦伝 2019/12/22


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〔夢追い人列伝〕 その二 吉村旦伝

2019-12-23 05:03:41 | 読み物
昭和・平成の時代に山口県バスケットボール競技の普及・発展に大きく寄与した先覚者の取組をお伝えする「夢追い人列伝」第2回は、吉村旦氏です。ぜひご一読ください。

夢追い人列伝
その二 吉村旦伝(PDF版) 2019/12/22

※ご感想は、県協会事務局 yabba@goo.jp までお願いします。
※このページに掲載している文章の無断掲載を禁じます。
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これまでの掲載文
その一 渡辺一平伝 2019/11/23

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〔お知らせ〕山口県バスケット先覚者の顕彰事業 「渡辺一平伝」

2019-11-23 12:20:04 | 読み物
一般社団法人山口県バスケットボール協会は、昭和・平成の時代に山口県バスケットボール競技の普及・発展に大きく寄与した先覚者の取組を広く周知しその功績を顕彰する事業に取り組むことといたしました。
今後、不定期ではありますが、それぞれの先覚者の取組を、紀伝「夢追い人列伝」としてお届けします。

第1回は、渡辺一平氏です。ぜひご一読ください。
(ご感想は、県協会事務局 yabba@goo.jp までお願いします)

夢追い人列伝
その一 渡辺一平伝(PDF版) 2019/11/23

 ◆渡辺氏が自ら執筆された、以下の文章もお読みください。
  「豊高での40年」(PDF版)
   (高体連機関誌「南風」第1号(平成3年4月)-第9号(平成6年1月)に連載)
  「宇部インターハイと山口国体」(PDF版)
   (山口県協会60周年記念誌「夢を追う」(平成19年2月)に寄稿)

※このページに掲載している文章の無断掲載を禁じます。


















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故和佐本生男氏 追悼文

2016-12-27 22:07:16 | 読み物
(一社)山口県バスケットボール協会顧問の和佐本生男氏が11月に逝去されました。
佐浦益子氏の追悼文を掲載します。

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「故 和佐本生男先生を偲んで」 佐浦益子

去る11月17日、和佐本生男先生(享年94歳)のご葬儀に参列させていただきました。和佐本家の後継者である甥ご家族に見送られ、晩秋の静かなお別れとなりました。
ことし2月、法子夫人の七回忌法要を済まされたばかりで、寂しい7年余りだったと思うと胸が痛みます。今でも忘れられない一言があります。法子夫人のご葬儀のとき、「僕は独りになってしまった。時々遊びに来てほしい・・・」と。
折をみて、お声をかけにお伺いをしておりましたが、何時伺ってもダンディな和佐本先生でした。きちんとした身だしなみは、男性の独り暮らしの優等生。将に、九州男児を地でいくお姿でした。
亡き法子夫人の伝授か、朝食には「イリコだし」からはじまる特製の味噌汁を作っておられ、和佐本流の健康食メニューのようでした。このところ歯を弱くしておられ、お届けの一品は、おぼろトーフ、いちごなど季節の品々でした。

和佐本先生と私のご縁は、高校2年(S29年4月)のとき、福岡県の県立八幡中央高校から熊毛南高校へのご着任からはじまりました。前任校を九州大会優勝に導かれた若さいっぱいの先生でした。熊毛南高校も県新人大会で大津高校との激戦の末何とか優勝チームとなり有能な指導者を待っていたところでしたので、和佐本先生をお迎えしたことを、部員のひとりとしてとてもよろこびました。
九州でご長男を亡くされ、ご次男とともに祖母方の関係で山口県への転居と伺いました。心機一転の和佐本先生とバスケットボールの指導者を求めていた私共部員は、S29秋田インターハイへ出場となり、思い出多い高校生活でした。
当時日本公認審判は、水島哲夫先生(大津高)とお二人だけでした。県外大会では、帯同審判を受けられ、先生の審判姿はいつもチームの誇りでした。
先生は運動能力が高く、教員大会・陸上競技(走り高跳び)でも、ものすごい身体バネを発揮し、軽々1位の方でした。
私の進学先についても心に残るアドバイスをいただきました。高校時代の師とのご縁が後々の進路の決定づけたわけです。教職に就いてからも何かとご指導を求めることがありました。

先生は、チームの指導のみならず、県全体のバスケット振興にもご尽力なさり、その功績は語り尽くせません。高体連専門委員長(S40~48)のほか、県協会の常任理事(S29~50)、顧問(S50~)も長らくつとめられ、ご多忙の日々が続きました。

顧みれば、優秀だった息子さんの急逝により思いもかけないご家族の離別という悲しみに必死に耐えながらの生活だったことと思いますが、退職後は法子夫人と自然に恵まれた静かなたたずまいのご自宅でお過ごしでした。
一方、地元のミニバスケットボールのヘッドコーチも引き受けられ、次代の少年団教育に尽力されておりました。ご会葬のときには、当時のスタッフの方々がご活躍をたたえておられました。大切な書籍箱の中に全関西ミニバスケ大会のフォトブックが入れてあり、若い子供たちとの縁を懐かしく思い出しておられたのかも知れません。
二人の娘もバスケ部員としてご指導いただき、先生とは本当にご縁の深い我が家です。

94歳とは思えないかくしゃくとしたお姿で、NBAのテレビ観戦など一日のスケジュールに入っておられたようです。
今頃は、奥様との7年ぶりの再会を喜び、息子さんと抱き合っておられることと思うことに決めました。
心からご冥福をお祈りいたします。

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ウィンターカップ2013 報告書

2014-01-22 19:30:47 | 読み物
昨年12月に東京で開催された全国高校選抜優勝大会ウィンターカップ2013に出場した宇部工業高校と慶進高校の報告書をお届けします。
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「ウインターカップ2013を通じて」
宇部工業高校バスケットボール部 主将 平岡 勇人


2013年、最後の大会となる山口県ウインターカップ予選大会において、私たちはチーム一丸となり予選を勝ち上がり、白熱した試合を行い決勝戦までたどり着くことができました。決勝戦ではインターハイで敗戦を喫した豊浦高校との対戦になり、第1Qから1点を攻防する試合展開となりました。最終Qまでもつれ、辛くも5点差で逃げ切り優勝することができました。

ウインターカップ出場までの道のりは、決して楽な道のりではありませんでした。中国新人大会予選、中国大会予選と山口県無敗で臨んだ6月のインターハイ予選。決勝で豊浦高校に敗れ、悔しい涙を流しました。インターハイ予選が終わり、他校の3年生の多くは引退しました。しかし、我が校の3年生はインターハイ予選の敗戦を胸に、最後の全国大会であるウインターカップ出場を目指し、練習を続けていくことを誓い、練習に励みました。夏休みからは、就職や進学とそれぞれが忙しい合間をぬって練習しました。また、私は国体少年男子の選手に選出していただき、主将を務めることになりました。ミニ国体では3位という結果で東京国体に出場することはできませんでしたが、トップレベルの県外選手と試合をすることでとても良い経験となり、自分自身の成長にもつながったと感じています。

高校最後のウインターカップ。1回戦の相手は愛媛県の新田高校にきまりました。山口県代表として、良い報告ができるように試合まで最高のコンディション作りを意識しました。

12月23日、私たちの試合は16:30からでした。午前中は宿泊していたホテル近辺で体を動かしていました。それから会場に移動し、会場では独特の雰囲気に感動しました。試合は予定時間より遅れ、より一層の緊張感が高まった中で開始されました。前半が終わり、40-42と接戦だったものの、チームとしての能力が発揮されず、ペースを掴むことができませんでした。その後、第3Qもペースを掴むことができず、第3Q終了時には6点ビハインドでした。第4Q開始前、ディフェンスを頑張り、リズムを作ろうとチームの意思を統一しました。粘り強いディフェンスをし、5分後には相手のミスなどもあり2点差まで詰めることができました。残り2分では、1点を争うシーソーゲームが展開され、気がつけば残り11秒、1点負けという状況でした。そこからは無我夢中で勝利を目指してリングに向かって攻めました。結果、残り3秒で逆転し、大接戦を制し2回戦進出を果たすことができました。宇部工業初となるウインターカップでの勝利を飾ることができました。また、山口県に良い報告ができて、本当に嬉しかったです。

2回戦の相手は、優勝候補の宮城県代表の明成高校でした。試合は127-77と負けはしたものの、日本代表選手にも臆することなく果敢に立ち向かうことができ、大きな財産となりました。宇部工業のバスケットを全国の舞台で発揮できたことがよかったと思います。

この3年間宇部工業のバスケットボール部としてプレーできたことを心から感謝します。これまでご指導してくださった先生方、応援してくださった方々、毎日厳しい練習を乗り越えた仲間に心から感謝します。ありがとうございました。これからの新チームの主役となる後輩たちは、全国を目指し厳しい練習を続けていくと思います。全国大会出場という目標を達成できるように、日々精進してくれると思います。

宇部工業バスケットボール部の全国大会出場を支援し、応援してくださったすべての皆様に心から感謝申し上げて報告とさせていただきます。
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第44回全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会
慶進高等学校 藤井 園子


今年のウィンターカップは12月23日から12月28日まで東京体育館で行われました。

私たちは23日に埼玉県代表の埼玉栄高校と対戦しました。前半は慶進らしいプレーができず相手に主導権を与えてしまうようなゲーム展開。後半からは慶進らしいディフェンスから相手のミスを誘い自分たちのペースでゲームを進め、4Qで逆転することができました。この試合で感じたことは、ゲームの主導権をつかむには最初の試合の入り方がいかに大切なことであるかということです。

2回戦の石川県代表鵬学園戦では、ベンチメンバー全員がコートに立つことができ89-52で勝利することができました。

3回戦の愛媛県代表聖カタリナ女子戦では、1回戦の反省点である試合の出だしを意識してゲームに入ることができ、10点差をつけて1Qを終えることができました。2Qでは相手のシュートも入りだし、慶進の得点ものびず、同点に追いつかれてしまい、後半では相手の目の色が変わったように見えたし、「ここでは負けられない」という強豪校の意地を見せつけられました。慶進は相手の勢いを止められず、結果57-76で負けてしまいました。しかし、チームとしても個人としても得られることがたくさんある試合となりました。全国レベルのスピードやディフェンス、体の強さをチーム全員がこの大会を通して体感しました。主導権を握られた時、自分たちの思うようなプレーができない時に集中力を切らすことなく戦い続けるということがどれだけ難しく、いかに大切なことなのかということを学ぶことができました。私は最後まで諦めず、そして最後まで楽しく笑顔でプレーすることができ、本当に素晴らしい価値のある時間を過ごすことができました。

たくさんの方々に応援、ご支援していただいたことに対しとても感謝しています。新チームでは今回の大会で経験し学んだことを活かして、また全国という舞台で勝ち進んでいけるように頑張っていきます。そしてどんな時でも一生懸命で、誰からも応援されるような素晴らしいチームになっていきます。
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■大会名
東日本大震災復興支援
JX-ENEOSウインターカップ2013
平成25年度 第44回全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会

■期日
平成25年(2013年)12月23日(月・祝)-29日(日)

■会場
東京体育館

■結果
[男子]
1回戦 宇部工業(山口)○77-76●新田(愛媛)
2回戦 宇部工業(山口)●77-127○明成(宮城)
[女子]
1回戦 慶進(山口)○76-67●埼玉栄(埼玉)
2回戦 慶進(山口)○89-52●鵬学園(石川)
3回戦 慶進(山口)●57-76○聖カタリナ女子(愛媛)

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FIBA ASIA U-16女子選手権大会 報告書

2014-01-22 19:29:43 | 読み物
昨年11月に行われたFIBA ASIA U-16女子選手権に参加した池本朱里選手(慶進高校2年)の報告書をお届けします。
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第3回FIBA ASIA U-16女子バスケットボール選手権大会
慶進高等学校 池本 朱里


第3回FIBA ASIA U-16女子日本代表として11月23日から11月30日までスリランカのコロンボで行われたアジア選手権に出場しました。

山口県選抜ウィンター予選の決勝後に東京での合宿に合流して4日間東京の味の素トレーニングセンターで合宿をしました。私はそのチームの主将を務めさせてもらって1番に感じたのは日本という国を背負う責任感です。言葉にならない責任を感じました。全国から選ばれたエース12人が1つのチームとしてプレーすることは楽しく、負けていられないというプライドもあり、練習から緊張感のある練習ができました。

11時間のフライトを経て、アジア選手権の開催地であるスリランカのコロンボに到着しました。3日間調整練習をして試合に臨みました。

日本の1回戦目はインドでした。平均身長が約176cmの日本は中国の次に高さのあるチームです。リバウンドや高さで圧倒した日本は112対45でインドに勝利し、チャイニーズ・タイペイにも勢いにのったまま勝利しました。

中国戦は一色ヘッドコーチから「負けられない、絶対勝つ」と気合いを入れてもらい、出だしから日本のペースで試合を展開しました。日本は中国に高さでは勝てないのでスピードや技術、シュート力で対抗し、中国の192cmの選手に対して日本はチームDFでOFを封じました。最後まで日本のペースで、予選では中国に75対59で勝利しました。その勢いにのった日本は続く韓国、マレーシアにも圧倒して勝利し、決勝リーグ1位通過を決めました。

予選の1位から4位で行われる決勝リーグには日本、中国、韓国、チャイニーズ・タイペイが世界選手権出場の切符をかけて試合をしました。決勝リーグは1位通過対4位通過、2位通過対3位通過の対戦でした。1位通過の日本は4位通過のチャイニーズ・タイペイと再度試合をしました。相手のエースが不出場なこともあって日本はDFからのブレイクや高さを生かしたプレーでチャイニーズ・タイペイを圧倒し、99対60で勝利しました。

韓国対中国は中国が高さで韓国を制圧して中国が勝利し、決勝で再度中国と戦うことになりました。中国との決勝の前に、ヘッドコーチやスタッフの方から「予選の中国とはまるで別のチームだから勝ったことを忘れて全力でプレーするように」と声をかけていただいて、今まで通り日本のプレーをしようとチーム全員が一つになって決勝に臨みました。

1ピリオドはお互いに主導権を掴めない時間帯が続き、なかなか点が入りませんでした。初めに得点したのは日本でした。その勢いにのって早いパス回しからのシュートや1対1、ブレイクで中国に1ピリオドは勝っていました。

2ピリオドに入って中国という国のプライドの高さ、負けられないという気持ちの大きさに私を含めた12人が圧倒されました。予選で戦った中国は10点差がつくとゲームを諦めてしまうようなチームだったのが、本当に必死でボールを取りにくる、ルーズボールを追うチームに一変しました。国を背負うということが本当にどれだけ大切かを改めて実感しました。

徐々に日本のミスが目立つようになって、中国の高さを止めることができずに逆転されてしまいました。逆転されてから日本は早く逆転しないといけないという焦りから単発なシュートが続き、点差をつけられてしまいした。3ピリオド、4ピリオドに入っても中国の意地ともいえるプレーでリズムを崩すことができずに50対62で中国に負けました。

予選では勝っていたのに決勝で負けたという結果で終わって、自分の中に敵がいるということが本当によくわかりました。自分達が負けるはずがないという自信が裏目に出てしまい、このような結果になったのだと思います。チームとしての課題は勝負所でのシュートの決定力、高さのある相手にどうやってシュートまでもっていくかという技術がまだまだ足りませんでした。個人としては主将としてチームを落ち着かせることができませんでした。また、厳しいマークにあった時のシュートまでのもっていきかたやシュートのバリエーションをもっと増やしてもっと点を取らないといけなかったです。

U-16アジア選手権は自分自身、本当に大きな経験をさせてもらいました。日本では体感することのできない高さ、スピード、シュート力、何より国の代表選手という意地やプライドを体で感じることができました。この大会で日本は準優勝になったので夏に行われるU-17世界選手権の切符を獲得することができました。私達の目標は優勝することだったので悔しい結果で終わりましたが、世界選手権で必ず中国より上位に行くことを目標に、またチーム一丸となって頑張っていきたいです。

ヘッドコーチ、スタッフ、トレーナーたくさんの方からの応援や援助のおかげで海外での食事に不自由なく万全なベストのコンディションで毎試合、試合に臨むことができました。私達が何不自由なくバスケットのできる環境に感謝して、これからも日本代表選手として慶進のバスケットボール選手として恥ずかしくないよう、全力でプレーします。
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■大会名
「第3回FIBA ASIA U-16女子バスケットボール選手権大会」

■期日
平成25年(2013年)11月23日(土)-30日(土)

■場所
スリランカ・コロンボ

■結果
予選ラウンド
[11月23日(土)]日本○112-45●インド
[11月24日(日)]日本○87-56●チャイニーズタイペイ
[11月25日(月)]日本○75-59●中国
[11月26日(火)]日本○83-50●韓国
[11月27日(火)]日本○87-12●マレーシア
準決勝
[11月29日(金)]日本○99-60●チャイニーズタイペイ
決勝
[11月30日(土)]日本●50-62○中国

☆日本は準優勝。第3回FIBA U-17女子バスケットボール世界選手権大会(2014年6月26日-7月6日 スロバキア)の出場権獲得

詳しくはこちらへ

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日中韓ジュニア交流競技会 報告書

2014-01-22 19:28:55 | 読み物
昨年8月末に中国で行われた日中韓ジュニア交流競技会に参加された村谷勉氏(慶進高校女子バスケット部監督)と松本愛美選手(慶進高校3年)の報告書をお届けします。
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第21回 日・韓・中ジュニア交流競技会参加報告書
U-18女子アシスタントコーチ  村谷  勉


今回、第21回日・韓・中ジュニア交流競技会バスケットボール女子のベンチスタッフとして、2回目の参加となった。このような、貴重な体験をする機会を与えていただき関係各位に感謝申し上げたい。

今大会は、日・韓・中三カ国の代表チーム(韓国は仁愛女子高校の単独)と開催地の濰坊代表チームの4チームでリーグ戦が濰坊第一中学校体育館で行われた。

8月22日大阪に前泊集合し、選手・指導者ミーティングを行い明日の出発に備えた。

23日明朝8時にホテルを出発して関西国際空港へむかい、12時発チャーター便で中国青島国際空港到着し、濰坊市内のホテルに宿泊した。空港からホテルまで約2時間であった。

2日目の24日は練習のみで、9時から1時間30分の短い練習で、日本男子チームと半分の時間を分け合い軽く汗を流した。国内での事前練習がなかったので残り45分(コート外)で、スクリーンディフェンス(ハイピック、サイドピック、フレア)及びエンドフォーメーションの確認を行った。前回の中国での開催は、試合球がスポルディング製のようであったが、今回はモルテンの12面球であり、練習球も準備されていた。その後、夕方6時にホテルを出発し、開会式会場のホテル内にある大ホールへと案内され、開会イベントが1時間程度行われた。

3日目からゲームが開始され、韓国の仁愛女子高校単独チームとの対戦であった。試合開始、日本はハーフマンツーマン、韓国はゾーンプレスから2-3ゾーンでスタートする。日本は、3P、ゴールしたなどで得点し前半40-22と大きくリード。後半に入っても流れが変わらず日本ペース。3ピリオドには、全員出場でさらに差を広げた。日本は、ゲームを通してディフェンスでプレッシャーを強め、速攻で試合を支配し、77-43と快勝した。

4日目の濰坊選抜とのゲームでは、日本チームのディフェンス力・機動力・シュート力を見せ付けた試合となり、快勝であった。

5日目、ゲーム前に、中国は、194㎝を筆頭に190㎝台が2人エントリーしている。年齢もU18~16年齢の幅があった。1ピリオドから、中国の高さに苦しみ一進一退の攻防が続き35-33の2点リードで折り返す。3ピリオド攻守にわたり、頑張りを見せ7点リード。ゲーム終盤、馬瓜がファールアウトする。その後、中国がセンターのインサイドとリバウンドで頑張り粘りを見せる。日本も良く粘り、中国の猛追を交わし、76-70で日本の勝利となる。

今回は、海外遠征の経験のある選手も多く、特に馬瓜や井澗のプレイでゲームが落ち着いた。海外経験の少ない選手も、国内では味わえない「高さ」「強さ」を経験できた。また、いつもアンダーカテゴリーの代表監督・スタッフの方々が言われるように、海外では、「上手さ」より「速さ」「強さ」が重要であることが今回もよくわかった。さらに、現地での移動や食事・環境・習慣・文化の違いに対応していかなければならないこともよくわかった。

9月8日、東京オリンピックが決定した。是非、今回の代表の中から日本代表となり、東京オリンピックで活躍する選手が出てくることに期待したい。
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日・韓・中ジュニア交流競技会に参加して
バスケットボール女子 松本 愛美


今回参加した「日・韓・中ジュニア交流競技会」は私にとって初の国際試合でした。

私は、バスケットボール競技に参加しましたが、結果としても3戦3勝で優勝も勝ち獲ることが出来ました。日本を代表してプレーすることへの責任もありますが、どういう試合であれ日本代表として戦うことが出来ることが自分にとってとても嬉しいことでした。

チームメイトには、これまで国際試合を経験している人もいました。そのような選手とプレー出来ることもまた自分自身にとってプラスになりました。

外国チームとの試合からは、国内の試合では普段実感できないことを感じることができました。具体的には高さというハンディの面です。逆にそれを知ることで、日本の脚力が生きる意味も感じることが出来ました。今まで、話では「高さのハンディを埋めるのは脚力」ということを聞いていました。しかし、本当に世界とはどんなものなのかを肌で感じたことはありませんでした。そのような面では出場した人しか得られないものを得ることが出来ました。

プレー面だけでなく、人との繋がりも広がりました。いつもなら敵であるチームメイト、全くといっていいほど関係のない他のスポーツ競技でも、日本選手団となるとお互いにコミュニケーションを取る機会も多くなりました。日本だけでなく、他国の選手とも簡単な会話もでき、いろいろな広がりを得ることが出来ました。

このような大会に出て、1つのチームになることがどれだけ大きなことかを感じました。プレー面ではもちろん、人との繋がりも広がり本当によい経験でした。この経験を生かし、これから日本を背負える人になれるよう努力していきたいと思います。
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■大会名
第21回日・韓・中ジュニア交流競技会 バスケットボール競技

■日程
平成25年(2013年)8月23日(金)-29日(木)

■開催地
中国・山東省 濰坊(ウェイファン)市

■参加チーム 4チーム
日本、韓国、中国、濰坊(開催地)

■結果
25日 日本○77-43●韓国
26日 日本○106-36●濰坊(CHN)
27日 日本○76-70●中国

大会特設サイト(日本協会)

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故 岩崎克之助氏 追悼文

2013-12-10 21:28:52 | 読み物
山口県バスケットボール協会顧問の岩崎克之助氏が11月に逝去されました。謹んで御冥福をお祈り申し上げます。
小松徹氏と神崎泰宏氏の追悼文を掲載します。

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追悼 岩崎克之助先生
防府市バスケットボール協会 会長 小松 徹

                          
平成25年11月11日の朝、岩崎克之助先生が逝去されたとの報がメールを通じて連絡網に載りました。

膵臓がんと告知されて7年間、「癌を受入れ、闘わずに穏やかな生活を続けていきたい。」と可能な限りご自宅で療養され、教え子たちとの談笑を楽しみにされていると聞かされておりました。言葉にならない寂しさを覚えます。

棺を覆いて事定まる、と言われますように、先生のご功績の甚大さには枚挙の遑もなく、改めて先生の偉大さを偲びたいと思います。

先生は、昭和49年から58年までの10年間、防府市バスケットボール協会の理事長として、重責を果たされました。その間の特筆すべき一つとして、バスケットボール振興と競技力の向上のために、ポートボールと小学生のミニバスケットボールの普及・浸透にご尽力されたことが挙がります。ゴールリンクがなくてもゲームのできるポートボールは、小学校の体育や防府市内子供会の冬季スポーツ大会として継承されています。ポートボールやミニバスケットボールの浸透・拡大によりバスケットボール人口の裾野が広がりました。興味関心を示す児童生徒が一人でも増えていくことは、将来のスポーツ愛好者の増大につながり、バスケットボール競技の発展に寄与することになると力説されておられました。スポーツ教室の開催をはじめとして、ミニバスケットボールの指導者の養成、チームや関係する組織の立ちあげ、中学校・高等学校の部活動・市民オープン大会の運営等々、数々のご実績は偉大な足跡として今日まで脈々と受け継がれてきております。

先生は、防府市立華西中学校で10年間、桑山中学校で9年間、保健体育の教員として、また男子バスケットボール部顧問として、その卓越した指導力で一人ひとりの潜在能力を引き出し、多くの生徒の運動能力を伸ばしてくださいました。

先生ご自身は、山口県教員団の国体選手の一人として、時間を作り出しては体育館でお一人、黙々とひとりシュートの練習に取り組まれておられました。そのお姿は、今でも脳裏に焼き付いております。ゴールリングを狙ってボールを放つその瞬間の先生の眼差しには情熱・芯の強さ・希望・優しさなどが入り交じっていたように感じられ、とても印象的でした。

その後、山口県教育庁指導主事、防府市教育委員会学校教育課長を経て、防府市立桑山中学校校長として定年退職されるまで、熱い情熱を教育一筋に捧げられてこられました。

教え子の多くは、練習中に先生の厳しい眼差し一身に浴び、練習後の優しい眼差しと微笑みによって、先生が描かれたように終生に亘りスポーツを愛し、バスケットボールを楽しむ生活を満喫しております。先生の播かれた種は、将来さらに多方面で開花し、実を結ぶに違いないと確信いたしております。
先生と一緒に共有できた時間と数多くの思い出を大切にし、先生のご期待に応えるべく、バスケットボール協会の発展に努め精進してまいりたいと思います。どうか、これからもずっとこれまでと同様にバスケットボールを愛してやまない私たちと山口県バスケットボール協会、防府市バスケットボール協会の発展をお見守りください。

心より先生のご冥福をお祈りいたします。岩崎克之助先生 これまで本当にありがとうございました。

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岩崎先生と過ごした日々の中で
桑山中学校バスケット部OB 神崎 泰宏


○出会い ~ほめて個性を伸ばす~
兄の影響もあって、桑山中入学と同時にバスケット部に入りました。背が低く、運動能力に乏しい私は、いつも周りを見上げながらも、上手くなりたいという一心で来る日も来る日も練習に励みました。そんな私のやる気のスイッチが入ったきっかけは、「おまえはここがすばらしいんだ。」とみんなの前でほめられたことです。なぜかその気になってくるから不思議です。シュートが下手な私は、ドリブルとパスに活路を見いだしました。運動能力の低さは、相手の「動きをよむ」ことで補いました。「先生にほめられたい・・・。」これは当時のバスケット部員全員が心の中で、ひそかに思っていたことです。
先生の方針は、身長でポジションを決めるのではなく、全員が同じメニューの練習をすることです。背が高くてもドリブルがうまい、背が低くてもポストプレーができるプレーヤーが自然と育っていったのです。そんな目に見えない競争の中で、ライバル心が芽生え、個性が生かされ、さらに伸ばされていきました。

○指導の厳しさとバスケットの魅力 ~先輩をこえる、まねして覚える~
気持ちの入ったいいプレーには最大限の賛辞が贈られ、怠慢プレーにはとても厳しい檄がとびます。ルーズボールに必死にとびつくといった「ボールに対する執着心」が大切なのだと、記録には残らないプレーの中にたくさんのナイスプレーがあることなど、身をもって教えられました。今考えてみるとバスケットに必要な技術、精神力、体力が見事なバランスで鍛え上げられていったのでした。当時は練習中に水も飲めないし、休みもほとんどない環境でしたが、たまの休日でさえも、気がつけば仲間とともに外のコートでシュート練習をするほどバスケットが大好きになっていたのでした。

毎年、1月1日に体育館に現役、OBが集まって学年毎にチームを作って試合をする「正月試合」が行われました。負けた学年は先生のご自宅で奥様が作られた、あつあつのうどんをごちそうになって帰るのです。いつも温かく応援して下さる奥さんの存在は私たちの大きな心の支えでした。この試合では、先輩のかっこいいプレーに肌で触れ、また先輩のチームに勝つことが自信になり、さらに高いレベルを目指すようになったものです。

○指導者として ~基本に始まり、基本に返る~
私が中学教員になって、指導者としてスタートしてからも先生はやはり目標であり続けました。先生と過ごした日々の中で一番感じた事は、「何事もごまかしはいけない。」のひと言に尽きるのではないでしょうか。その意味するところは「本当の技術も精神力も「本物」を身につけるには時間がかかるし、なかなか結果がでないものだ。目先の結果にとらわれることなく、たとえ長い時間がかかっても信念をもって継続して指導し続けることが大切だ。」ということです。

いつも「心に汗を、頭に汗を、体に汗を」かく練習が良いと言われていました。私が肝に銘じている言葉です。また、まずは指導者の燃えるような情熱があってこそ、生徒が夢中になり、感動のあるドラマが生まれるということ。そのことを証明するように、先生の教え子の共通点は誰もがバスケットが大好きになったこと、いや好きにさせられたこと・・・毎年正月に開かれるOB会では、50歳前後のメンバーで試合ができるぐらいまだまだ現役でプレーしているのです。この年になってもやめられないぐらい大好きなのです。先生に出会わなかったら、きっと違った人生になっていたと思います。

振り返ってみると、大切なことは全てコートの中から学んだように思います。だからバスケットは人生そのものです。これからもバスケットの奥深い魅力を堪能するまでは、現役プレーヤーとして、夢の全国制覇を目指して走り続けることでしょう。我々は近い将来、必ず全国大会の決勝の舞台に立ち、自分たちの持ち味を思う存分発揮し、とことん楽しんでプレーする姿を見せたいと思います。

ただ・・・一度でいいから、先生を全国大会の優勝監督にしたかったなあ・・・

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