<2002年11月4日に書いた以下の記事を復刻します。>
1) 近代日本で、印象に残る人物は多士済々である。 明治維新以降、日本は実に多くの人材を輩出してきた。どの分野にも、優れた日本人が登場してきた。 その中で、最も印象に残る人物の一人として、私はアナーキスト・大杉栄を挙げたいと思う。
大杉栄は歴史上、大したことをやった人物ではない。 日本のアナーキズム(無政府主義)運動のリーダーだったというだけである。従って現代では、ほとんど忘れ去られてしまった人物と言ってよいだろう。 しかし、その強烈で豊かな個性と自由奔放な精神は、近代日本の中に燦然と輝いていると、私は今でも思う。
大杉が近代日本史上で有名になっているとすれば、大正12年(1923年)9月の関東大震災の直後、妻の伊藤野枝と共に憲兵大尉・甘粕正彦らによって虐殺されたことぐらいだろう。 いわゆる「甘粕事件」は、当時としては大変なニュースだった。(注・この事件は、甘粕大尉が犯したものではないという異説もある) それ以外に、大杉は今ではほとんど知られていない。
2) ここで個人的な話しをして恐縮だが、私が大杉栄を知ったのは、もう50年以上も昔の大学1年の夏であった。 当時はいわゆる「60年安保闘争」の直後で、私は過激な極左マルクス主義の団体に所属していたが、あるアナーキストから大杉栄の著作を読むよう勧められた。
最初に読んだのが大杉の「自叙伝」と「正義を求める心」だったと思うが、読み始めてから私は、大杉の自由奔放で何ものにも拘束されない革命精神、その生き方、自由な恋愛遍歴などに驚嘆してしまった。 それまで知っていた日本の革命家にはまったく見られない異質で、魅力的な革命家だったのである。
それから手当りしだいに大杉の著作を読んでいったが、詳しい内容の説明は控えるとして、大杉の「生の拡充」を基本とする、反逆と革命の精神に深い感銘を受けたのである。 そこには何ものにも囚われない“自由”があった。そして、生の人間の“叫び声”があった。 これほどまでに肉声が伝わってくる革命家を、私は他に知らない。
4ヵ月間ほど、私は完全に大杉栄の“虜”になった。彼に心酔しきってしまったのである。 もちろん、私は他のアナーキズムの文献も読んだが、大杉の著作を機にマルクス主義から脱却することができた。 私から見れば、マルクス主義よりアナーキズムの方が、はるかに人間を“大切”にし、自由を“尊重”していると理解したからである。
3) 知らない人も多いと思うので、ここで大杉栄の人生をごく短く紹介したい。 彼は明治18年(1885年)、香川県の丸亀に陸軍軍人の長男として生まれた。軍人の子として生まれたことは、最後に軍部に虐殺されたことに深い因縁めいたものを感じる。(後に軍部は、彼を“獅子身中の虫”として憎悪するようになる)
帝国軍人を目指して、名古屋の陸軍幼年学校に入るが、学科実科ともに極めて優秀な成績であったものの操行が悪く、校友との決闘がもとで放校処分となる。 この後、東京に出て外国語学校に入るが、その間に、幸徳秋水らの影響を受けて社会主義運動に参加するようになった。時に大杉、19歳の年であった。
彼はすぐに電車運賃値上げ反対闘争に参加し、逮捕されて入獄する。 そこから、大杉の波乱万丈の人生が始まるが、何度も投獄されるうちに、明治43年「大逆事件(天皇暗殺未遂事件)」が起こり、社会主義運動の最大の指導者・幸徳秋水が処刑されてしまう。
この後、獄中から出てきた大杉らが中心となって、大正時代の社会主義運動をリードしていくことになる。 世に“冬の時代”と言われた逆境の中から、大杉は社会主義の啓蒙を手始めに着実に運動を進めていった。
やがて、彼の思想はアナーキズム(無政府主義)を鮮明に打ち出すようになり、マルクス主義と対立していくが、労働運動とは密接に協力するようになり、大正9年(1920年)には「日本社会主義同盟」の結成に指導的な役割を果たした。 この時点で大杉は、まぎれもなく日本の社会主義運動の第一人者となっていた。時に大杉、35歳の年である。
同じ大正9年には、上海で開かれた「極東社会主義者会議」に、あらゆる危険をはねのけて単身で出席、日本を代表する形で新生・ソ連邦の代表と渡り合った。 この頃からボルシェビキとの対決を強め、帰国後は「アナ・ボル論争(アナーキズム対ボルシェビズム)」の立役者となる。
そして、大正12年(1923年)、大杉は「国際無政府主義者大会」に出席するためパリに行く。メーデーに参加してアジ演説をぶったが、フランス警察に検挙され日本に強制送還された。 帰国後、9月1日「関東大震災」発生。戒厳令の下、軍部の手によって9月16日虐殺されたのである。38歳であった。
4) 大杉の人となりは、実に魅力に富んでいたようだ。 彼は自由恋愛を主張してそれを実践していたが、女性には非常に持てたらしい。 妻の堀保子の他に“新しき女”神近市子、人妻の伊藤野枝と四角関係を持ったが、これがもつれて嫉妬に狂った神近に、刃物で刺されるという事件が起きてしまった。(世に言う「葉山日蔭茶屋事件」。大正5年)
この事件は当時のマスコミの格好の餌食となり、大スキャンダルとして天下に報道された。 こうした不倫痴情事件から、“アナーキスト”大杉栄を見限って離れていった同志も多い。結局、大杉は妻と別れて伊藤野枝と契りを結ぶことになった。
大胆不敵な行動も数限りない。一例として、葉山日蔭茶屋事件の少し前だが、運動の資金がなくなった大杉はある人を介して、こともあろうに時の内務大臣・後藤新平に会い、「金がないから、くれ」と言って300円(当時としては大金)をせしめてしまった。
社会主義運動のボスが、それを取り締まる側の最高責任者から、金をふんだくるとは常識では考えられないことである。 大杉は痛快だったろうが、“大風呂敷”と言われた後藤新平には、これで危険な社会主義運動を、少しは緩和させようという思惑があったのかもしれない。 それにしても、大杉の“大物”ぶりを示す話しである。
大杉の破天荒な話しから入ってしまったが、明るく素晴らしい面も紹介したい。 彼は若い頃「一犯一語」といって、1回投獄される度に外国語を1つずつ覚えていくという離れ技を持っていた。 これによって、6カ国語以上はマスターしたはずである。語学の天才だったのだろう。
ファーブルの「昆虫記」を初めて邦訳し、ダーウィンの「種の起源」も翻訳した。クロポトキン全集を邦訳し、ロマン・ロランの「民衆芸術論」まで訳している。 また、エスペラント語の推進にも寄与していた。 多忙な社会主義運動を繰り広げ、いつも投獄されていたにもかかわらず、これは大変な文化的業績であり感嘆すべきことである。
大杉は、生来「吃り(どもり)」だった。特に「カ行」の発音が苦手だった。 これによって、彼は少年の頃から非常に苦しんだようだ。 おそらく彼の胸中には、吃りによるコンプレックスが沈殿していたはずである。 しかし、外国語を話す時は、実になめらかに口がまわったという。そういう意味でも、彼は根っからのコスモポリタン(世界人・国際人)だったのだ。
同志のある人が、大杉のことを「杉よ、眼の男よ」と詠んだ。 写真でも分かるように、大杉の目はいつも大きく見開かれていたようだ。その大きな目が同志をも、女性をも労働者をも、民衆をも魅了したに違いない。
「大正デモクラシー」「大正ロマン」の中で、この男は光彩を放ち、“天馬空をいく”ように思想を広め発展させ、生の闘い、生の拡充を実現していった。このような男は、二度と再び現われないだろう。大杉栄の魅力とはそういうことである。
5) 歴史上、大杉の業績などというものは、ほとんどないに等しい。 織田信長が近世を切り開いたような、また坂本龍馬らが近代の扉を押し開けたような実績はない。 彼は明治末から大正時代にかけて、社会主義運動を繰り広げただけに過ぎない。
しかし、大杉が自ら切り開き創造してきたアナーキズムは、今後も生き続けるだろう。 何故なら、その思想は極めて“人間本位”のものだからである。もちろん、アナーキズム自体は歴史上、失敗を繰り返してきた。そして今や、一部の人達を除いて何の価値も見出せないものとなっているだろう。
私自身も、アナーキズムを乗り越えて、より実在の人間に根差した思想に進化したと勝手に思い込んでいる。 しかし、アナーキズムが目指す人間の自由、人間の解放という真の理想は、“夢”かもしれないが人類永遠の課題として残っているように思う。
何が自由で何が解放なのかと、ここで哲学的な議論をするつもりはない。 ただし、人間が本来求める自由や解放は、なにもアナーキズムだけの問題ではなく、ほとんどの思想が取り組んできた問題なのだ(宗教ももちろん含まれる)。 従って、人間の自由や解放を最大のテーマにしてきたアナーキズムが、完全に消滅するというのは有り得ないことである。
人類は、原始共産社会は別としても、その後は「人種」「民族」「階級」「宗教」「言語」、そして「国家」などの実態に何千年も縛られてきた。 これらの実態は非常に重いものだ。まだまだ何百年かそれ以上も続きそうだ。
しかし、例えば“地球温暖化防止”一つを取ってみても、人種や宗教、国家などを乗り越えた問題である。そうしたグローバルな問題は他にも数多くあるし、今後はもっと増えてくるだろう。 それらは、国家というより人間個人々々にとって重要な問題なのである。こういった問題は、ナショナルではなく“インターナショナル”なのだ。
人類や人間個人々々にとって重要なことは、“普遍的”ということである。“普遍的”ということは、人間の権利、自由、解放と最も密接につながっているものである。 アナーキズムは誕生以来、それらのテーマに真正面から取り組んできたことは間違いない。
アナーキズムの理想、つまり社会的には「国家の廃絶」といったものは、もちろん容易に出来るわけがない。 そんなものは何百年経っても出来ないかもしれない。民族や国家といった実態は非常に重い。 それらの“呪縛”は半永久的に続くような感じさえする。
だからこそ、これからも断続的に「アナーキズム」が甦ってくる気がしてならない。 人間はいつでも“見果てぬ夢”を見るように、アナーキズムを思い出すことがあるだろう。人類が続く限り、アナーキズムは一種の“宿業的”な思想なのかもしれない。 以上、大杉栄とアナーキズムについて考えてみた。 (元記事は2002年11月4日に執筆)
大杉栄の墓(静岡市・沓谷霊園。筆者が撮影)
小林多喜二もそうで、南アフリカで、白人政府に虐殺されたビーコも大変女性にもてたそうで、白人政府の目の敵になって殺されたそうです。
軍部に最も憎まれた男です。
先日、たまたま「マンデラ」という映画を見て感動しましたが、スティーヴ・ビーコという人も南アの指導者だったのですね。昔「遠い夜明け」は見ましたが、あの中に出てきたのか・・・ 忘れました。
もう一度「マンデラ」や「遠い夜明け」を見てみたいと思います。
昔、伊藤野枝という女性革命家を何かの本で知りましたが夫大杉栄と共に凄惨な刃のもとに人生を終えましたね。高揚したままの人生だったと思います。
あの時代の彼らはそれぞれ、時代の宿命を背負った人間として自覚を持っていたのでしょう、ある意味羨ましいような、特異な人生の終え方ですね。
このため自業自得か、いろいろな災難にも遭いましたね。しかし、あの時代を代表する知識人だったことは間違いありません。
最近、深作欣二監督の映画『華の乱』を観ましたが、主人公の与謝野晶子とも親しかったことが分かりました。両者とも大正ロマンを体現した人物だったと思います。
惜しむらくは、もっと長生きして昭和の時代もリードしてもらいたかったと思います。しかし、長生きしても「軍国主義」の犠牲になったことは変わりないでしょう。
昔から歴史のある大杉一族でも格式ある立派な家柄でしたが、戦前は憲兵や軍部の監視が厳しく、ひっそりと生活しておられました。
今なら大杉栄記念館でもできそうな雰囲気ですが、近年家屋敷が取り壊され、土地は分譲住宅として転売され、ご子息は一部のこじんまりとした土地に住んでおられます。
取り壊された祭に、大杉栄さんに関する手紙等の関係資料も廃棄されていると思われます。
世が世なればと残念ですね。
大杉栄の実家などについては以前 聞いたことがありますが、最近の状況は初めて知りました。
思想や立場の違いによって大杉の評価はいろいろですが、歴史上、思想上は忘れられない人物だと思います。
それなりの扱いや、資料の保存などは当然だと思っています。