<復刻>
板門店(はんもんてん)はピョンヤンから南へ220キロぐらいの所にあり、韓国と朝鮮の軍事境界線が通っていることで有名だ。分断国家と冷戦の“象徴”のような所だから、ぜひ行ってみたいと思っていた。
朝9時ごろ、高麗ホテルを出発。「統一通り」と言って、南へ一直線に伸びる道をワゴン車でひたすら走る。途中に休憩所が1カ所あり、そこでトイレに行ったりコーヒーを飲んだりした。
軍事境界線に近づくと検問所がたしか3カ所あり、軍人の検問を受けた。何となく緊張感が高まる。しかし、開城(ケソン)に近づくとのどかな田園地帯が広がり、気分が和らいだ。牛が何頭か草を食んでいる。
やがて、右手に開城の「工業団地」が見えてきた。ここは韓国と朝鮮が経済協力をしている所で、今のところ順調に協力が進んでいるらしい。
板門店に到着すると、すでに大勢の中国人観光客がいた。彼らはけっこう大きな声を出す。ガイドのFさんが「中国人は少しうるさいですね」と苦笑した。私も声が大きい方だが、「同感だ」と答えておいた。構内には立派な土産物店があり、中国人らが物色している。ここは完全に“観光スポット”で、すっかりくつろいだ気分になった。私もここで高麗(朝鮮)人参を買った。
待ち時間があったので、案内板の近くの長椅子に座っていると、年配の軍人が声をかけてきた。穏やかな風貌で田舎の“オジサン”という感じである。でも、胸に沢山の勲章を付けているから、それなりの地位にある人なのか。
Fさんを通じて「日本の原発事故はどうですか?」と聞いてきた。ここでも福島原発事故か~~~。仕方がない。私は知っていることを簡潔、丁寧に答えた。事故の収束が長引くことなどを伝えると、年配の軍人は熱心に聞き入っていた。 放射能汚染が周辺国に不安を与え、迷惑をかけているのも事実だ。私は最後に、率直に「申し訳ない」と陳謝しておいた。(続く)
「板門店」の土産物店
案内板の前で
板門店は南北両国から見学ができるが、韓国からの訪問は色々な制約があって厳しいそうだ。ところが、朝鮮からは実に気楽に入ることができる。そこが面白い。
何事も朝鮮の方が厳しいように思われるが、こと板門店だけは別のようである。ここが重要な“観光スポット”になっているのは間違いないが、朝鮮側は自国が『朝鮮戦争』に勝利したと思っているからではないか。われわれ日本人から見れば、朝鮮戦争は“引き分け”のように思えるが、朝鮮国民は勝利したと教え込まれている。だから、勝利の足跡を見せてやるということで、見学にも寛大なのだろう。
不精な私がカメラを写さないでいると、ガイドが「どうぞ撮って、撮って」と言う。ふだんはカメラ撮影に神経質な朝鮮だが、板門店は別格のようだ。
さて、幾つかの会議室を案内されたが、1953年に停戦協定が調印された式場は印象深い。広い会議室には朝鮮軍と国連軍(米国・韓国側)が調印した当時のテーブルが2つ残っており、朝鮮国旗と国連旗が置かれている。中国人観光客がそこで自由に撮影するから、私も負けじと朝鮮・国連双方のテーブルでカメラに収まった。
それからガイドの案内で、軍事境界線が部屋の真ん中を通る「軍事停戦委員会本会議場」へ行った。ここも撮影が自由である。私は案内役の愛想の良い軍人と記念撮影をした。
外へ出ると、ガイドのFさんが韓国側を背景に写真を撮ろうと言う。驚いたことに、彼女は「あれが韓国の“自由の館(やかた)”ですよ」と言った。自由を求めて、朝鮮側から韓国への亡命事件が幾つもあったというのに、そんなことは全く関係ないといった風情である。
こうして板門店見学は楽しく終わったが、ここだけは朝鮮側の方が韓国よりもずっと“自由”のようである。(続く)
停戦協定の調印式場
朝鮮国旗の前で
国連旗の前で
停戦委員会本会議場でガイドの軍人と
韓国の「自由の館」をバックに (ジジイの顔ばかりで申し訳ない!)
訪朝している間に一番残念だったのは、ピョンヤンのサーカスが見られなかったことだ。私がぜひサーカスを見たいと言ったのに、ガイドのFさんは「今は“田植え”で忙しく、サーカスはやっていません」と言う。
そうか、田植えの時期になると、サーカス関係者も観客も総動員で田んぼへ行くから、サーカスどころではなくなるのだ。食糧不足の朝鮮ならではの話である。ピョンヤンのサーカスは有名で、市内に立派な「専用劇場」が2つある。特に空中ブランコは素晴らしいもので、去年末、ある人のサイトで映像を見てから訪朝したくなったのだ。
残念。またの機会にサーカスを見ようか・・・と思っていたら、Fさんが意外なことを言う。「プエブロ号を見ませんか?」
なに! プエブロ号? そんな船が今も朝鮮に残っているのか・・・
「プエブロ号」というのは1968年1月、朝鮮の領海を侵犯したとして拿捕されたアメリカの“スパイ船”のことである。アメリカは“環境調査船”と言っているが、領海を侵犯したかどうかは別にして調査活動、つまりスパイ活動をしたのは間違いない。
当時、私はフジテレビの事件記者(警視庁担当)をしていたが、このプエブロ号事件のことはよく覚えている。乗員83名(うち、1名は銃撃で死亡)が朝鮮に身柄を拘束されたというので、米朝関係はにわかに緊迫した。
ちょうどその2日前、朝鮮側のゲリラ部隊が韓国に潜入、朴大統領を暗殺しようとして未遂に終わった事件が発生していたから、米朝関係も南北関係も一触即発の事態になったのだ。
すわ、第2次朝鮮戦争勃発か!? 日本にいる我々も緊張した。ところが、アメリカは当時、ベトナム戦争を大々的に進めている最中だったから、兵力を朝鮮半島に送る余裕がない。原子力空母・エンタープライズを佐世保から朝鮮沖に派遣することしかできなかった。
結局、アメリカは外交交渉で乗員と船の引き渡しを求めざるを得なかった。それから延々と、米朝両国間で交渉が行なわれた。結論から言うと、その年の12月に乗員82名が解放され帰国したが、プエブロ号はついに返還されなかった。
これが「プエブロ号事件」である。私は朴・韓国大統領暗殺計画に失敗した朝鮮が、その失敗を取り返すために事件を起こしたのではないかと見ている。大勢のアメリカ兵を“人質”に取り、外交交渉を有利に展開しようとしたのだろう。
事件の本質に迫る時間はないが、プエブロ号はいわば“戦利品”である。朝鮮はこの船をピョンヤンの大同江で“さらしもの”にし、訪れる人たちに「反米感情」を煽るために利用しているのだ。
Fさんの話では、今でもアメリカ側から、ある筋を通して返還してくれとの要請があるという。プエブロ号が返還されるとすれば、米朝関係が正常化する時しかないだろう。
ガイドの案内で船内に入ったが、英語、フランス語、ロシア語など何カ国語もの解説付きで、プエブロ号事件のドキュメンタリー映像が流される。私はもちろん、日本語の解説付きでドキュメンタリーを見た。長くなるので、本日はこれまでにしたい。(続く)
拿捕されたプエブロ号
プエブロ号の機関銃
捕虜釈放に関する米朝合意文書
プエブロ号の前で
ピョンヤンの郊外に万景台(マンギョンデ)という風光明媚な所がある。大同江の下流のほとりだが、ここに故金日成主席(以下、敬称略)の生家が残っている。私が行った時はちょうど小学生の一団が見学に訪れていたが、朝鮮国民にとってはいわば“聖地”みたいな所なのだろう。
金日成(キム・イルソン)は言うまでもなく“朝鮮建国の父”であり、今の金正日総書記の父に当たる。ガイドがよく「チュチェ○○年」と言うから、何だと思ったら、金日成が生まれた1912年を「チュチェ元年」として数えているのだ。
それから言うと、今年2011年はチュチェ100年に当たり、生誕100年の来年はチュチェ101年となる。たぶん、盛大な式典が行なわれるのだろう。チュチェとは「主体」という意味だ。
生家は軒の低い藁(わら)ぶきの家で綺麗に整っていたが、いかにも貧しい農家という感じだ。昔の朝鮮の農家はこうだったのだろう。この辺は公園みたいな佇まいで心が落ち着く。散歩するには絶好の所だと思った。(続く)
生家の全景
見学する小学生の一団
部屋の内部
生家記念碑の前は花束が一杯
ガイドと記念撮影
2人のガイドさんが日本語が非常に上手なことは述べたが、彼らとの興味深い話を思いつくまま語っていきたい。朝鮮を知る上で参考になるのではないか。
M氏は22歳から日本語を学んだという。始めたのが遅かったが、ピョンヤンの日本語専門学校に通ったそうだ。彼はとても生真面目な感じで、礼儀正しい。初めはタバコを吸わなかったが、私が吸っているのを見てようやく吸い始めた。
「自由に吸ったらいいのに」と言うと、「朝鮮では目上や年上の人の前では吸わないのです」と答えた。目上や年上がタバコを吸うと、初めて自分も吸っても良いということらしい。その辺が規律正しい。
これはどうも“儒教”の精神だろうか。韓国も儒教の習わしが浸透している。朝鮮半島全体が、伝統的に儒教の教えを基本にしているようだ。ビールを飲む時もそうだった。M氏が注いでくれるからグラスを持ち上げると、「テーブルに置いてください」と再三言う。年上や目上の人はグラスを置いたままにしておく。そこにビールを注いでくれるのだ。
M氏は初めから何度も「矢嶋先生」と呼ぶ。“先生”なんて呼ばれる柄ではないから、「その先生と言うのは止めて欲しい!」とはっきり言ってやった。すると、M氏は「駄目です。そう呼ぶことになっています」と言って聞かない。しょうがないから諦めたが、結局、「矢嶋さん」とは呼んでくれなかった。そう頼んだのに・・・
一事が万事そうだから、「朝鮮も儒教の教えが残っているんだね?」と聞いたら、儒教に対してはきっぱりと否定する言い方をした。それはそうだろう。共産主義は儒教を否定してやってきたのだ。中国もそうだった。
しかし、人間関係や社会慣習で儒教の習わしが根強く残っていると私は思う。こう言っては何だが、この儒教的な“土壌”が、朝鮮のような全体主義にとって案外と好都合なのではないか。 金日成・正日・正恩と続く世襲の権力継承は、まさに儒教的世界の見本のようなものだ。
そんなことはM氏には言わなかったが、中国が世襲の権力継承を認めないのに対して、朝鮮はそれが当然といった雰囲気がある。戦前の日本が教育勅語などで、「君に忠、親に孝」といった精神を徹底させたことに、どこか似ているような気がした。(続く)
ガイドのM氏(右)とFさん(左)
外交や政治の話もよくした。韓国と朝鮮の関係は去年のヨンビョン島砲撃事件などで悪化しているが、南北の対話を継続しようという動きが消えたわけではない。
話をしているうちに分かったが、2人のガイドさんは金日成の「高麗連邦共和国」構想を未だに奉じている。これは「一国・二制度・二政府」のようなものらしいが、韓国はこれに反対している。
民族の統一は朝鮮人民の悲願だろうが、そう簡単にいくわけがない。韓国内にも“南北格差”の現実から「統一」を嫌がる人が多いと聞く。少し悪かったが、私は「その(金日成の)構想は無理だろう」と言ってしまった。2人は黙っていた。
朝鮮の人たちは、今の韓国の李明博(イ・ミョンバク)政権を嫌っているようだ。朝鮮に対して“タカ派”だからだろう。2人はどうやら、李明博と同じハンナラ党の朴槿恵(パク・クネ)女史には好意的である感じがした。朴槿恵は以前、金正日にも会っているし、より民主的で話が通じるとでも思っているのだろうか。
ガイドさんがもしそう思っているなら、それは朝鮮労働党の姿勢なのかもしれない。なにせ、上から下まで意思統一される国だからだ。いずれにしろ、来年の韓国大統領選が注目される。
日朝関係については、前にも話したように、彼らも国交正常化を望んでいることは間違いない。Fさんが面白いことを言った。「私たちはこうして日本の方をお迎えしているのに、日本は私たちを受け入れてくれないのです」
なるほど、その通りだ。しかし、それには朝鮮が拉致事件を起こしたり核実験などをするから、日本が経済制裁をしたり人的交流を阻んでいるのだ。そんなことは分かっているじゃないか。そう思ったが、また論争になるので止めた。
不毛な論争を避けて、少し酔いが回った私は、自嘲気味に「日本はしょせん、アメリカの犬・ポチなんだ。米朝関係が正常化すれば、おのずと日朝関係も正常化するよ。日本と仲良くしたいなら、まずアメリカと仲直りしたら・・・」と言ってやった。日本はアメリカの犬・ポチだと聞いて、2人は苦笑していた。私も苦笑した。
しかし、今の日本の外交を見れば、“自主外交”なんて何もしていないではないか。鳩山前首相が「東アジア共同体」構想をぶち上げた時は、これは新しい時代が始まるぞと期待したが、鳩山が退陣した後は、また元の「対米追随外交」に完全に戻ってしまった。だから、癪(しゃく)に障って「日本はしょせん、アメリカの犬・ポチなんだ」と言ってやったのだ。(続く)
ピョンヤンには建設中、工事中といった建物などがかなりあるようだ。ところが、そういった所は観光コースから外されている。例えば、金日成主席の巨大な銅像が立つ万寿台(マンスデ)大記念碑は観光客なら必ず案内される所だが、今回、工事中ということで行けなかった。
建設中、工事中であろうと、名所・旧跡なら普通は案内されるものだ。しかし、当局は観光コースからそれらを外してしまう。何故だろうかと思った。体面や面子から外すのか。それもあるだろう。朝鮮は外からの評判を非常に気にする国だ。
特に資金や電力などが不足して建設、工事が遅れているのを見せたくないようだ。そこで思い出したのが、欧米諸国から“世界最大の廃墟”だとか、“史上最悪のホテル”などと揶揄されている「柳京(りゅうけい)ホテル」のことだ。
このホテル(参考映像⇒http://www.youtube.com/watch?v=s-4uSEVbMYw&feature=related)は1987年に着工され、当時は世界一の巨大ホテル誕生かと騒がれたものだ。高さ330メートル、105階建てで客室数3000室というピラミッド型の壮麗なホテルになる予定だった。 ところが、資金や電力の不足、さらに設計ミスなどがあったらしく工事は長い間中断され、先ほども述べたように欧米諸国からさんざん皮肉られたのだ。
ピョンヤン市内を観光中、はるか彼方に柳京ホテルの“尖塔”が見える。私はガイドのFさんに、「あれはいつごろ完成するのだろうか?」と聞くと、彼女は「来年には完成する予定です」と答えた。
そうか・・・来年は金日成主席生誕100年に当たるから、何としても完成させたいのだろう。それまでは、全ての外国人や観光客らを近づけないようにしているのだ。私は「今度、ピョンヤンに来たらあのホテルに泊まりたいね」とFさんに言った。
ピョンヤンの著名な建築物や記念碑は、ほとんど金日成時代に建てられている。これも“国威発揚”だろうが、金主席を記念する物が多い。金日成はよほど建築物が好きだったのか。
しかし、金日成の死後、資金不足や電力不足などで建築はだいぶ抑えられたようだ。それはそうだろう。まず、人民が飢えから解放され食べられなければならない。いくら「強盛大国」と言ったって、人民が飢餓に苦しむようでは話にならない。今でも朝鮮は食糧不足なのだ。外国から食糧援助を受けなければならないとは、国家として恥ずかしいことである。もっとも、朝鮮は75%が山間部だから厳しい面もあるが・・・
巨大な建築物も良いが、国民を食わせ養うことが国家の使命である。そういう意味で、朝鮮はどこか“アンバランス”な面があると思わざるを得なかった。(続く)
生活全般の話をしよう。思い出したことをアトランダムに書いていく。
朝鮮は全く地震が起きないそうだ。東日本大震災の話をしたら、Fさんは「私は一度も地震の経験がありません」と言う。「地震は怖いですか?」と聞くから、「怖いよ~」と答えておいた。
余談だが、彼女は「その後、日本の“余震”はどうですか?」と聞いてきた。余震という言葉がすんなり出るところに、彼女の日本語能力の高さをを思い知らされた。Fさんは何か分からない日本語があると、すぐに「電子辞書」で調べていた。ちなみに、彼女はピョンヤン外国語大学を卒業している。
朝鮮ももちろんコンピュータ社会になっているが、ブログとかツイッター、フェイスブックの話をしても、ピンと来ないようだった。報道や情報は規制されているから、海外のニュースが自由に入ってくるわけがない。これでは“井の中の蛙(かわず)”になっても仕方がないだろう。私がエジプト、リビアなど中東各国で、フェイスブックが社会変革をもたらしたことを話すと、2人のガイドさんは興味深く聞いていた。インターネットで恋愛をしたり、結婚に至ることもあるよと言ったら、Fさんは「へえ~」と面白そうな表情を浮かべていた。
私がテレビ局でアルバイトをしている話をすると、Fさんが「どのくらい貰えるんですか?」と聞いてきた。「だいたい、月に○○万円だ」と答えると、彼女は黙ってしまった。暫くすると、Fさんは「私は日本円で月収1万円ぐらいです」と言った。そして「Mさんは子供さんがいるので、1万円ちょっとですかね」と続けた。
なんと安い給料だろうか。しかし、ピョンヤンと東京では物価に大きな差がある。それに、朝鮮は社会主義国だから、教育費や医療費などは全て“タダ”である。給料が安くても、人生観や価値観、幸福感にはそれほど関係ないだろう。
街ゆく人たちを見ても、それなりの服装をしている。Fさんもさりげなく上着を替えて現われる。日本のように派手な服装はしていないが、昔の「人民服」姿の中国に比べれば、ずっと垢抜けした感じがする。もっとも、今の中国はずいぶん変わったが・・・
M氏もFさんも少し意地悪いところがある(笑)。 前日、ピョンヤン市内を案内した時に説明した道路名を、翌日聞いてくることがある。「この通りは何て言いましたっけ。覚えていますか?」と聞いてくるのだ。
しかし、70歳近い“もうろく爺”が覚えているわけがない。「う~む、何て言ったけな・・・」と思い出そうとするが駄目だ。すると、ガイドさんは「○○通りですよ」とか「××通りです」と説明する。「ああ、そうだったな・・・」と答えるが、まるで2人の家庭教師に教え込まれている生徒みたいなものだ。とにかく、2人の“家庭教師”は熱心に教えてくれる。それは良いが、覚えが悪い私はまるで落第生のようなだ。
彼らの愛国心とか国家への忠誠心というのは、相当なものである。それで「朝鮮」が成り立っているのだろう。日本とは比べようもない。闇雲(やみくも)で排他的な愛国心は良くないが・・・(続く)
「少年団」への入団式。小学3年になると入団する。(チュチェ思想塔の前で)
写りが悪いが、某中学校で私ら“外国人”3人のために、生徒たちが沢山の唄を一生懸命に歌ってくれた。
カムサハムニダ(ありがとう)!
朝鮮旅行は有意義なものだったが、最後に個人的な話で締めたい。
正直言って、普通の「観光旅行」とはかなり違う雰囲気だったので、朝鮮にいる間、無意識のうちにも“緊張感”があったと思う。それは仕方がない。最も近い国なのに国交がない、拉致や核問題など難問を抱えている、何をするか予想もつかないお国柄・・・そういった意識から緊張感が続いたのだろう。
しかし、2人のガイド・M氏とFさんは本当に良く私の面倒を見てくれた。商売柄だろうが、「(お年のわりには)足が速いし、よく動きますね」とお世辞も言ってくれた。実は私は右腰が少し痛かったのと、左足に“魚の目”ができていたので歩きずらかった。しかし、ほど良い緊張感がそんなものを吹き飛ばしてくれた。これが普通の観光旅行だったら、腰が痛いとか歩きずらいと言って文句を垂れていただろう。特別な国(日本から見ればだが)へ行ったことが、かえって幸いしたのだと思う。
私は昔、フジテレビの記者をしていたが、訪朝する前に、朝鮮の総代理店である日本の旅行会社から、「ジャーナリスト活動はしませんね」とクギを刺された。朝鮮側は、ジャーナリストや自衛官、警察関係者の入国を原則として認めていない。そんなことは知っているから、私は「一観光客として訪朝するのだ」と強調しておいた。
しかし、入国してからは、2人のガイドさんや運転手さんに対し、言いたいことをズケズケと言い、聞きたいと思うことをどんどん聞いた。その点は、普通の観光客でなくジャーナリストみたいだったろう。こんな異色の“観光客”はいなかったはずだ。
私はマスメディアに記事を書くことはしないが、自分の「ブログ」には書くぞと予告しておいた。向うはブログに書かれるぐらいは大したことはないと思っただろう。ブログというものをあまり知らないからだ。
今回の旅行は3泊4日と短かく、朝鮮とピョンヤンのほんの一部のことしか分からなかった。しかし、行って良かったと思う。次にもし機会があれば、さらに新たなことが発見できるだろう。
“単独ツアー”のような形だったので、費用は30万円余りと高くついた。年金生活者にとっては馬鹿にならない金額である。しかし、内容は充実していた。こうして、ブログで報告できるだけでも満足である。
朝鮮は“近くて遠い国”、未知の国である。私の報告が朝鮮を知る上で何らかの参考になってもらえれば、まことに幸いである。なお、折にふれ、思い出したことやこぼれ話などを今後も書いていきたい。(2011年6月26日)
ミンさん、ファンさんはお元気ですか。体調が良くなれば、また行きたいですね。
日朝国交正常化はぜひ実現したいものです。
もう行かないですか?遠いですよね北国は。
私の報告が何らかの参考になれば、こんなに喜ばしいことはありません。
原文を多少修正しているところですが、大筋は変わりません。どうぞじっくりと読んでください。
とても、読み応えのある記事ですね!
眼が悪くて全部読むことが出来ず残念です。
何度かに分けて読ませていただきます!!!
ある程度、想像はしていましたが、より現実のお隣のお国の事情が分かりました。
私の理解していた事は、韓国の映画やドラマで知るていどですが・・・