〈2011年8月12日に書いた以下の記事を復刻します。〉
<はじめに>
1985年8月12日、日本航空123便が群馬県の山中に墜落し、520人が死亡した。いわゆる「日航ジャンボ機墜落事故」である。そこで過去の記事になるが、この事故を風化させないためにも、復刻することにしたい。 第1部は「圧力隔壁損壊への疑問」、第2部は「米軍機による誤射説」としておく。
墜落した日航ジャンボ機・JA8119
第1部
日航機墜落の事故調査委員会によれば、ジャンボ機(ボーイング747)の後部圧力隔壁の損壊が事故の主な原因だとしているが、これは極めて怪しい。関連するインターネット記事を徹底的に調べたが、そんなことは有り得ないという心証を強くするばかりである。もとより私は航空工学の専門家ではないが、多くの人の証言、分析を集約するとそういう結論になるのだ。
まず、圧力隔壁が損壊・破壊されれば、機内の空気圧(与圧)は急激に低下したり気温が下がったはずである。しかし、ごく少数の生存者の証言にはそうしたものはない。また、相当数の乗客のメモ、記録、遺書類にもそうした記述は一切ないのだ。
実際に圧力隔壁が損壊した事故の場合、機内の気圧は急速に低下、白い水蒸気のような気体が充満し、乗客・乗員がみな“航空性中耳炎”になったという。(1986年10月26日、高知上空で起きたタイ航空機の圧力隔壁損壊事故の場合)
また、減圧症により乗客・乗員が意識を喪失する可能性が高い。実際に、2005年8月14日、キプロス・ヘリオス航空機がギリシャ北部で遭難した際、操縦士が意識を失ったというのだ。 ところが、日航ジャンボ機の墜落事故の場合は、そんなものは一切起きなかった。さらに、メモや遺書類を書いていた乗客も多数いるのだ。
次に、もし圧力隔壁が損壊したと仮定した場合、機内の空気圧が急速に抜けて風が起きるのだが、頑丈な「垂直尾翼」を破壊するには、それこそ乗客を座席ごと吹っ飛ばすぐらいの「突風」が起きなければならない。ところが、そんな現象は全く起きていないのだ。それとも、垂直尾翼は“玩具の飛行機”のようにヤワに出来ていたのだろうか。そんな馬鹿なことはないだろう。
以上が、圧力隔壁損壊説が極めて怪しいという証左だが、ボーイング社が事故原因を圧力隔壁の修理ミスにしたのは、他の気密安全の構造上の問題(隔壁後部の安全弁不具合の可能性)を隠し、事故の早期解決を図ったという見方が出ている。事実、上記の気密安全構造は後に改修されていたのだ。(この部分はウィキペディアの「日本航空123便墜落事故」を参照・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85#.E5.9E.82.E7.9B.B4.E5.B0.BE.E7.BF.BC.E3.81.AE.E7.A0.B4.E5.A3.8A)
なにか難しい話になってしまったが、圧力隔壁損壊が事故原因でないとするなら、当然、“外部からの衝撃”などが墜落原因として考えられるだろう。風や気流の影響で飛行機が遭難するケース(フラッター現象など)も多い。
1966年3月5日、BOAC・英国海外航空機が富士山付近の上空で乱気流に巻き込まれ空中分解したこともある。しかし、日航ジャンボ機墜落の原因は今のところ全て仮説であり、はっきりと特定されていない。
外部からの衝撃となれば、他にもいろいろあるだろう。まさか“隕石”が垂直尾翼を直撃したわけでもあるまいが、さらに事故原因を徹底的に究明する必要がある。それには、ブラックボックス(フライトレコーダー)や元のボイスレコーダーなどが公開されなければならない。
遺族を始め関係者、マスコミ、国民もそれを望んでいるはずだ。国土交通省は英断をもって、事故原因の解明に役立つ全ての資料を公開してもらいたい。
第2部
昨年8月15日の「オルタナティブ通信」の記事によって興味を持ったのだが、それによれば、米軍の機関誌「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」という雑誌の1985年8月27日号(日航ジャンボ機墜落事故から15日後の発行日付)に、米空軍の輸送機C130のパイロットであるマイケル・アントヌッチ中尉が以下のように証言しているというのだ。
「事故当日、空中戦の演習を行なっていた米軍練習用戦闘機から事故が起こったとの緊急無線が入り、一番近くを飛行していた私のC130輸送機が事故現場へ救出のため急行した。
いつものようにアメリカ空軍の練習用戦闘機が、日本の民間旅客機をターゲットにミサイル発射のシミュレーション演習を行なっていたところ、安全装置が解除されている事に気付かず、実弾ミサイルを日航ジャンボ機に命中させてしまった」というのが、無線の第一報の内容だった。
なお、このマイケル・アントヌッチ中尉は、日本政府から奇妙な事に『緊急の救助のために現場に行かなかった事、第一報の無線も聞かなかったと発言するよう要請された』と語っている。
以上が「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」の記事だそうだが、調べてみると、在日米軍はなぜか非常に早い時点でジャンボ機の飛行状況を把握していた。(以下、ウィキペディアを参照・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85#.E5.9E.82.E7.9B.B4.E5.B0.BE.E7.BF.BC.E3.81.AE.E7.A0.B4.E5.A3.8A)
米軍横田基地の管制官は、迷走飛行中のジャンボ機に対し繰り返し呼びかけをしていたし、ジャンボ機の近くを“偶然”飛行していたC130輸送機のパイロットが、当日の午後7時15分頃に「火災を発見した」と報告し、墜落場所を把握していたという。(墜落時刻は午後6時56分過ぎである)
また、在日米軍による墜落場所の特定と、ヘリによる救出の申し出は事故当日にニュース速報として流されたのに、翌日未明にはなぜか「すべて誤報であった」と否定された。
これらを分析すると、符合する点がいくつかあるようだ。まず、ジャンボ機の近くを偶然飛行していたC130輸送機のパイロットは、アントヌッチ中尉だろうし、米軍による墜落場所の特定とヘリ救出の申し出という速報が“全面否定”されたのは、日本政府からの要請を受けて「無かったこと」にする工作が行なわれた疑いが生じる。
したがって、この当時はジャンボ機の事故原因について様々な憶測が生じたり、事故から10年後に「在日米軍による墜落場所の特定・救助の申し出は事実だった」という報道もあったのだ。
事故原因については、金属疲労による圧力隔壁の損壊が有力視されているが、断定されたわけではない。はっきりしている事は、ジャンボ機が墜落する30分ほど前に、相模湾上空で突然の衝撃音と共に「垂直尾翼」が破壊されてしまったのだ。 尾翼の多くの部品が相模湾に落下したにもかかわらず、事故調査委員会の捜索が不十分だったことがよく指摘されている。事実、相模湾に落ちた尾翼の大半は回収されていない!
とにかく、520人もの死者を出した過去最悪の航空機事故だっただけに、UFOによる撃墜説まで飛び出したほどだ。それはともかく、万が一にも米軍機のミサイル誤射による撃墜だったとしたら、これは日米間で大問題になる。
そうでないことを祈るが、事故原因が100%解明されたわけではない。「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」の記事がどこまで信憑性があるのか分からないが、こういった話が出てきた以上、事故原因を含めてもう一度徹底的に検証する必要があるのではないか。(2011年8月12日)
その他の参考記事
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak41/msg/499.html
http://www.asyura2.com/10/bd58/msg/512.html
その中で、三光汽船問題で官邸にいた記者は、記者クラブのテレビを見てしまい大騒ぎになり、徹夜になったようです。
特に詳しく書いているのは、NHKの記者であっま露木順一さんで、ブログに数回当たり前に書いていた内容が、歴史から消え失せたことに驚かれていました。
また、ブログを見させていただきます。
当日は社内で仕事に就いていましたが、その時間帯に「日航ジャンボ機がレーダーから消えた」という速報の記憶はありません。
他の業務で忙しかったと思いますが、午後7時15分頃には夜勤の人と引き継ぎをして、退社したと記憶しています。
あまり役に立てなくて申し訳ありませんが、以上です。
いずれにしろ、この大事故は永く語り継がれていくべきだと思います。
実は、個人的に当時のマスコミ関係者に、事故について質問させていただいています。毎日新聞の政治部のキャップやカメラマン、共同通信の記者、NHKのその日に空港にいた方、官邸にいた記者。
そこで、驚くべき事実が発覚しまして、ニュース速報はWikipediaには19時26分が最初と書いてあるが、実は、レーダーから消えた速報が18時50分台にあったという記者が、複数いたという内容です。
こちらのコメント欄を勝手ながら使わさせていただきますが、そのような事実はあったのでしょうか?特に官邸にいた記者は全員が19時のニュースの前にあったと断言されています。
また、何故、公式記録から消される必要があるのでしょうか?
もし、読んでいただき、当時の記憶があられた場合、ご回答いただけたら助かります。よろしくお願いいたします。
当時、報道の人間が殺到しましたが、部署が違う私は現場に行っていません。しかし、後輩の記者やカメラマンによると、遺体はバラバラだったり黒焦げで極めて凄惨な状況だったそうです。もちろん、こういう悲惨な映像はいっさい放送していません。
不幸中の幸いだったのは、乗客乗員のうち4人が奇跡的に助かったことです。蛇足ですが、フジテレビは救出映像をスクープして一躍 名を揚げました。
悲しい思い出になりましたが、あのような御巣鷹山の悲劇は二度と起きないことを願うだけです。合掌
こう書けば不謹慎ですが、事故のあった上野村は当時は素朴な村で私の好きなスケッチ場所でした。
現在は道幅も広くなり、村はかなり変容しました。
時代もありましょうが、あの事故も村の変貌にかかわりがあるのは確かだと思います。