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深夜の呟き

2018-07-16 23:34:42 | 日記
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1 RKK 海の日に明暗 天草の海水浴場

海の日に明暗 天草の海水浴場
2018年07月16日 19:10 現在
16日は3連休の最終日、「海の日」です。熊本県内の海水浴場は、家族連れなどで賑わう一方で、西日本を襲った豪雨の影響を受けているところもあります。

16日の県内は、朝から真夏の太陽が照りつけ、各地で35度を超す、厳しい暑さとなりました。天草市有明町にある四郎ヶ浜ビーチでは、浜辺にビーチパラソルの花が咲き、家族連れや若者のグループが海水浴を楽しんでいました。

「気持ちいい。気持ちいい。冷たい」(海水浴客)

その横では、今月6日からの豪雨で流れ出た流木の回収作業が行われていました。このビーチでは、沖に張った網のおかげで流木の量は最小限に押さえられたということです。

一方、こちらの海水浴場は・・。

「天草市の本渡海水浴場に来ています。私が立っている砂浜はきれいですが海の方に目を向けると、ご覧のように多くの流木やゴミが漂着しています。」(記者)

西日本豪雨で流れ出た流木やプラスチックごみなどが砂浜を覆っていました。

「シーズン前に海水浴場の整備をしていますが今回の大雨でこのような状況になって、かなりひどい状況になっているので驚いています。」(天草市観光振興課 佐藤勇士主査)

海水浴シーズンは、まさにこれから。天草市ではこれから撤去にかかる予算を確保して、早急に対応したいと話します。

「天草市としても流木を早急に撤去して観光客の方が楽しめるような海水浴場にしていければと思います。」(天草市観光振興課 佐藤勇士主査)



意味ん解らんどばってん 天草の話 「織田信長・豊臣秀吉・徳川」

2018-07-16 16:44:11 | 日記
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1 肥後人物伝…細川興秋 - 無門塾 - Gooブログ
https://blog.goo.ne.jp/mumon_1938/e/7ffdcbad7bc6c448b38f7e86cce53d6b

肥後人物伝…細川興秋
2010年07月15日 | Weblog
「興秋公悲話」? とでも、タイトルを付けたいが…。

 細川興秋は、 細川忠興の次男として 天正12(1584)年に 大阪で生まれた。 母は、玉子 即ち ガラシャである。

 一時期、叔父 細川興元(谷田部藩主)の養子となったが、 その折に 名を忠秋から 興秋へと改めた。

 慶長5(1600)年の関が原の戦いに於いては、 父や 兄・忠隆と共に戦功を挙げて、 戦後には興元の後継者として 小倉城代をも任されている。

 慶長10(1605)年、 それまで徳川氏の江戸人質として務めていた 弟忠利の身代わりとなって江戸に向かう途中で、 細川家から出奔した。 弟忠利が 細川家の嗣子となった事への不満からであろうか…?

 出奔の後、 慶長19(1614)年 大阪夏の陣では、 豊臣方に味方したが 敗北した。 この為、戦後に父忠興の命で 京都の伏見稲荷山 東林院で切腹したとされている。
 只し、細川家の菩提寺をはじめ 何処にも彼の墓はない。 一説によると、僧となり 宗専と名乗って 天草へ逃れ、 大庄屋となり代々続いたとも言われている。

 そこで過日、天草の 関係寺院に出かけた。 そのお寺とは、 五和町に在る 「芳ショウ寺」 である。
 当寺は、先ず総体的に見事な構えの佇まいを見せると共に、隅々までお手入れが施されていて、 今時の諸寺に窺える雰囲気とは些か趣を異にしていた。

 この日住職は御不在で、 坊守様が対応して下さった。 アポも取らずに訪ねたので、当初は慎重な対応振りであったものの、 当方の訪問の趣旨を理解して戴くにしたがい 積極的且つ確信に迫った興味深い話を 諸々して下さった。 何でも、自坊に斯様にも高名な歴史的事実が存在する事に誇りを持たれると共に、ロマンを感じておられ 話しが途切れる事が無かった。

※中々 話しが終結しない。 この所、何かと忙しく 落ち着いてPCに向かっておれない、 因みに今日も 天草へと出かけた。 と言うのは、所属する団体etcの県下組織 「熊本県観光ボランティアガイド連絡協議会」 の総会が 天草市本渡で開かれ、参加した次第である。 本渡までは距離があるので、どうしても多くの時間を費やしてしまう。 所で、この1年内に 4回も天草へ出かけているが、 縁のある時は斯様な次第であろう…。

さて 本題へ戻ろう。
 前述で 大阪夏の陣後、興秋は自刃したとした。 然し、それはあくまでも表向きの事であって 秘かに天草へ落ちのび、天草・御領の地で隠棲に過した…と言う。 その証拠に、 天草への旅路は 京都の稲荷東林院から 「長興寺薬師如来」 を 長野幾右衛門 と 渡辺九郎兵衛 と共に奉持したが、 その三体が 当寺に祀られている。 また、 彼等のものと称される墓が、当寺の墓域に存在している など等である。

 更には、後の時代 弘化2(1845)年に 年貢に苦しむ天草百姓の窮状を訴え、 江戸に出て 老中阿部伊勢守に駕籠直訴をした 長岡五郎左衛門興就は、興秋の末裔であり 剛毅任侠にとんだ 大庄屋として慕われ、 天草の佐倉宗五郎とも称された由。 今は 五和支所の一角に 直訴の姿を象った銅像として見受けられる。

 世に、ジンギスカンは 義経の、 天草四郎は 秀頼の生まれ変わりetcとも言われる。 興秋の話とて 何れが真実か定かではないのだろう。 が、 思うに 何れも真実ではないのだろうか? 世には裏と表の生き方もあろうし、 抹殺しておいて 生きのびらせる。 此れとて、有り得る話ではないのか…。         合掌                                           

   
2 長岡興就(天草市) : 好奇心いっぱいこころ旅 - livedoor Blog
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好奇心いっぱいこころ旅

長岡興就(天草市)
2010年09月17日 14:30
▼天草市五和支所にある長岡五郎左衛門興就像
IMG_5638-1
御領組大庄屋 長岡五郎左衛門興就です。

長岡家は肥後藩主の細川家の出自、開祖の長岡興秋は細川忠興とガラシャ夫人(明智光秀の娘)の間に生まれた子とされており、興就は天保3年(1832)父、興生の死去により16歳で第11代目の御領組大庄屋の役を引き継ぎました。

そのころの天草は、ひでり、作物病虫害、風水害、はやり病、大火などに加えて、幕府が取り立てる重い年貢米のほかに、諸経費として法外のお金を割り付けるなど、自然災・人災が容赦なく島民を苦しめたのです。

永年に亘って悲惨な暮らしを見てきた興就は、富岡代官所に出向いて島民の生活苦を訴え、再三救済を願い出ましたが、代官所は聞き入れませんでした。

そこで興就は意を決して江戸へ上がり、弘化2年(1845)12月、江戸幕府老中筆頭阿部正弘の登城途中に「天草の百姓が安心して農作業を続けられる法律を公布して欲しい」と幕府が厳しく禁じた「直訴」を命がけで行ないました。ご法度なことなので結果入牢の罰を受けました。

翌年、悲願であった「天草百姓相続方仕法」が発布されましたが、その内容と興就の入牢に対する不満によりその後の「弘化の大一揆」に繋がっていきます。

興就は一揆の件でも入牢の罰を受け、その後は佐伊津村中村家に預けられ明治2年に没してました。墓は近くの芳證寺に残っています。なお御領神社二の鳥居は、長岡興就により天保11年(1840)に奉納された鳥居です。

住職から聞いた話として、森田実(政治評論家)さんのサイトから転載します。

「天領、天草の初代代官として鈴木重成が赴任し、芳證寺の前身、御領城へ。その御領城のすぐ脇の長興寺薬師堂の住職を見て代官は驚いた。京都で自刃したはずの細川ガラシャ夫人の次男、細川興秋そのものだった。

細川家は、大阪の陣では兄興秋は豊臣側に、弟忠利は徳川側につき、兄弟で敵味方に別れて戦い、

どちらが勝っても「細川家」という「家」が残る策を取りました。

徳川方についた忠利はその功により、肥後五十四万石熊本城の城主として君臨。破れた、興秋はその責により京都で自刃して果てたこととなっていました。しかし当時、出家姿となり、天草に落ちのび御領城脇に長興寺という寺を建て隠棲された。

鈴木代官は徳川幕府の命により天草初代代官、かたや敵である豊臣側の重臣細川興秋。しかし、当時は江戸の安定期であり、肥後五十四万石城主の兄君であるという判断により、そのことは内密になされました。そして代官は荒れ果てた天草の乱後の島内の民心安定と秩序回復、邪宗封じのため兄、江戸時代の名僧といわれる鈴木正三の手を借りて多くの寺院建立に心血を注がれた。」とあります。

つまり、江戸幕府に直訴した御領組大庄屋 長岡五郎左衛門興就は、細川興秋の子孫???
2010年9月4日訪問 
あとがき:かみなかサイクルより自転車を借りて行った。     .

3 三宅重利 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/三宅重利

三宅 重利(みやけ しげとし、天正9年(1581年) - 寛永14年11月14日(1637年12月30日))は、安土桃山時代から江戸時代の武将。幼名は師、与平次。 肥前唐津藩士で、富岡城代。通称の三宅藤兵衛の名で知られる。 概要[編集]. 父は明智光春(秀満、光慶、旧称・三宅弥平次(左馬助))、母は明智光秀の娘(細川ガラシャの姉、お藤とも)と伝わっている。 ... 元和7年(1621年)には2代藩主寺沢堅高によって唐津藩の飛地であった天草を統括する富岡城の城代に取り立てられた(知行は計1万500石)。 元はキリシタン


天草の映画館「本渡第一映劇」存続へ

2018-07-16 13:08:36 | 日記
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1 天草の映画館「本渡第一映劇」存続へ ビル老朽化、市が修繕支援 | 気に ...
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天草の映画館「本渡第一映劇」存続へ ビル老朽化、市が修繕支援
本渡第一映劇が入居するビルの前に立つ柿久和範さん。「多くの人に映画を届けたい」と話す=天草市
 天草市唯一の映画館「本渡第一映劇」が、入居するビルの老朽化で存続が危ぶまれていたが、市の支援を受けて営業を続けることになった。同館代表の柿久和範さん(57)は「これからも多くの人に映画を届けられる」と喜ぶ。

 同館は1965年創業。市文化課によると当時、天草地域には映画館が49館あったが、テレビの普及や娯楽の多様化などに伴い姿を消し、同館も90年に休館に追い込まれた。

 この年、柿久さんは東京から帰郷。翌年に地元の愛好家らと「天草シネマ倶楽部」を結成し、休館中の同館で不定期に映画祭を開催。98年には代表となり、第一映劇を復活させた。以来、年間60~70本を上映している。

 ところが1年前、同館が入るビルの所有者から立ち退きを求められた。ビルは築40年以上たち「このままでは安全を確保できない」などの理由だった。  柿久さんから相談を受けた市は、格安料金で名作が鑑賞できる市民シアター事業を同館に委託していることもあり、所有者と交渉。ビルの検査も実施したところ、構造に問題はないが外壁が崩落する危険があった。

 同館の上映作品のうち約2割がフィルム。柿久さんによると、九州で定期的にフィルム上映をしているのは同館を含む2館だけという。市は「全国的にも貴重な映画館であり、文化的価値が高い」と判断し、外壁の修繕工事費の肩代わりと、10年間の賃貸借契約を所有者と合意した。

 修繕費など400万円の予算は、6月定例市議会が可決。柿久さんが市を通じて従来と同額の家賃を所有者に支払うことで、映画館の存続にめどが付いた。市の担当者は「県外から『第一映劇を残してほしい』というメールが届くなど関心が高かった。施設を残せて良かった」。

 同館で上映される作品のほとんどを見るという地元の主婦、加藤晶子さん(53)は「映画館のレトロな雰囲気や、映画を見た後の常連さんとの会話などはここでしか味わえない魅力」と語る。

 同館は工事のため休館中で、28日に再開する。柿久さんは「映画を通して新しい自分に出会えるところが魅力。天草の人たちに笑ったり感動したりできる瞬間を共有してほしい」と話している。 (中島忠道)


午前の呟き

2018-07-16 10:24:28 | 日記
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1 禁教期の信心具続々 崎津の指導者子孫、宮下さん宅 | 熊本のニュース ...
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禁教期の信心具続々 崎津の指導者子孫、宮下さん宅
信心具として信仰されたアワビの貝殻を見せる宮下謙紀さん=12日、天草市河浦町

宮下家が代々保管してきた古鏡や古銭などの信心具
 世界文化遺産に登録された天草市河浦町の崎津集落で、禁教期の潜伏キリシタン指導者「水方[みずかた]」の子孫宅に、祈りに使う信心具[しんじんぐ]が多数保管されていることが分かった。アワビの貝殻や古鏡、古銭などで、市世界遺産推進室は「禁教期の信心具がまとまって残されているのは珍しく、崎津の歴史を語る上で貴重な資料」としている。

 崎津集落は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の県内唯一の構成資産。貝殻の内側にある模様を聖母マリアに見立てるなど、生業や生活に根差した漁村特有の信仰に価値があるとされる。

 保管しているのは、集落で漁業を営む宮下謙紀さん(75)。先祖代々受け継いだ物として、アワビの貝殻4点や大小さまざまな古鏡、古銭など数十点を古い木箱に大事にしまっていたという。

 天草市が崎津集落の世界遺産登録に動きだした2007年、市の担当者が確認した。このうちアワビの貝殻1点は、16年8月に開設した崎津資料館「みなと屋」に展示しているが、残りは引き続き、宮下さんが保管していた。

 市は世界遺産登録を機に、全ての信心具を宮下さんから借り受け、説明できるものを公開する。同推進室の中山圭学芸員(41)は「キリスト教伝来期に宣教師が伝えたと思われるメダイ(メダル)から禁教期の信心具までそろい、崎津の価値をさらに高める」と評価する。

 宮下さんは「皆さんに見てもらうことで、崎津のPRになれば」と話している。

 宮下さん方の信心具は、28日~9月17日にみなと屋で開かれるキリシタン関連史料約120点を集めた特別展で初公開される。(谷川剛)

2 信仰と観光、共存を 住民参加でルール作り 世界遺産登録の崎津集落 | 気 ...
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信仰と観光、共存を 住民参加でルール作り 世界遺産登録の崎津集落
熊本日日新聞
2018/07/11 12:00

崎津教会前で観光客に対応する吉村恵美子さん=1日、天草市河浦町
 「教会内に入ることはできますが、撮影はご遠慮ください」。天草市河浦町の崎津集落。観光の目玉である崎津教会近くで、観光案内所スタッフの橋本悦子さん(70)が道行く観光客に声を掛けていた。

 「以前、神聖な教会の扉を乱暴にたたく若い人がいて、思わず『帰れ』と怒ってしまいました」。橋本さん自身は信者ではないが、祈りの地である崎津に暮らす一人として、観光客のマナー向上に心を砕く。

 崎津教会は1934年、禁教期の村の庄屋宅跡に建てられた。崎津で布教に当たっていたハルブ神父がその地にこだわったのは、弾圧の象徴である「絵踏み」が行われたからだ。その場所には今、祭壇がある。潜伏キリシタンの流れをくむ集落にとって、特別な場所なのだ。

 このため、世界遺産登録による崎津の“観光地化”を全ての住民が歓迎しているわけではない。世界遺産登録に反対してきた60代の男性信者は「教会内の聖水入れを灰皿代わりに使われたことがある。観光客が増えればこうしたことも増えるのではないか」と心配する。

 一方で、「今のままでは教会施設や集落を維持していくのが難しいことは分かっている」とも。「世界遺産登録が良い方向に向かうよう、今後も信者としての要望をはっきり主張していく」

 6月中旬、崎津集落を含む富津地区の振興会役員や区長らと市職員が、地区のコミュニティセンターに集まった。世界遺産登録を見据え、観光客の受け入れ態勢を話し合おうと、市が呼び掛けた。

 登録勧告後の5月の大型連休中、崎津には大勢の観光客が押し寄せた。その時の混雑ぶりを踏まえ、住民は「バイクは進入禁止にできないか」「写真を撮るために墓地に入る人がいた」「拝観制限を設けてほしい」などと発言した。

 登録後の7~8月は夏休みも重なり、観光客がさらに増えることが予想される。市は「地元の協力が必要」として、住民に観光案内業務への応援を要請。教会の「拝観マナー」や集落の「散策ルール」を記したパンフレットの配布や、混雑時の教会内の入場制限を担当してもらうことを提案した。

 富津地区振興会の森田勝善会長(67)は、「地域振興のため、区長や信徒会のみなさんと協力していきたい」と応じた。協力者を募ると、信者8人を含む11人が手を挙げた。土日祝日に4人ずつ交代で活動する。

 協力者の一人で、教会の信徒会の吉村恵美子会長(67)は「今後は、崎津集落に関するもっと細かなルール作りが必要になる。信者も含めた崎津住民みんなで考えていきたい」。信仰と観光の共存へ、第一歩が動きだした。(牛深支局・谷川剛)

(2018年7月11日付 熊本日日新聞朝刊掲載)


7月16日 スコタコの呟き

2018-07-16 05:21:07 | 日記
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1 天草市に関するトピックス:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/topics/word/天草市.html

熊本)天草の海・山・空楽しむ「Xアスロン」開催
大矢雅弘
2018年7月16日03時00分
写真・図版
ボードに乗ってえびすビーチをスタートする選手ら=熊本県天草市

 シーカヤックやマウンテンバイクなどで天草の海や山、空を楽しむ「第7回天草Xアスロン2018」が15日、熊本県天草市倉岳町一帯で開かれ、県内外から134人が出場した。

 Xアスロンは、同町の豊かな自然を生かし、観光客を呼び込もうと2012年に始まった。競技はシーカヤックやボードに立ったままパドルをこぐスタンドアップパドルボード(SUP)で同町のえびすビーチをスタート。八代海を巡る8・4キロをこいだ後、天草諸島最高峰の倉岳(682メートル)の登山道をマウンテンバイク(20キロ)とトレイルラン(5・5キロ)で駆け抜けた。最後は倉岳中腹から同ビーチをめざすパラグライダー飛行に挑んだ。

 個人でフルエントリー(シーカヤックとSUPはいずれかのみで計4種目)したのは16人だった。

 シーカヤックで44分25秒で第1位になった熊本市東区の会社員千々岩克成さん(29)は初出場。「熊本市の江津湖で毎朝1時間ほど練習しています。うねりとかをうまく利用し、いいペースでこげた」と話した。(大矢雅弘)